尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

旧前田邸と「抱擁」-辻原登を読む④

2014年05月15日 00時06分23秒 | 本 (日本文学)
 それは二・二六事件の後、昭和十二年のこと。茅ヶ崎に住んで、女学校を出たばかりの「わたし」は前田侯爵邸で次女緑子の小間使いをすることになったのである。豪壮な前田邸に最初は圧倒されたが、やがて緑子の可愛らしさに仕事に張り合いが生まれてくる。だが、どうも変なのである。緑子の様子を見ていると、何か別の人物がいるのではないか、何か不思議なことが起こっているのではないか…。という不思議な話が、辻原登「抱擁」(2009.12、講談社)という本で、これも非常に面白いゴシック・ホラーである。

 もともと辻原登には「不思議な話」「奇譚」が多いのだが、これは中でも最高傑作レベルではないか。ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」にインスパイアされた物語だというが、「歴史と場所」がぴったりとピースにはまった感じがする小説だ。舞台となった旧前田侯爵邸は東京の目黒区駒場に実在し公開されている。2013年、重要文化財に指定された。前に行ったこともあるけど、本を読んだら見に行きたくなって訪れてみた。渋谷から京王井の頭線で2駅目の駒場東大前駅から、徒歩十分程度。日本近代文学館のすぐそばである。本の表紙を、実際の階段と比べると、こんな感じ。
   
 旧前田邸というのは、1929年(昭和4年)に建築され、当時東洋一とも言われたという。近代洋風建築の最高峰の一つであり、皇族の旧朝香宮邸(東京都庭園美術館=改修のため休館中)、財閥の旧岩崎邸などと並び、旧華族の屋敷の代表と言ってよい。建てたのは、前田利為(としなり、1885~1942)で、加賀前田家の第16代当主。陸軍大将で、第二次大戦中、ボルネオ守備軍司令官の時に、搭乗機が墜落して死亡した。もともとは別家の生まれだが、15代当主の男子がなく、養嗣子となり15代当主の長女と結婚した。その妻はヨーロッパ滞在中に死亡し、酒井家から後妻を迎えた。1927年から30年まで、駐英大使館の駐在武官を務めていて、その不在の間に豪壮な洋館を建てた。

 もともとの家は本郷にあったが、東大農学部の土地と交換する形で、駒場に移ったのである。郊外の暮らしを望んだためという。このあたりは当時は全く郊外の閑静な一帯だっただろう。小説では、前田邸には広大な馬場もあり、部下の軍人がいつも乗りに来ているとある。屋敷の一帯は、今は駒場公園として残されているが、高級住宅街の中に武蔵野の面影をいくぶん残した地帯である。小説の中で「わたし」が屋敷に初めて伺う場面は印象的で、森の中に突然西洋のお城が出現したように思っている。それは今でも判る気がする。3枚目の写真は公園の方からバルコニーを撮ったもの。
   
 中がまた赤じゅうたんが敷き詰められ、古きムードが漂っている。カフェもある。写真禁止の館も多いが、ここは特に書いてないから撮っていい場所だと思う。(商業用撮影は事前許可がいる。)2階には夫妻の寝室や応接間も公開されている。前田侯爵の写真も飾られていた。2枚目の写真にあるのが、寝室にある鏡台である。
   
 もう少し挙げておくが、最初の2枚は小間使いはこんな部屋にいたのかなと思って撮った小さな部屋。ベッドだったとあるから洋間のはずだが、畳の間もあった。
    
 さて、もちろん「緑子」なる女の子は実在しない。前田利為には先妻との間に長男がいて、また後妻との間に一男二女がいる。後妻との間の長女は、小説では美也子とあるのが、後に母の実家の酒井家のいとこと結婚し、マナー評論家として多くのベストセラーを書いた酒井美意子(1926~1999)である。その妹もいるはずだが、もちろん話は創作。もともと緑子の小間使いは前に別の人がいたのだが、陸軍軍人と幸せな結婚をして去って行った。だが、その前小間使い「ゆきの」の夫は、二・二六事件の反乱軍の一員で、この結婚は悲しい運命をたどることになる。どうも、その「ゆきの」が関係しているらしい。そこで英語の家庭教師として滞在しているミセス・バーネットが何かと助言してくれるのだが、悩んだ末に主人公は「ある決断」をして、「事件」が起きる。その主人公が検事に語る一人語りで物語は進むが、読みやすい中に緊迫感が高まってくる。

 「心霊現象」にまつわる話だけど、裏に二・二六事件の悲劇と軍人華族が建てた洋館という「歴史と場所」があるために、こういう不思議な運命が戦前のお屋敷にあってもおかしくないような気がしてくる。中に「借りぐらしのアリエッティ」と同じような話を緑子がする場面があるが、ジブリの映画は2010年公開で、この本の方が早い。(メアリー・ノートンの原作は1952年に発表されている。)また、ミセス・バーネットが芦屋、神戸から明石に至る六甲山南麓地帯は、人間が暮らす場所としては世界一だと言う。あるいは、主人公がミセス・バーネットに頼まれ、「ケーキをみつくろって買ってきて」と言われて、あまりに巧みな日本語に、うっかり「ミツクロ」というケーキがあると思い込む間違いなど、このミセス・バーネットの存在感が素晴らしい。戦前のお屋敷物語は、なんだか最近はやっている感じがするが、これが一番面白いのではないか。駒場は面白い場所が多いのだが、今回は旧前田邸だけでまた別に散歩してみたい。
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