尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

奪うこと奪われること-映画「万引き家族」をめぐって②

2018年06月26日 23時51分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「万引き家族」は東京の「下町」を舞台にしているとよく言われる。本来の下町は江戸の商業地域、つまり日本橋や神田あたりのことである。近年になってどんどん言葉が広がり、今は東京23区の東部や南部の工業地域、住宅地帯まで指すことが多い。時代とともに言葉の意味も変わっていくけれど、それにしても千住品川は宿場町である。下町どころか江戸でもなかった。近代になって東京に組み込まれたが、そこは「場末」と言われて貧困地域のことだった。

 日本では古い一軒家や安アパートの近くに高級マンションが建ってたりする。はっきりしたスラム地域がない感じだが、今では「下町」という言葉は一種「貧困地域」の「言い換え用語」になっているんじゃないか。「花の咲いたプランターが道に並んでる」は「庭がない狭い家」を意味するはずだが、マスコミでは「街をきれいにする人情味あふれる下町」と表現される。まあ一事が万事、そんな感じ。最近は「川の手」という用語が使われることもあるが、同じことだ。

 最近東京のある中学校で性教育の授業が行われ、それに都議と都教委がイチャモンを付けるという「事件」があった。(このブログでも何回か記事を書いた。)都教委が問題視したのに対し、区教委は「貧困の連鎖を防ぐ」ことは地域の課題で問題ないと言った。その中学は「万引き家族」の舞台に近いあたりだ。僕はこの地域の中学、高校に20年以上勤務した。荒川堤防のすぐ下にある中学や名前にも荒川とか墨田川(川の名は隅田川だが)が付く高校に。

 この映画を見てると、心苦しいというかザワザワ胸騒ぎがするというか…。冒頭に一家の家が映し出されたときに、あっここだ、この家は行ったことがあると思ってしまった。不登校だった生徒を家庭訪問した家だ。いや、もちろん違う。あの家はアパートだったはずだ、一軒家ではなく。でも似てるな、まとっている空気が。なんというリアルな貧困描写。サッカーの大迫選手じゃないけど、「是枝監督、半端ないって」と言うしか言葉がない。「現代日本のリアル」を映し出している。

 以下、家族の事情に少し触れざるを得ない。「万引き家族」という題名と事前報道から、この家族は全員が働いていないのかと思っていたら違った。リリー・フランキーは建設現場で、安藤サクラはクリーニング屋で、松岡茉優は性風俗店で働いている。そしてリリー・フランキーは現場でケガして働けなくなったが労災は下りない。「労災」とは「労働者災害補償保険」のことで、保険だから事前に保険金を払ってなければ当然払われない。どういう雇用契約か判らないけど、自分でケガしたわけじゃないんだから、労災になると当初は本人も思っていた。その経緯を問いただすこともないが、彼は「奪われたもの」だった。万引きの常習で、彼は「奪うもの」でもあるけど。

 安藤サクラもクリーニング屋を解雇される。その経緯も理不尽なもので、店主から時給が高い二人のうちどっちかが辞めて欲しい、どっちが辞めるかは二人で決めてくれと言われる。これはベルギーのタルデンヌ兄弟の「サンドラの週末」と似た設定だけど、その映画と違って日本では労働者の連帯は描かれない。お互いに相手の弱点を言い合うが、柴田家に居ついた幼い女の子を相手が見ていて、その秘密をばらすと脅すので安藤サクラが辞めるしかない。だが退職金や失業保険という話は全然出て来ない。彼女もまた「奪うもの」にして「奪われたもの」として生きてきた。

 そして樹木希林演じる初枝もまた「奪われたもの」だった。だが彼女の場合は「夫を奪われた」らしい。夫が別の女性に心変わりしたらしいが、その事情は説明されないから判らない。松岡茉優が同居した事情も判らないけど、彼女は樹木希林の前夫の孫にあたるらしい。時々樹木希林は前夫と後妻の間の息子の家を訪れ、前夫の位牌に線香をあげる。それは理解できる心理とも言えるが、相手のうちでは来るたびに「心付け」を渡していて本音では迷惑している。事情は判らないけど、樹木希林の行動を「奪われたものが奪い返す」と見えなくもない。

 現代社会では多くの商品に囲まれて生きている。今さら自給自足もできないから仕方ないけど、この商品は貨幣と引き換えじゃないと入手できない。しかし彼らは「奪われたもの」だから、所有する貨幣が少ない。よって「奪われたものを奪い返す」ために万引きする。「店の商品は買われるまでは誰の所有物でもない」というへ理屈を子どもは言っている。それが本当なら堂々と持って帰れるはずだが、実はこそこそと隠して持ち出そうとしている。少なくとも「そんな悪いことじゃないけど、お店に見つかるとまずい」程度の考えは持っている。

 モノやサービスが商品として流通する社会では、本来商品であってはいけないものも「商品化」される。衣食住全部が商品だから、住んでる人間も商品に見られてくる。家や服には値段があるわけだから、家や服を見れば「いくらぐらいの人間」かが判るわけだ。出会いにも階級性があり、貧しいものには「性の商品化」を通してしかなかなか出会いがない。松岡茉優は自分の性を売り物にして出会いがあるが、どうやらリリー・フランキーと安藤サクラの出会いも性風俗だったらしいことが示唆されている。それどころかもっとすさまじい事情もあったことがラストで判る。

 どこにも「連帯」のきっかけさえ見つからない荒野を彼らの家族は生きている。連帯感がないわけじゃないのは、子どもたちと暮らしている事情から想像できる。でも社会的な連帯、あるいは福祉制度などへの期待はまるで感じられない。擬制的な「家族」だけしか信じるものがない。樹木希林が死んだあとで、葬式をせずに埋めてしまったことが、後で死体遺棄に問われる。でも警察に「捨てた」と言われた安藤サクラは「捨てたんじゃなくて拾った」と答えるのは、彼らの精神構造をよく示している。何物も信じない彼らは「家族」だけを信じている。

 映画内で「連帯」に近い感情を持っているのは、柄本明が演じる駄菓子屋の主人である。万引きした少年祥太に対して、万引きをとがめるのではなく「妹にはさせるなよ」と言うのである。荒野の中で一滴の水を与えられた少年は、そこから変わってゆく。彼ら家族は単なる「犯罪者」と言うより、意識の中では自分たち家族を救う「義賊」のつもりだったかもしれない。でも実は「仲間殺し」だった。彼らの住む町にある、経営もそんなに良くはないだろう店を困らせているだけである。

 連帯のかけらもない荒野の日本社会。僕らが生きている社会のリアルな認識だ。フランス映画「ティエリー・トグルドーの憂鬱」という映画があった。2015年カンヌ映画祭でヴァンサン・ランドンが男優賞を獲得した。ステファヌ・ブリゼ監督のその作品では、失業した男にようやく見つかった仕事はスーパーで万引きを監視する監視員だった。監視カメラをいくつかのテレビ画面で見ていて、怪しい人を見る。それどころか同僚が不正をしないかも監視する。それが「憂鬱」である。先に挙げた「サンドラの週末」と合わせて見る機会があれば、ヨーロッパの映画監督の問題意識は是枝監督と同じことが判る。だが描き方は正反対だ。そこに日本の絶望がある。
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