尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ロベール・ブレッソン監督「バルタザールどこへ行く」「少女ムシェット」

2020年11月19日 20時50分06秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスのロベール・ブレッソン監督(1901~1999)の映画「バルタザールどこへ行く」(1966)と「少女ムシェット」(1967)を見た(新宿シネマカリテ)。「バルタザールどこへ行く」は1970年にATGで公開され、「少女ムシェット」は1974年に岩波ホールで公開された。その後一回リバイバル上映されているようだが、見た記憶がない。最初の上映で見た時以来じゃないかと思う。
(「バルタザールどこへ行く」)
 ブレッソンの映画ではキネマ旬報ベストテンに入った「抵抗」や「スリ」という映画が見られたのは最近のことだ。僕が若い頃に見られたのは、この2本と「ジャンヌ・ダルク裁判」ぐらいだった。いずれも研ぎ澄まされたというか、研がれ過ぎてしまった感じの映画である。「物語の本質」に鋭く迫るものだとは思うが、玄米を研いで白米にして、さらに研いでいくような映画ばかりだ。純米酒造りじゃないんだし、僕はもう少し雑なものが映画に入っていた方が好きだ。
(ロベール・ブレッソン監督)
 「バルタザールどこへ行く」は96分あるが、「少女ムシェット」はわずか80分だ。それで短いと感じさせない。「バルタザール」というのはロバの名前で、映画はずっとバルタザールの運命を見つめ続ける。「少女ムシェット」も幸薄き少女を見つめ続ける。だから、僕はブレッソンの映画は「凝視する映像」のように思い込んでいた。しかし、久しぶりに見直してみたら、案外普通にカットバックを積み重ねた映画だった。タル・ベーラ監督「ニーチェの馬」とは違うのである。
(「バルタザールどこへ行く」)
 「バルタザールどこへ行く」では少女マリーがロバにバルタザールと名を付けて可愛がる。しかし校長だった父が農業経営に乗り出し、周囲との紛争に巻き込まれて没落してゆく。アンヌもまた悪い男にたぶらかされて堕落してゆく。バルタザールは売られたり、サーカスに出たり、虐待されて逃げたりと転々とし、最期はピレネー山脈の羊たちの中で死んでゆく。

 人間の心理描写抜きなので、バルタザールの転々とする運命だけが崇高さを感じさせてゆく。主演のアンヌ・ヴィアゼムスキーは当時17歳で、作家モーリアックの孫だった。この映画で抜てきされ、ゴダールの「中国女」に出演した後、ゴダールと結婚した。離婚後に作家となって、2017年に亡くなった。ヴェネツィア映画祭審査員特別賞など受賞。
(「少女ムシェット」)
 「少女ムシェット」の主人公は14歳の少女ムシェットである。母は産後の具合が悪く、父は横暴で、ムシェットが赤ちゃんと世話している。家庭的に恵まれないムシェットはクラスメートからも(教師からも)無視されている。ムシェットの方も黙っていないで、放課後になると泥をつかんで他の少女に投げつけている。孤独で居場所がない少女は森をさまよって、密猟者と遭遇する。それからは悲劇が相次いで襲うが映画はただ苛烈な運命を見続ける。

 原作はカトリック作家ジョルジュ・ベルナノスで、ブレッソンの出世作「田舎司祭の日記」(1950)と同じだ。(「田舎司祭の日記」は未だに正式に公開されていないで見ていない。)この後、ブレッソンはドストエフスキー原作を基に「やさしい女」「白夜」を作った。どっちもこれがドストエフスキーかと思う凝縮映画だった。文章では心理描写が出来るが、演劇や映画では心の中を直接描けない。そこでナレーションを入れるとか、説明的セリフで工夫するものだが、ブレッソンの映画はそれがない。そのことで人間の生の姿が焼き付けられて、宗教的な境地にまで至ってゆく。そんな映画だから、いわゆる「面白さ」はないんだけれど、「聖なるもの」に触れた触感が残る。
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