尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「〈アメリカ世〉の沖縄」を読むー「復帰50年」の前にあったこと

2022年05月13日 23時27分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 1972年5月15日沖縄の施政権が日本に返還されてから、今年で50年目となる。マスコミでの報道も多くなってきた。こういう「節目報道」には、それで良いのかという声が必ず出る。でも仕方ないんだと思っている。「5月15日」と言えば、今年は1932年5月15日に起きた「五・一五事件」から90年である。白昼堂々、時の首相が首相官邸で海軍の現役軍人に暗殺されたという異常なテロ事件である。その時から戦後になるまで、政党に所属する総理大臣は選ばれなかった。「政争政治の終焉」という大事件だったが、その時から90年、今やマスコミでの「節目報道」も全くなくなっている。

 今日のニュースで初めて気付いたのだが、沖縄返還の直前、1972年5月13日深夜に大阪で「千日デパート火災」が起こっていた。死者118人を出した日本のビル火災史上最大の惨事となった大事件で、当然その時点では僕もニュースで見て大変な火事が起きたと思っていたはずだ。しかし、この大火事については全く覚えていないのである。ウィキペディアを見ると、ものすごく長くて多くの情報が書かれている。火災原因や行政の対応など重大な問題を明らかにした大火事だったことが判る。

 一方で、「沖縄返還」はよく覚えている。1972年というのは、直前に書いた早乙女勝元さんの講演を聞いた年、つまり高校生だったわけだが、5月15日は休日になった。政府としては「国民こぞってお祝いする」べき日だったのである。何をしていたかは覚えていないので、多分家でノンビリしてしまったのだろう。前年国会で審議された「沖縄返還協定」をめぐっては、強い反対運動があった。東京でも大きなデモが何度も行われ、高校の同級生でもデモに出掛けた人がいた。そういう時代だったのである。

 節目だからというわけではないが、今回岩波新書の宮城修ドキュメント 〈アメリカ世〉の沖縄」を読んだ。今年3月に出た本で、まあ15日前に読んでブログに書くべきだろうと思ったのである。「アメリカ世」の「世」は「ゆー」と読む。1945年6月から、1972年5月までの「アメリカ統治時代」のことである。戦争に負けて占領されたまま、アメリカ軍による直接統治が行われたのである。その時代のことは、沖縄でも詳しく知らない世代が増えてきた。地方紙琉球新報では2017年に「沖縄戦後新聞」という企画を行い、この本はその企画をもとにまとめたものである。宮城修氏は当時の企画の中心となり、現在琉球新報の論説委員長を務めている。

 読んでみて、僕はまあ中身的には知っている話が多いが、必読本だなと思った。沖縄に継続的に関心を寄せてきた人でも、現代史の研究進展をきちんと追っているわけではないだろう。アメリカや日本の外交資料がずいぶん公開されてきて、アメリカ統治時代の米国内部の事情、あるいは沖縄返還をめぐる日米交渉は、いわゆる「密約」を含めて相当に解明されてきた。特に、琉球新報社から刊行された屋良朝苗瀬長亀次郎西銘順治の日記が有効に活用されている。戦後沖縄史を少しでも知っていれば、この3人の重要性は判るだろう。いずれも日記が刊行されていたことも知らなかった。読んでる人なんて、よほど専門的な研究者以外にはいないんじゃないだろうか。日本政府の最高責任者だった佐藤栄作首相の日記も刊行されているから、折に触れ活用されている。

 僕は自分の関心事でもあり、また仕事の必要上もあるから、日本現代史で焦点となる問題は大体何かしら本を読んでいる。戦後沖縄史に関しては、中野好夫・新崎盛暉沖縄戦後史」(岩波新書、1976)、新崎盛暉沖縄現代史」(岩波新書、1996、2005年に新版)などが一番身近でまとまった本だった。だから、そこで触れられている「島ぐるみ闘争」や「宮森小ジェット機墜落事故」は知っている。僕の生まれた年に起こった「由美子ちゃん事件」や「琉大事件」なども忘れがたい。しかし、今では沖縄でもずいぶん昔のことになった。当時の日本では大きな報道がなかったから、「本土」では全く知らない人もいるだろう。せめてこの本ぐらいは読んで、多くの人が戦後沖縄史をもう少し認識しておく必要がある。

 沖縄の人々は無理やり農地を収奪する米軍に抵抗を始め「島ぐるみ闘争」が起こった。これらの闘いや、宮森小の事故(なんと小学校に米軍ジェット機が墜落して多くの犠牲者が出たのである)を読めば、今もなお胸が熱くなる。涙を禁じられなくなる。そのような沖縄民衆の闘いを象徴するのが、瀬長亀次郎(1907~2001)の那覇市長当選である。その後、米軍はいかに卑劣に瀬長市長を圧迫したか。ついには市長の座を追われるに至るのだが、今もなお亀次郎の名は多くの人に記憶されている。近年記録映画が作られたので、知っている人もいるだろう。沖縄人民党を結成し、70年の国政復帰選挙で衆議院議員に当選し、7期務めた。復帰をめぐって佐藤内閣を追求した様子が議事録で紹介されている。
(瀬長亀次郎)
 しかし、瀬長亀次郎は「抵抗者」であって、現実の沖縄でもっとも重要な役割を果たしたのは、沖縄復帰当時の知事を務めた屋良朝苗(やら・ちょうびょう、1902~1997)である。戦前から沖縄や台湾で教員をしていたが、戦後沖縄の悲惨な教育環境を見て「沖縄教職員会」を結成し会長となった。管理職も含めた会で労働組合ではないが、多くの離島を抱えた沖縄では教員の社会的地位が高く、屋良への信頼は厚かった。1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、屋良が会長となった。そして、1968年の初めての琉球政府主席公選で、革新系から押されて出馬し当選した。
(屋良朝苗)
 屋良はもともと「穏健派」なのだが、ベトナム戦争が激化し核兵器や毒ガス、B52爆撃機などが配備された沖縄では、復帰運動は反米化して、屋良知事は板挟みにあうことが多かった。その苦労は日記を通して随所にうかがわれる。一方、政府側も声望の高い屋良知事を立てることで、復帰をスムーズに実現させたい。さまざまな策略を弄していたことも、外交記録から判明している。つまり、実現が難しいようなことを、ここまでは譲歩すると決めておくが、表面上は出来ないと突き放す。屋良知事が陳情することで、その声に何とか答えたというような演技をするわけである。政府側の策略を屋良知事が見抜けなかった場面もあることが判る。

 一方、戦後沖縄史で「保守」を代表するのが、西銘順治(にしめ・じゅんじ、1921~2001)である。主席公選で、屋良の対抗馬として自民党から出馬した人物である。衆議院議員を務め、1978年から90年まで復帰後3代目の知事を務めた。初の「保守知事」で、沖縄県立芸術大学開設や世界ウチナーンチュ大会開催を進めたことで知られる。現沖縄・北方対策相の西銘恒三郎は次男になる。戦後沖縄の保守政界を代表する人物で、どのような気持ちで政治に関わったか、日記で触れられているのは貴重だ。
(西銘順治)
 佐藤首相は1965年に日本の現職首相として初めて沖縄を訪問した。その時に「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって「戦後」は終わっていない」という有名なフレーズを発した。この言葉も事前によく練られていたものだった。その間、佐藤日記には「現在沖縄の祖国復帰ということを言っているが逆に言って日本本土が沖縄に復帰するということも言えるのではないか」などと書いていた。沖縄側は「平和憲法」のある日本に復帰したい。しかし、米軍が占領したままの沖縄から米軍が去れば、そこには明治憲法が「復活」し、そっちに「本土」が復帰すればいいんじゃないかという「妄言」である。現実にはあり得ない発想だが、そこまで日本国憲法は嫌いだったのである。

 戦後沖縄のあまりにもひどい人権状況を読めば、僕はいつもなんというか血のたぎるよ憤激、怒りを覚える。そのような怒りは「祖国復帰」という方向でまとまって、戦後沖縄の「正統思想」になった。しかし、それは「基本的人権」「国民主権」「平和主義」の原則に立つ「日本国憲法」の下に帰属したいということである。現実の復帰後の政治過程は、復帰に賭けた夢が裏切られてきた過程だった。その意味で「未完の復帰」だったということがよく理解出来る。

 ちょっと具体的な記述を紹介する余裕があまりなかったが、この本は「アメリカ世」に特化して詳述した本である。その前後の「沖縄戦」や「復帰後の50年」は、ほとんど出てこない。「沖縄戦」に関しては、また別の本が必要になる。それはともかく、この本は大学2年生に理解出来ることを目指して書かれたという。それは十分に果たされたと思う。判りやすくて、心に響く。是非多くの人が手に取って欲しい本だ。
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