尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

森崎和江、田沼武能、トランティニャン他ー2022年6月の訃報

2022年07月10日 20時54分25秒 | 追悼
 2022年6月の訃報。まず最初に、詩人、ノンフィクション作家の森崎和江から。6月15日死去、95歳。1958年に谷川雁上野英信らと雑誌「サークル村」を創刊。64年の大正炭鉱閉山まで谷川と同居したが、対立の結果、谷川雁は闘争から離れて東京へ行き英語教育の会社に勤めた。1976年に『からゆきさん』が大評判になって、僕はその時初めて森崎和江を読んだ。山崎朋子『サンダカン八番娼館』が評判だった時期で、僕は森崎の本は十分に理解出来なかった。その後『慶州は母の呼び声』『悲しすぎて笑う 女座長筑紫美主子の半生』を読んで感動した。しかし、詩集は読んでないし、評論も『闘いとエロス』『いのち、響きあう』など題名で敬遠。僕には森崎和江を評価出来ないんだけど、何だか重要なものあると思って最初に。
(森崎和江)
 写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)が6月1日に死去、93歳。世界の子どもたちや東京の下町などを撮影したことで知られる。特にユニセフ親善大使の黒柳徹子の訪問に同行して、世界125国以上を回ったことで知られる。東京浅草の写真館の家に生まれ、東京写真工業専門学校を卒業後に木村伊兵衛に師事した。写真界の待遇向上に尽力し、「公表後10年」だった写真の著作権を他の著作物と同様にする法改正を求め続けて実現した。木村伊兵衛も土門拳も受けなかった文化勲章を写真界で初めて受章。
(田沼武能)
 俳優の佐野浅夫が6月28日に死去、96歳。1993年から2000年にかけて3代目「水戸黄門」役で知られる。1943年に18歳で劇団「苦楽座」に入団。この劇団が後の移動演劇隊「櫻隊」である。佐野は3月に徴兵されたが、櫻隊は広島で被爆し、丸山定夫、園井恵子ら劇団員が死亡したのである。戦後は劇団民藝に所属して活躍したが、71年に退団した。その後はテレビを中心に活躍した。50年代、60年代には脇役として多くの名作映画に出演していた。
(佐野浅夫)
 歌舞伎俳優の6代目澤村田之助が6月23日に死去、89歳。5代目田之助の長男に生まれ、64年に6代目を襲名。女形として活躍して、2002年に人間国宝に認定された。相撲ファンとして知られ、2003年から13年にかけて横綱審議委員会委員を務めた。何しろ伝説的名優として有名な6代目尾上菊五郎の膝の上で、双葉山が69連勝で敗れた一番を見ていたというから凄い。6歳の時である。
(澤村田之助)
 漫画家、脚本家、映画監督の石井隆が5月22日に死去した。「天使のはらわた」がヒットし、日活で映画化されるに際して脚本に参加した。いずれも「村木」という男が「土屋名美」という「運命の女」(ファム・ファタール)と出会って破滅していく物語である。『天使のはらわた 赤い教室』(1979、曽根中生監督)や『ラブレター』(1985、相米慎二監督)などの脚本で評価され、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)からは監督も務めた。異業種出身にしては、光と影の美学を駆使した運命ドラマで観客を魅了した。『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)はベストテンに入選した。その暗い世界観に好き嫌いはあるだろうが、僕は結構好きだった。
(石井隆)
 映画プロデューサーの河村光庸(かわむら・みつのぶ)が6月11日死去、72歳。慶大中退後に出版社を設立、その後、映画配給に進出し、2008年に配給会社スターサンズを設立、韓国のヤン・イクチュン監督『息もできない』をヒットさせた。その後、映画製作にも乗りだし、ヤン・ヨンヒ監督『かぞくのくに』(2010)で成功、その後、『あゝ、荒野』『愛しのアイリーン』『新聞記者』『宮本から君へ』『MOTHER マザー』など数々の傑作を送った。昨年(2021年)も『茜色に焼かれる』『空白』とベストテンに2作入選し、近年最も注目されるプロデューサーだった。また『新聞記者』や『パンケーキを毒味する』(菅前首相のドキュメンタリー)など、政治的なテーマにも大胆に取り組んだ。『宮本から君へ』が出演者の薬物問題で文化庁の助成金を取り消された問題でも、国を相手に裁判を起こしていた。突然の訃報で大変残念。
(河村光庸)
 多くのアニメソングを手掛けたこと知られる作曲家、渡辺宙明(わたなべ・ちゅうめい)が、6月23日死去、96歳。東大で心理学を学ぶも音楽に関心を持ち、團伊玖麿、諸井三郎に師事した。50年代から多くの映画音楽を手掛け、中川信夫監督「東海道四谷怪談」、山本薩夫監督「忍びの者」などの音楽を担当した。その後、渡辺貞夫にジャズの理論を学び、独自の「宙明サウンド」と呼ばれるようになった。アニメでは「マジンガーZ」「秘密戦隊ゴレンジャー」「人造人間キカイダー」「野球狂の詩」「鋼鉄ジーグ」など多くの主題歌を手掛けた。
(渡辺宙明)
 ソニー元社長の出井伸之(いでい・のぶゆき)が6月2日死去、84歳。60年にソニーに入社、85年に大賀典雄に抜てきされ6代目の社長に就任した。ソニー初のサラリーマン社長だった。パソコンの「VAIO」やゲーム機「プレイ・ステーション」などのヒットで、ソニーを「ものづくり企業」からコンテンツ重視の企業に変身させた。98年から最高経営責任者(CEO)を兼任、00年にはCEOに専念した。しかし、出井時代は「栄光の前半」と「失墜の後半」に分かれると言われる。21世紀になって、技術畑ではない出井の経営方針が一貫せず、2003年にはソニーの株価が大暴落する「ソニー・ショック」が起きた。結局、社外取締役などから勇退を勧告され、2005年に退任し、ソニー初の外国人経営者ストリンガーが後任に選ばれた。
(出井伸之)
 フランスの俳優、ジャン=ルイ・トランティニャン(Jean-Louis Trintignant)が17日に死去、91歳。僕は若い時から、この人の出る映画が好きだった。コスタ=ガヴラス『Z』(カンヌ映画祭男優賞)、ベルトルッチ『暗殺の森』、クレマン『狼は天使の匂い』などで、端正な容貌と的確な演技が印象的だった。初期にはロジェ・ヴァディム監督『素直な悪女』『危険な関係』などで知られ、イタリア映画『激しい季節』(ズルニーニ監督)の戦時下の若者役が素晴らしかった。1966年のルルーシュ監督『男と女』で世界的人気を得た。その後は、1983年のトリュフォーの遺作『日曜日は待ち遠しい』が思い出に残る。2012年には80歳を超えてミヒャエル・ハネケ監督『愛、アムール』に主演してカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した。こうしてみると、若い頃から世界的な監督に重用され、重要な役を任されたことが印象的だ。フランスでは昨年ジャン=ポール・ベルモンド、今年にジャック・ペランが亡くなるなど、重要な俳優が相次いで亡くなった。
(ジャン・ルイ・トランティニャン)
田口富久治(たぐち・ふくじ)、5月23日死去、91歳。政治学者。名大名誉教授。マルクス主義の立場から、現代資本主義論や行政学を論じた。日本共産党員として丸山真男の近代主義を批判していたが、次第にユーロコミュニズムに近づいた。1979年の『マルクス主義国家論の新展開』をめぐって不破哲三と論争になり自己批判に追い込まれた。94年に離党して、丸山真男の立場に近づいたと言われる。僕は専門分野的にも党派的にも、特に深い関心を寄せてはいなかったので、一冊も読んでいない。
石井一、4日死去、87歳。元自治相、国土庁長官。衆議院11回、参議院1回当選。93年に自民党を離党して新生党に参加。新進党を経て98年に民主党に参加して、民主党副代表などを務めた。
松平直樹、11日死去、88歳。和田弘とマヒナスターズのボーカルとして、松尾和子と歌った「誰よりも君を愛す」でレコード大賞。同じく松尾との「お座敷小唄」、吉永小百合との「寒い朝」もヒットした。70年に独立し「松平直樹とブルーロマン」、83年にソロとなり、その後再びマヒナスターズを再結成していた。
坂東竹三郎、17日死去、89歳。歌舞伎役者。上方歌舞伎を支える女形として活躍した。
岩内克己(いわうち・かつき)、18日死去、96歳。映画監督。『エレキの若大将』以後、若大将シリーズを多く手掛けた。
森田貢(もりた・みつぎ)、18日死去、68歳。フォークグループ「マイ・ペース」ボーカル。代表作「東京」の「東京へはもう何度も行きましたね」の歌詞で知られる。
小田嶋隆、24日死去、65歳。コラムニスト。雑誌「噂の真相」にコラムを連載し、「反権力」「反骨」と言われた。10年前頃からTwitterで社会的発言を続けた。と言うんだけど、全然読んだことがない人で、評価の材料がない。
葛城ユキ、27日死去、73歳。歌手。83年の「ボヘミアン」が大ヒットした。
中野昭慶(なかの・てるよし)、27日死去、86歳。映画の特殊撮影技術(特技)監督。59年に東宝に入社し、62年に円谷英二の指名で特技助監督になった。69年に「クレージーの大爆発」で特技監督に昇進。1973年の「日本沈没」で知られる。他にゴジラシリーズ、「東京湾炎上」「火の鳥」など。81年にフリーとなって東映の「二百三高地」「大東亜帝国」「日本海大海戦」を手掛けた。1985年に金正日に招かれて北朝鮮で怪獣映画「プルガサリ」の特撮監督を務めた。
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