尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山谷初男、川又昂、西岡善信-2019年10月の訃報②

2019年11月05日 22時43分41秒 | 追悼
 八千草薫さんや和田誠さんの他にも、映画関係者の訃報があったのでまとめて書いておきたい。まず、俳優の山谷初男(やまたに・はつお)。10月31日没、85歳。秋田の角館出身で、実家は旅館「やまや」をやっている。元は舞台俳優だが、60年代末から若松プロや日活ロマンポルノなどにものすごくたくさん出ていた。だから、そういう「異能」の俳優のようなイメージがあるんだけど、訃報ではテレビで知られた人のように出ていて、そんなにテレビに出てたんだと思った。

 蜷川幸雄演出の舞台などにも多数出ているから、もしかしたらナマで見てるのかもしれないが覚えてない。出演映画を見ても、「赫い髪の女」「ツィゴイネルワイゼン」「火宅の人」など、僕が好きで何度も見てる映画がいっぱいあるけど、山谷初男がどんな役だったかよく思い出せない。だからこそ、俳優二人だけの「異常性愛」映画「胎児が密猟する時」(1966、若松孝二監督」が思い出される。何しろ役名が丸木戸定男というんだからすごい。林美雄がやってたラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」によく出てきて歌っていたような気がする。若い頃よく見た映画を思い出す俳優。

 映画の技術系スタッフはあまり注目されないが、かつての日本映画を支えた二人の人物が亡くなった。まず、撮影監督川又昂(かわまた・たかし)、10月5日没、93歳。1945年に松竹に入社して、戦後の小津作品では助手を務めている。「晩春」「麦秋」「東京物語」などで、1958年の「彼岸花」まで続いている。(撮影監督は厚田雄春。)1959年に昇格して、主に野村芳太郎監督と大島渚監督の映画を担当した。大島の「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」をすべて撮影した。「日本の夜と霧」はともかく、「青春残酷物語」の成功は撮影にも負っている。
(川又昂)
 野村監督は清張原作の大作で知られるが、60年代を通して様々な娯楽映画を量産していた。ラブコメでもミステリーでも何でもござれで、それらの映画を川又の撮影が支えている。「ゼロの焦点」「左ききの狙撃者・東京湾」「拝啓天皇陛下様」などは撮影の功績が大きい。そして「砂の器」「八つ墓村」「鬼畜」などの代表作を撮る。そして最高の達成は、モノクロで撮った今村昌平の「黒い雨」となる。川又昂が見つめた戦後社会を追うと、それが日本の戦後史に重なる。そのような重要な映画人だった。

 西岡善信は主に大映映画美術を担当した人である。10月11日没、97歳。撮影以上に美術に注目して映画を見る人は少ないだろう。でも時代劇などで壮大なセットを作り上げるのは美術監督なのである。マスコミの訃報でまず「地獄門」と出ている。カンヌ映画祭グランプリを受賞した時代劇だが、その美術は伊藤熹朔である。まだ助手だったのかと思う。しかし、「炎上」(「金閣寺」の映画化、1958年)では西岡の名前になっている。若尾文子主演の「越前竹人形」や「華岡青洲の妻」なども担当した。忘れがたい映像世界が西岡の作り上げたものだ。
(西岡善信)
 それらの業績は大きいが、この人の最高の仕事はそこではない。市川崑や増村保造と組んで素晴らしい仕事を続けてきた大映という会社が1971年に倒産してしまったのだ。その時に西岡が社長となって株式会社「映像京都」を作って、大映の優れた技術スタッフが四散しないようにしたのである。1972年の市川崑監督のテレビ映画「木枯らし紋次郎」に始まり、70年代以後のテレビ時代劇の多くがここで撮影された。そして「鬼龍院花子の生涯」「陽暉楼」「利休」「忠臣蔵四谷怪談」などの壮大なセットを西岡が作り上げた。映画の成功に西岡の美術が大きく貢献したのは間違いない。
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