尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

石原慎太郎「太陽の季節」「星と舵」などを読んでみた

2021年04月20日 23時22分30秒 | 本 (日本文学)
 読んでおきたいと思っている本がある。「カラマーゾフの兄弟」とか「失われた時を求めて」ではない。どっちも持っているけど、長いから何年も手を付けていない。「資本論」とか「プロ倫」(マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)でもない。まあ、これらはもういいかと思っている。僕が言っているのは「アンネの日記改訂新版」や「カサノヴァ回想録」、ソルジェニーツィンの「収容所群島」、吉川英治「宮本武蔵」なんかである。どれも持ってはいるのである。これらの本は「読んでますよ」と「」マークを押してしまいたいのである。

 そんな本の中に石原慎太郎太陽の季節」があった。いや、これは文学史を超えた社会的事件だったから、読書好き、歴史好きなら読んでおくべき本だろう。そう思うんだけど、そう思ってから半世紀読まなかった。僕が持っているのは、「新潮日本文学」という一人一巻を割り当てた全64巻全集の第62巻「石原慎太郎集」である。刊行されたのは1969年5月だが、それじゃ中学時代だから多分もう少し後の高校時代に買ったと思う。ちなみに定価700円。

 先の日本文学全集の63巻は開高健、64巻は大江健三郎だった。つまり60年代末において、石原、開高、大江が最新の日本文学だったのである。しかし、石原慎太郎は1968年の参議院選挙で、自民党から全国区に出馬して300万票を超える得票で当選していた。だから僕が本を買った時点ですでに政治家だった。1972年に衆議院に転じ、1975年には都知事選に立候補、三選を目指した美濃部亮吉に敗北。その後衆議院に戻って、自民党内でも右派に属して活動。環境庁長官運輸大臣も務めた。そういう右派系政治家の本はなかなか手に取る気にはなれない。
(2012年に都知事を辞任する時)
 1999年から2012年にかけて石原慎太郎は東京都知事だった。給与明細を見ると、給与支払者が石原慎太郎だった。ますます読む気にならない。しかし、それもずいぶん昔の話で、開高健を読み直した今となっては、そろそろ石原慎太郎も読んでおきたい。そう思ったわけだが、上下2段組で430ページ以上あって、長い。半分ぐらいが「星と舵」(1965)というヨットレースに臨む長編で、もう一つ「行為と死」(1964)という長編が入っている。他に「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」「乾いた花」「待伏せ」の5短編が収録されている。全部政治家になる前の作品。

 これを読んで判ったのは、石原慎太郎は短編作家である。長編は面白くないし、短編の集まりみたいな作品だ。しかし、文章的には今もなお古びてない。戦後派の作品などを読むと、今ではもう文章が古いと感じる時がある。やはり石原慎太郎で変わったのである。開高健や大江健三郎の先駆けだったのは間違いない。文体的に今も文学史的価値を持っている。ただ相当に内容に問題ありだ。「栴檀は双葉より芳し」の正反対で、やはり石原慎太郎は若い頃から性差別的であり、権威主義的な香りが漂っている。

 「太陽の季節」は高校生の話なので驚いた。今では書けないかもしれない。石原慎太郎の作品は、弟の石原裕次郎主演でたくさん映画化された。「性と暴力」に明け暮れるイメージが作られ「太陽族」という言葉が生まれた。倫理無き若者たちの生態をヴィヴィッドに描き出し、面白いには面白い。しかし、無理に「反倫理」にしている気がしないでもない。敗戦と占領を若くして経験した世代ととして、虚無感反逆心を持ったに違いない。だがそのような思いを形にするときに、自我にとって真に切実な描き方になっているか。

 「太陽の季節」は石原慎太郎の実体験ではない。神奈川県立湘南高校から一橋大学に進学した石原慎太郎は、当然高校時代は受験勉強したはずだ。一方弟の裕次郎は、逗子中学から慶応義塾高校を受験して失敗、慶応義塾農業高校に進んだ。そんな高校があったのかと思ったら、今の慶応志木の前身だった。途中で慶応高校に転じ、慶応大学に内部進学した。相当の放蕩生活を送ったとされ、裕次郎から聞いた放蕩する高校生のエピソードから「太陽の季節」が生まれたらしい。その意味で「受け狙い」的な感じを受けてしまうのである。

 文学は道徳ではないから、主人公が反倫理的であっても構わない。人間性の中には「」もあるし、「自己逃避」や「歪曲」もある。若い世代が主人公だから、無知や臆病も当然ある。人間は肉体を生きているんだから、「暴力」や「」を真っ正面からテーマとするのは正しい。頭で考えたような行動をする人間では文学にならない。そうなんだけど「完全な遊戯」はやり過ぎだろう。「処刑の部屋」もそうだが、世の中には「レイプ」という現実もあるが、「準強制性交等罪」をここまで読まされると辛くなる。「準」の付く意味は自分で調べて欲しい。
(若き日の慎太郎と裕次郎)
 「行為と死」は発表当時性描写が議論を呼んだという。しかし、今読むとそれほどではない。むしろ「スエズ動乱」を背景に、エジプト女性と人生を賭けた恋をしたという設定に驚いた。イスラム教が身近な存在じゃなかったんだろう。いや、当時のアラブ民族主義が燃えさかった時代には、イスラム教と社会主義が両立するという主張もあったぐらいで、日本人(一応仏教徒として多神教徒)と対等な恋をすることも無かったとは言えないのかも。その想い出を胸に、帰ってきた日本で不毛の愛に耽る主人公の男。どうも純文学と娯楽小説の中間の感触。

 「星と舵」はトランスパック・ヨットレースというロサンゼルスからホノルルを目指す外洋レースに参加した日本艇を描く。しかし、レースになるまでが長く、そこはほとんど女の話。ヒマなときにメキシコまで売春婦を買いに出掛けるぐらい。行きの飛行機では、機長室まで招待され一緒に女の話をする。おかしいだろ、いくら何でも。ヨット自体が「女」の象徴とされ、まさに「処女航海」を楽しげに語る男たちのクルー。男だけのスポーツの結びつきが、いかに「ホモソーシャル」な言説空間になるか。ある意味、歴史的に貴重な文献かと思うけど、今となっては居心地悪い。

 もう90歳近い石原慎太郎だが、今年になって「男の業の物語」なんて本を書いている。「男が「男」である証とは。自己犠牲、執念、友情、死に様、責任、自負、挫折、情熱、変節…… 男だけが理解し、共感し、歓び、笑い、泣くことのできる世界。そこには女には絶対にあり得ない何かがある。」んだそうである。まさに「栴檀は双葉より芳し」の正反対というゆえんである。 国会議員となってもずいぶん本を書き、「化石の森」「秘祭」「生還」などかなり評価された。読んでもいいんだけど、探すのも面倒だしもういいか。

 短編の「乾いた花」は篠田正浩監督の映画の原作。これは面白かった。まあ映画を見ている人は、池部良、加賀まりこの顔が浮かんでしまうけれど。今は初期短編も文庫から消えているのが多いので、「石原慎太郎映画化短編傑作選」という文庫をどこかで出してもいいと思う。最後に言えば、60年代は安部公房遠藤周作大江健三郎などのノーベル賞レベルの作品が書かれていた時代だ。僕も若い頃に「砂の女」「沈黙」「万延元年のフットボール」などを読んでいる。あえて石原慎太郎を読む必要が無かったわけだと今回思った次第。
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