尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

セルフリメイク-小津映画の話③

2014年03月06日 21時46分58秒 |  〃  (日本の映画監督)
 小津安二郎の映画は、特に最後の頃のカラー作品などは、みなよく似ている。どの作品が誰の主演だったかなど、映画ファンでもなかなか間違いやすい。どこかの会社の役員をしている父親が、娘の縁談を友人などと相談する話で、娘が自分で見つけてしまったり、実は好きな人がいたりとか、多少はヴァリエーションがある。また、母親が誰かでも物語は変ってくる。でも、父親が友人とバーや小料理屋で飲む場面などが挿入され、その友人が大体固定された俳優なので、どうしても既視感が生じてくる。

 このように似たような作品を連発するというのは、世界の映画監督には多い。フェリーニアントニオーニ、あるいはベルイマンなどの映画も大体似ていた。最近でもウッディ・アレンの映画などは、どれがどれだかよく判らないものが多かった。(と思ったら、ヨーロッパで撮るようになり、都市名が入っている映画はさすがに区別できるようになった。)また、他の芸術分野でもよくあることで、特に絵画の世界では一定の様式を確立して評価されると、その後は似たような絵を描き続けることが多い。

 それを「セルフ・リメイクの作家」と呼ぶことができると思う。セルフ・リメイクは狭義で言えば、自己の過去の作品を自分で再映画化することである。小津の場合、狭義のリメイクは「浮草物語」(1934)と「浮草」(1959)だけだけど、細かく見て行けば「実質的なリメイク」あるいは自己の過去作品からの影響(特に登場人物の名前の共通性)がたくさん見つかる。日本の映画監督には、稲垣浩、市川崑など同じ映画を作った監督が多い。何と言ってもマキノ雅弘が「次郎長三国志」を有名な東宝作品以後も何度も何度も作っている。まあそれは映画会社の依頼で興行的観点で選ばれた企画だろうが。日本の映画界では、過去の作品をリメイクするのはよくあることだった。
(「浮草」)
 同じようなものが連続すると「創造力の枯渇」だなどと思いがちだが、それは近代の「個性」「創造性」などの神話というべきだろう。日本の伝統芸能では先代の芸を受け継いでいくことが重要だった。一定の境地に達すれば、後はそこで確立された様式を再生産し、洗練していくことが評価基準になってくる。だから、小津もそういう日本の芸術的伝統と言う観点から見れば、同じような道行きをたどって、「巨匠」と呼ばれ、映画監督として日本初の芸術院会員にも選ばれたのである。(1963年に選ばれ、同年に死去したので会員期間は短い。以後は山田洋次しかいない。)

 もっともこういう風に思うようになったのは、僕にとっても割と最近のことである。最初に小津映画をまとまって見たのは、多分フィルムセンターの小津特集(1981年)だと思う。(「東京物語」「晩春」「麦秋」などはその前に銀座並木座で見ていたが。)その時にはまとめて何十本も見たのだが、面白いには面白いけれど、似たような映画が連続することにほとんど呆れた。それに松竹で大島渚が「青春残酷物語」を作った同じ年に、ということは「60年安保」の年にということだが、よりによって「秋日和」などという映画を作るというのは、何と言うか「時代とのズレ」も甚だしと決めつけたい気持ちが募った。

 ところが今見ると、大島映画と小津映画が同じ基盤の上で作られていたと思える時代が来た。僕にしたって、小津映画と松竹ヌーベルバーグは仇敵関係にあると思ってきた。小津と吉田喜重が黙って酒を飲みかわした1963年の松竹新年会の有名なエピソードがあるが、同じ会社ながら相容れない映画を作っていたと思っていた。まあ映画史的には確かに対立関係にあったのだが、今見れば大島映画も(「日本の夜と霧」は確かに別だが)「一種のホームドラマ」である。父の権威が失墜し、子ども世代がさまようという「青春残酷物語」の構図は、実は「彼岸花」「秋日和」も同じである。ただし、子の立場から父世代を乗り越えようとし、世代の差異を強調する大島に対し、小津は父の世代にも理解を示す。だが、母の立場、子の立場なども相対化して、「物語としての面白さ」を「落ち着いた」「ユーモラス」な「洗練された話法」で描き出す。

 実はこの「洗練」が昔は嫌だったのである。洗練されていなくていいから、もっと荒々しく現実の矛盾を生々しくむきだしにすることこそ、映画の魅力ではないかなどと思っていたからである。僕は今でもベースにはそういう考え方がある。何度もNGを繰り返し、俳優を追いこんで、自分の望む映像を求める小津映画にある美的な世界には、確かに魅力も感じる。しかし、俳優や技術陣のコラボにより、現場で思いもしない驚くべきデモーニッシュ(鬼神に取りつかれたような、悪魔的)な瞬間が啓示される。映画に限らず、それが芸術の魅力ではないかと思っているのである。小津の話はもう一回。
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美術品として-小津映画の話②

2014年03月05日 22時54分34秒 |  〃  (日本の映画監督)
 小津安二郎監督の映画について、何本か見直した感想。中身を論じる前に、まず映像としての特徴。昨年、小津生誕110年記念で、国立フィルムセンターが松竹と協力してカラー作品のデジタル修復を行った。小津のカラー作品は、1957年の「彼岸花」以降の6本である。そのうち、大映で撮った「浮草」(1959)、宝塚映画で撮った「小早川家の秋」(1961)を除き、松竹で撮った「彼岸花」(1957)、「お早う」(1959)、「秋日和」(1960)、「秋刀魚の味」(1962=さんまのあじ)の4本でなる。

 これらの作品は最近でもよく上映されていた。鑑賞に大きな妨げとなるほどの損傷はなかったと思っていた。2年前に「秋日和」を再見したが、問題は感じなかった。非常に厳しい状態にある戦時中の「父ありき」など、他にデジタル修復して欲しい作品がある。それでも、修復のデモ映像を見ると、画像の傷や飛びが予想以上に多かった。昔のカラー映画の最大の問題は「褪色」だ。一般的な色あせというより、青系が抜けて画面全体が赤っぽい映像になることが多い。チラシにある「秋刀魚の味」のタイトル画面を見ると、こんなに違っていた。(左が修復前、右が修復後。)
 
 いやあ、こんなに違っていたのか。もっとも公開当時を知らないから、見ていても何も感じなかったわけだ。こうして「甦った小津カラー」に何を感じ取るのか。今回の修復は500年間維持できる技術だと解説されていた。解説担当者によれば「美術品としての小津映画」、一つ一つの場面が磨き上げられた美術的な価値を持つことが、今までにも増してはっきりとしたと述べていた。
 
 「彼岸花」を最初に見た人はみな驚くだろう「赤いやかん」など、現実にはありえない家具・調度品の数々、それらの美術的魅力が今まで以上にはっきりした。実際に美術品を画面にたくさん配置している。今までは人物の会話に気を取られて背後の絵画などきちんと見ていなかったが、多くの巨匠の実物が展示されていたのだ。「秋日和」で使われた橋本明治「石橋」は、現在フィルムセンターで行われている展覧会で展示されている。

 一つ一つの画面の構図も練り上げられている。俳優の動きを得心が行くまで撮り直したことは有名だ。そうして作り上げられた画面が、リズムよく編集されている。この会話やカメラ配置、編集技術などのリズムはまことに快適で、何度見ても飽きない。中身がほとんど同じような映画なのに、なぜ何度見ても飽きないのか。自分でも不思議だったけれど、小津映画は中身ではなくリズムということだろう。小津に限らず、また映画に限らず、芸術にもっとも大事なものは、リズムなんだと思う。

 小津映画と言えば「ローアングル」。加藤泰の映画を見ると、もっととんでもないローアングルが出てくるが、今まで小津調の代名詞とも言われてきたのが、カメラの低さである。でも世界が小津映画に慣れてしまうと、今では小津映画を見ていてもそれほどローアングルを感じない時も多い。小津映画の画面構成は、美的なリズムを作り出すことが目的で、観客を驚かせたり、俳優を際立たせたり、ましてや世界観の表明などではなかった。慣れてしまえば、特に違和感を感じない。

 「秋刀魚の味」に使われた小道具(中華料理屋の看板やトンカツ屋前のポリバケツ)がフィルムセンターに展示されている。それを写真に撮ってみると、やはりものすごく下から撮っていることが判る。一番左が立って撮った写真、次が座って撮った写真、最後が胸のあたりに置いて屈んで撮った写真。4枚目の解説を見れば判るが、実際の映画の画面は僕の胸のあたりよりさらに下から撮っていた。
   
 美術的な魅力が増した小津映画だけど、そのことは良いことばかりではないと思う。今まで映画は時間と共にフィルムが損傷するのは仕方ないと思われていた。(ニュープリントを焼き直せば、直後は解決するが。)名画座で古い映画を見る際は傷や褪色をガマンしていたのである。タランティーノらが作った「グラインドハウス」シリーズでは、わざと画面が飛んだり、雨音のような傷がついていて、それがB級映画へのオマージュとなっていた。(どうせジョークで作った映画なんだから、ジョークでデジタル修復してみたら面白いと思うけど。)あまりにきれいによみがえった小津映画では、「高踏的性格」が増加した。小津映画も長い間にたくさん作られたが、末期には東京の中産階級の家族問題ばかりを描いている。その「余裕」ある映画作りがどうにもなじめないという人もいると思う。

 小津映画では音楽があまり触れられないが、「お茶漬けの味」以後の作品では、ほぼ斉藤高順(さいとう・たかのぶ 1924~2004)が務めている。航空自衛隊の「ブルー・インパルス」を作曲したことから航空自衛隊の音楽隊に招かれたという経歴がウィキペディアに掲載されている。「お早う」と「小早川家の秋」だけが黛敏郎で、その事情は判らないが、そこに違いはあるのだろうか。黛敏郎を初め、戦後日本の「現代音楽」の旗手たちは、ほとんどが映画マニアでずいぶん映画音楽を担当している。そういう映画では、画面が非常に強い緊張感を持っていて、音楽も映像に対峙する力強い音を発している。一方、斉藤による小津映画の音楽は、耳に快い、まさに「伴奏」に徹している。磨きこまれた映像と「対立」するのではなく。そこが何か、小津映画の古さ、「大船映画」の限界を感じさせる部分だ。
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追悼・アラン・レネ

2014年03月05日 00時01分52秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督、アラン・レネ(1922~2014)が3月1日に亡くなった。91歳。僕には思い出深い監督なので追悼文を書いておきたい。亡くなるまで現役の映画監督で、なんと今年のベルリン映画祭で新作が上映されている。マノエル・ド・オリヴェイラや新藤兼人になるのかと思っていたら、さすがに100歳を超える映画監督というものは難しい。

 でも、アラン・レネが世界映画のもっとも先鋭的な監督だったのは、ずいぶん前の話。キネマ旬報ベストテンには、「二十四時間の情事」(1959、7位)、「去年マリエンバードで」(1964、3位)、「戦争は終わった」(1967、3位)が入選しているが、半世紀ほども前の話である。最近もずいぶん公開されているが、あまり強い印象はない。晩年のフェリーニや黒澤明のように、まあ見ればそれなりに面白くないこともないのだが、全盛期には遠い作品群が作られていたと思う。

 マスコミ報道では「ヌーヴェルヴァーグ」と書いてあるものもあったが、ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の定義次第だから間違いとも言えないが、本来は「ヌーヴェルヴァーグの先駆者」と言うべきだと思う。50年代末に映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に集う若い批評家(シャブロル、ゴダール、トリュフォーなど)が一斉に映画作りを始めて注目を集めたから、「波」というわけである。でもアラン・レネは1948年に作った短編記録映画「ヴァン・ゴッホ」がアカデミー賞短編映画賞を取っているのだから、キャリアはずっとずっと早い。しかし、「新しい」という方で見れば、確かにアラン・レネの映画はそれまでのフランス映画に多かった感傷的な文芸映画ではなく、知的でドキュメンタリー風な作風だった。アニェス・ヴァルダやクリス・マルケルなどとともに、よく「セーヌ左岸派」と呼ばれて、50年代半ばから非商業主義的な作家の映画を作り出していた一員ということになる。

 アラン・レネのテーマはほぼ一貫して「記憶」だと思う。「時間」と呼んだり「歴史認識」と呼んでもいいかもしれない。1955年に作ったナチスの強制収容所に記録映画「夜と霧」で世界的に注目され、1959年には初の劇映画「二十四時間の情事」を作った。これは邦題では判らないが、マルグリット・デュラスの脚本の邦題は「ヒロシマ、私の恋人」(原題 Hiroshima mon amour)である。前年の58年に来日して広島ロケをして作った。岡田英次とエマニュエル・リヴァが広島で恋仲となり、街の様子を見て回る。そして「広島で何を見たか」をめぐって語り合う。岡田英次は「あなたは広島で何も見なかった」と語る。エマニュエル・リヴァはやはり戦中戦後の過去を回想する。(エマニュエル・リヴァと言っても長く忘れられていたが、この人はミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」のあの老女で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。)

 このようにアラン・レネは、早くも50年代において「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」をともに取り上げた映画作家なのだが、そこでは政治的な告発ではなく、思想的な懐疑でもなく、「われわれは過去の記憶をいかに認識できるか」がテーマになっていた。その当時は考えられもしなかっただろうが、その後「ホロコーストはなかった」などという「歴史修正主義」が世界的に登場して、「記憶をめぐる闘い」が重大な思想課題になることを先取りしていたと思う。それはさらに一般化された形で「去年マリエンバードで」(1961)に結実する。これはアラン・ロブ=グリエの脚本の映画化で、ロブ=グリエは黒澤の「羅生門」に影響されたという話である。男と女が温泉地マリエンバードで会うが、男は「去年会った」と言うが女は「知らない」と言う。それだけのような映画だけど、一体、「客観的真実」とは何なのだろうかと深く考えさせるような痛切な情感に満ちている。

 もっとも以上の2作とも、難解である意味では不毛な言葉の応酬が延々と続く中で、いわゆる「物語」的な展開を見せない。僕が映画ファンになった頃には、アラン・レネと言う監督は「伝説的な難解映画を作る人」と思われていた。でも、今でも「1937年12月、南京で何が起こったか」「いや、何も起こらなかった」などと言った「不毛な論争」は現実に続けられている。何も感じることが出来なければ「2011年、フクシマで何も起こらなかった」とさえ言えてしまうのではないか。そうでなければ、原発を「ベースロード電源」などと言えないだろう。「記憶をめぐる闘い」は今でも世界各地で続いていて、アラン・レネ映画のアクチュアリティは失われていない。

 続いて作った「ミュリエル」(1963)は、日本公開が1974年となり僕が初めて見たレネの映画である。ここでもアルジェリア戦争での過去の記憶がテーマとなっている。画面は静かながら常に緊迫していて、美しい映像が続く。僕はこういう静かで思索的な映画が基本的に好きなので、いっぺんで気に入った。アラン・レネ映画(特に初期)は難解だという定評があったが、「二十四時間の情事」も「去年マリエンバードで」も画面が非常に美しく、画面を見ていて陶酔できる。特に「去年マリエンバードで」は一度見るとシンメトリカルな構図が忘れられない。1966年の「戦争は終わった」はスペイン内戦と現代の反フランコ運動家の物語で、過去の戦争の記憶と言う意味では共通している。しかし、映画は過去をめぐる抽象的思索ではなく、現実の革命家の日常を描く物語性が今までより強い。この映画の脚本を書いた作家、ホルヘ・センプルンが実際に内戦でスペインを去り、ナチスの収容所経験があるということもあるんだろうと思う。アラン・レネが一番面白かったのはここまで。

 その後は未公開映画も多くなる。1974年の「薔薇のスタビスキー」が30年代の政界スキャンダルをジャン・ポール・ベルモンド主演で華麗に描いた娯楽大作で、話題になったし面白くもあったけど、大分変った印象があった。「プロビデンス」(1977)、「アメリカの伯父さん」(1980)などまでは、なかなか刺激的な映画だった。近年の「恋するシャンソン」(1997)、「巴里の恋愛協奏曲」(2006)、「風にそよぐ草」(2009)などになると、まあ見てはいけないわけではないが、ごく普通のフランス映画で「昔の名前で出ています」という印象が強かった。しかし、まあ僕も一応律儀に見に行ったのである。好きな映画監督は最後まで見ておきたいから。でも、まあかなり長く見ても1980年頃までの映画作家だったと思う。それでも映画を作り続け一定のレベルは維持したのだからあ、そこはすごい。
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小津散歩-小津映画の話①

2014年03月03日 00時00分45秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督小津安二郎の生誕地を知っているだろうか?僕は長く知らなかったので、東京都江東区の深川だと知って驚いた。小津安二郎(1903~1963)は、2013年に生誕110周年と没後50年を迎えた。全作品上映が行われるなど、あらためて注目を浴びた。僕も主要作品はほぼ見ているが(ごく初期のサイレント作品数本が未見)、面白いけれど、非常に大好きな映画監督とは言えない。だから、伝記的事実をあまり知らなかった。小津は10歳で三重県松阪に転居し、松坂の小学校を卒業、三重県立四((現・宇治山田高)に進んだ。神戸高商の受験に失敗し、三重県で代用教員となったが、1年で辞めて上京し、松竹に入った。このように青春時代を過ごし映画に目覚めたのは三重県という印象が強かった。

 小津安二郎誕生の地のプレートが造られている。地下鉄東西線門前仲町駅から清澄通りを北へ歩き、高速道路の下を過ぎた歩道橋の下である。結構わかりにくい。歩道橋の下で写真も撮りにくい。
  
 実は最初に行くべきはここではない。門前仲町駅から10分ほど行った古石場文化センターである。ここには「小津安二郎紹介展示コーナー」が作られている。小さいながら、小津に関する資料、映画ポスターなどがたくさん展示されている。この文化センターに「周辺マップ」があるので、まずそれを入手した方がいい。それを見れば、小津関連の情報が出ている。先の誕生地も判りやすい。このセンターは時々「江東シネマフェスティバル」と題した古い映画の上映も行っている。展示の内容は写真に撮れないが、センターの外観はこんな感じ。黒い瓦が印象深い。
 
 小津家は何でこの地にいたのか。小津家はもともと伊勢商人の一族なのである。松阪の小津本家はもっと大きいようだが、分家筋が東京へ出てきて、肥料問屋湯浅屋、深川では小津商店を営んでいた。だから、小津安二郎にちなんでということではなく、「小津橋」という橋が古石場文化センターの裏あたりにある。川というか、この地域一帯に掘りめぐらされている運河にかかっているのである。
 
 近くに小津が最初に入学した明治小学校や小津の父親の墓所がある陽岳寺などもあるが、まあいいかと訪れなかった。東京に戻ってくると、深川不動裏の和倉町に住んだという。小津は後に「鎌倉文化人」の仲間入りし、墓所も鎌倉の円覚寺に葬られる。映画の内容も山の手の中産階級のイメージが強い。しかし、戦前の映画を初め下町地域の出てくる映画も多い。古石場文化センターの周辺マップには、「一人息子」に出てくる永代橋、「風の中の牝鶏」に出てくる相生橋、「秋日和」に出てくる清洲橋などが紹介されている。

 「東京物語」も東京東部が舞台になっていて、特に山村聰演じる長男が医院を開業しているのは東武線の堀切駅あたりである。駅から土手が見える。そこも行ったけど、紹介するほどの写真は今は撮れない感じだった。小津映画のほとんどは大船撮影所のセットで撮られているわけだが、探せば結構東京各地の風景が残されている。小津に関しては、現在フィルムセンターで「小津安二郎の図像学」という興味深い展示が行われている。また鎌倉文学館で「生誕110年 小津安二郎」が行われている。鎌倉は行ってないけど、フィルムセンターの展示はとても面白い。
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2014年2月の訃報

2014年03月02日 00時35分26秒 | 追悼
 2014年2月に亡くなった人の追悼特集。先月にも書いたけど、自分の備忘の意味が大きいので悪しからず。まだ伝わってない訃報もあるかもしれないけど、その場合は来月に書けばいいだろう。

 まど・みちお(2.28没、104歳)の訃報が最後に大きく伝えられた。本名石田道雄。「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」の作詞家とあらゆるメディアに大きく出ている。それは知ってたけど、あらためて「ぞうさん」のような誰でも知ってる、ほとんど詠み人知らずの民謡みたいな歌を作った人が今も生きていたということに驚く。でも確かに北原白秋や野口雨情の詩に比べれば、現代風である。他の曲はないかと言えば、「一年生になったら」しか知らない。これは山本直純作曲で、先の二つは團伊玖磨である。山口県徳山の出身で徳山動物園に「ぞうさん」の碑があるという。100歳になった時に、ずいぶん取り上げられたけど、僕はあまり知らない。(ところで、徳山は大規模合併で今は周南市という。山口の合併は凄まじい規模で、大規模な市ばかりになっている。)
 
 直木賞作家で「利休にたずねよ」が映画化されたばかりの山本兼一(2.13没、57歳)が死去。先月、坂東眞砂子が55歳で亡くなったばかり。まだ若いというべき年だけど。「火天の城」という安土城を作った大工の小説で評判になった。受賞作の「利休にたずねよ」は構成にビックリし、利休に関してこういう風にも書けるのかと一読の価値ある小説である。

 アメリカの俳優フィリップ・シーモア・ホフマンとオーストリアの俳優マクシミリアン・シェルの訃報は別記事を書いた・マクシミリアン・シェルの訃報は出てない新聞もあったと思う。その後、シャーリー・テンプル(2.10没、85歳)の訃報が。この人は戦前のハリウッドで名子役で張湯名だった人で、訃報でも子役の写真が使われている。1935年に6歳で、アカデミー特別賞を受けたぐらい有名な子役だったのである。その後もなかなか興味深い人生を歩んだようだけど、1970年代以後は共和党政権下で外国の大使を務めてとても高く評価されたという。子役期、結婚(2回)期、外交官期と別れる人生らしい。ウィキペディアに詳細な記述があり、面白い。

 尺八奏者の人間国宝、山本那山(2.10没、76歳)は有名だし、多彩な活動をしたから名前を知ってるけど、何か書けるほど知らない。村岡実(1.2没。90歳)という尺八奏者の訃報も2月に載っていた。永六輔の「誰かとどこかで」で「遠くへ行きたい」を吹いていた人と言えば、僕も耳に思い出す。鈴木博之(2.3没、68歳)は日本を代表する建築史家だということで、近代建築の保存運動で大きな役割を果たしたと出ている。東京駅の赤レンガ駅舎復元とか。正直、名前を訃報で知った。そういう人は、歌人で講談社の編集者だった小高賢(こだか・けん 本名鷲尾賢也 2.11没、69歳)という人も同じ。

 スペインのギタリスト、パコ・デ・ルシア(2.26没、66歳)がメキシコで急死。TBSアナウンサーだった山本文郎(2.26没、79歳)、東大准教授で去年「モモクロの美学」を書いた安西信一(2.10没、53歳)、読響の常任指揮者を長く務めたゲルト・アルブレヒト(2.2没、78歳)、「サウンド・オブ・ミュージック」のモデルになったトラップファミリーの侍女で、ただ一人の生存者だったマリア・フランツィスカ・トラップ(2.18没、99歳)などの訃報も伝えられた。
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サルトル「アルトナの幽閉者」を観る

2014年03月01日 01時23分33秒 | 演劇
 新国立劇場で上演中のジャン・ポール・サルトル作「アルトナの幽閉者」を観た。(3月9日まで上演。)この劇にまつわる思い出は後で書くとして、非常に力強い舞台で、何となく今は読まれなくなってしまったサルトルという作家の重要性を考えさせられた。僕が見たいと思ったのは、この劇が「戦争責任」をテーマとしているということだけではなく、自分で部屋に閉じこもった人物を描いているからである。昔はそういう言葉がなかったから「幽閉」などと難しい言葉を使っているが、要するに「引きこもり」ではないか。この劇を「アルトナの引きこもり」と訳し、評判になった長編小説を「ムカつくぜ」と訳してみれば、サルトルの驚くべき現代性が見えてくるのではないか。
 
 サルトルは1960年代から70年代初期にかけて、世界的に文学、思想界の覇権を握っていた。1964年にノーベル文学賞を授与されるが辞退し、「飢えた子の前で文学は有効か」と問いを発した。1966年に伴侶のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに来日し、この頃にサルトル人気は絶頂を迎えた。「実存主義」とか「アンガージュマン」(作家や思想家が政治に参加すること)という言葉は、知的世界の常識だった。その時期の人気のほどは今は全く想像できないほどで、むしろボリス・ヴィアン「うたかたの日々」でパロディ化されたジャン・ソール・パルトルで伝わっているというべきかもしれない。

 サルトルは哲学、小説、戯曲、評論、時事エッセイなど多彩な分野で活躍した。戯曲もけっこうたくさん書いていて、ドイツ占領下のパリで上演された「蝿」や「出口なし」などで知られた。その後「汚れた手」「悪魔と神」「キーン」などそれなりに有名な劇を書いて、昔はよく上演されていた。「アルトナの幽閉者」は1959年に書かれた最後の創作戯曲で、ドイツの物語となっているけど、同時にフランスが行っていたアルジェリアでの残虐行為を告発する含意があったのは、同時代人なら誰でも判ったことだろう。(アルトナはドイツの地名で、今はハンブルク市内となっている。)

 ある西ドイツ(当時)の富豪の家、ナチス時代を生き抜いた造船王の当主は喉頭ガンで死が近いことを悟り、次男夫婦を呼ぶ。しかし、この家には秘密があり、アルゼンチンで死んだことになっている長男フランツは実は2階の部屋で生きていて、13年間も出てきていない。世話をしてきたのは妹のレニだが、引きこもったわけには戦争時代に関わる複雑な理由があるらしい。次男の妻ヨハンナは、自分たち夫婦が自由になるためには、長男に会うしかない立場に立たされる。そうして、フランツとレニ、そしてヨハンナの葛藤が始まり、最後に父と13年ぶりの対面をしたフランツは…どういう選択をするのか。父は戦時中の「密告者」であるらしく、フランツは「戦争の加害責任」を負っている。そういう構図が見えてくると、このドラマの現代的意味が見えてくる。

 戦争中の残虐行為の責任、自分が犯したことと救えなかったことの意味、自らの人生を選択できるのか、引きこもりの精神状況、親と子は和解できるのか、「近親相姦」的な世界…など、半世紀以上前の戯曲だけど、今の日本でドラマ化されるべきテーマをたっぷりとてんこ盛りした劇なのである。岩切正一郎新訳のセリフはよく通り、ヒトラーの写真を大きく使ったり、鏡を印象的に使う舞台美術も優れている。上村聡史演出、フランツに岡本健一、ヨハンナに美波、父に辻萬長、レニに吉本菜穂子などの配役。6時半開始で、10時近くまでかかる(休憩15分)という長さだが、劇的世界は緊迫していて飽きることはなかった。

 サルトルは昔人文書院で全集が出ていて、そのため他社の文庫にほとんど入っていなかった。だからあまり読んでいないのだが、文学少年としてカミュなどを新潮文庫で読み始めると、サルトル・カミュ論争が文庫に入っているのでサルトルに関心を持たざるを得なくなる。70年頃はサルトルやゴダールが一番政治運動家になっていた時代で、サルトルも極左運動家=マオイストのビラ配りなどをしていた。世界的な反乱の季節が終わると、サルトルの知的覇権は失墜し、レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーの時代となった。僕はサルトルの小説は少ししか読まなかった(手ごわかった)が、「汚れた手」が河出の文学全集にあり戯曲の方が読みやすいと思ったので、「アルトナの幽閉者」も買ってきて読んだ記憶がある。まだ中学生の頃。その時は頭の中で、観念的な「戦争責任」の話と思って、結構面白く読んだと思う。

 今回上演を見た感想では、思想を肉体化する装置としての演劇の力がうまく駆使されていて、サルトルは単に政治的、観念的な作家ではなかったことがよく判った。この劇のベースは日本でもたくさん作られた「家族どうしの解体ドラマ」であり、「父と子」「二人の女と男」の究極的な対立というドラマである。そうすれば日本の劇にもいっぱいあるが、でも日本軍の加害責任を問うとか、人生の自己選択というテーマに帰結していく構造が日本ではなかったように思う。そこにサルトルの作家的特徴と力量がうかがえる。今も生き生きと迫ってくる力作戯曲の創造的上演。たまたま今埼玉で同じ岩切新訳のカミュ「カリギュラ」を上演中。いまどきサルトルとカミュを同時に上演している国が他にあるのだろうか。
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