尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「生き急ぐ」安倍外交-安倍内閣のいま①

2014年01月27日 23時49分19秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍首相と安倍内閣について数回ほど簡単に。昨年末の「特定秘密保護法」と靖国参拝を受け、通常国会が始まった段階で、「2014年の安倍内閣」を考えておく。

 まず最初に「外遊問題」。安倍首相は昨年来、今年に入っても外国訪問を繰り返している。もう今年度の予算を使い果たし、予備費を使っているという話である。他にも、東北被災地を初め国内訪問も多い。もちろん、合法的に選出された日本の政治指導者は、東日本大震災の被災地に行かなくてはいけないし、諸外国もたくさん訪問するべきだ。国内政局が不安定なために外国訪問もままならないような政権が続いていたのは、確かに問題だった。日本の首相のサハラ以南のアフリカ訪問は、小泉首相以来8年ぶりである(エチオピア、ガーナ)。

 もっとも安倍首相の1年間の外国訪問は16回だが、実は野田政権の外国訪問も16回と同じなのである。ただ、野田首相はサミットとか国連総会とかAPECとかASEAN首脳会議とか、そういうのに出かけてそのまま会議に出ただけで帰国というのが多い。また安倍政権では当面実現不可能な「日中韓サミット」というのもあった。そういう会議出席ではない外国訪問は、訪問順に韓国、中国、インド、米国しかなかった。これは必要最小限というべきものだろう。また会議出席では会議のニュースの中で諸外国の首脳と一緒にテレビに映るので、印象に残りにくい。それを思うと、「親善を深める」目的の訪問が多い安倍首相は、外国にいっぱい行ってる印象が残るわけである。

 ではどこに行ってるか、紹介しておきたい。
2013年
1月16日-19日 東南アジア(ベトナム、タイ、インドネシア
2月21日-24日 米国
3月30日-31日 モンゴル
4月28日-5月4日 ロシア及び中東諸国(サウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコ
5月24日-26日 ミャンマー
6月15日-20日 G8ロック・アーン・サミット出席及び欧州諸国(ポーランド、アイルランド、英国
7月25日-27日 マレーシア、シンガポール、フィリピン
8月24日-29日 中東・アフリカ諸国(バーレーン、クウェート、ジブチ、カタール)、
9月4日-9日 G20サンクトペテルブルク・サミット及びIOC総会出席(ロシア、アルゼンチン
9月23日-28日 カナダ及び国連総会出席(ニューヨーク)
10月6日-10日 APEC首脳会議等(バリ)及びASEAN関連首脳会議(ブルネイ)出席
10月28日-30日 トルコ
2013年 11月16日-17日 カンボジア,ラオス
2014年
1月9日-15日 オマーン,コートジボワール,モザンビーク,エチオピア
1月21日-23日 ダボス会議出席(スイス)
1月25日-27日 インド

 東南アジア諸国はすべて訪れた。トルコやロシアなど複数訪れた国もある。モンゴル、インドなどを訪れながら、中国、韓国がないのがいかにも不自然。アフリカも近年中国の経済的進出が著しいので、全体的に「対中国包囲外交」的な側面がうかがえるのは否定できない。これはいかにも問題ではないのか。東南アジア諸国と友好を深めること、中国との関係を「戦略的」に思考することは必要だと思うけど、中国に行けないような状況は日本にとっても本人にとっても、望ましいことではないはずだ。

 それと「原発輸出外交」を進めていること。トルコ、ベトナムだけでなく、今回のインド訪問も本来核兵器開発国であるインドと防衛協力を進めることは問題のはずであるが、もはや全く念頭にないのではないか。次回は2月7日のソチ五輪開会式になりそうだ。これも問題山積で、欧米諸外国首脳が軒並み欠席する見通しのところ、安倍首相だけがサミット参加国で出席することになりそうだ。開会式の2月7日は、もともと「北方領土の日」(幕末の日露和親条約締結の日)なんだけど、政府主催の式典に出席した後に、政府専用機で出かけるということだ。時差の関係でそれでも間に合うということなのだろうか。

 欧米諸国首脳が欠席するのは、プーチン政権の強権的体質、特に「同性愛関係の宣伝行為(プロパガンダ)禁止法」に反対の意思を示す目的がある。安倍首相はこの問題を人権問題ととらえられないかもしれないが、これではやはり「日本はロシアと並んで共通の価値観に立ってない国」だと思われてしまうだろう。日本は国会開会中だし、日本で人気が高いフィギュアスケートなどを応援方々、後から行けばいいではないかと思うが。それでも開会式に無理していくのは、「プーチンに恩を着せる」ということだろう。でも、それでロシアが北方領土を返還するということにはならない。「日本は人権を重視しない国」という印象を強めるだけだろう。大体、プーチンとかエルドアン(トルコ首相)とかと何度も会ってるというのも、「選挙で選ばれた政治家で、伝統重視で強権的手法が好きなタイプ」という共通点で意気投合したのではないか。

 そういう風に安倍外交には様々な問題があるのだが、それ以上に最近は「行き過ぎ」感が強まってるという問題がある。ダボス会議から帰って、翌日に国会で施政方針演説を行い、その翌日にはインドに行くなどというのは、どう考えても「張り切り過ぎ」ではないのか。ここまで「元気」で「張り切っている」首相を持つということは、国民として喜ばなくてはいけないのか。でも、やり過ぎは何か大きな穴に近づいている不安感も抱かせる。急ぎ過ぎではないのか。もっと言えば「生き急いでいる」感じがしてしまう。この「生き急ぎ」というのは、もちろん人間の生命のことではなく、「政治的生命の旬の時期」ということである。どんな高支持率を誇る政権でも、だんだん飽きられるし、選挙ではうまくいかないことも起こる。

 だから政治的基盤が強い時期に、どんどん「蒸気機関車に石炭をどんどんくべる」ようにエネルギーを全開させて、自転車操業というか、とにかくやり切るという感じを持つのである。行き着く所は、「いよいよ憲法改正」なのか、それとも「やはり抱える健康不安」なのか。それにしても、源実朝が官位がどんどん上がって行ったことに当時の人々が不安を感じたことを思い出すといっては、不謹慎なたとえに過ぎるだろうか。とにかく、「そこまではやらないだろう」などと思わない方がいいと思っている。次の選挙で何かあれば、「改憲派」は衆議院で3分の2を失うだろう。その前に、公明を引き留めつつ、「維新」「みんな」を引き入れるという策略はもう完成間近ではないか。
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「学校群制度」を、今どう考えるか

2014年01月27日 00時24分58秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 中高一貫校問題の新書を読むと、東京都の高校入試制度だった「学校群制度」についての話がよく出てくる。そこで最後に、この制度に付いて、今どう考えるかを書いておきたい。自分が高校を受けるときは、ちょうどこの制度だった。もうこの制度を直接知る人も少なくなっているが、今の制度に慣れてしまうと、ちょっと信じがたい部分もある。今は大体「都立高凋落の原因」と非難されることが多い。

 都教委は、2014年1月23日に、「東京都立高等学校入学者選抜検討委員会報告書」なるものを発表した。入学者選抜のあり方を多少見直すということである。(細かくなるので、今は紹介しない。)その報告書に東京都の高校入試制度の変遷が書かれている。(16頁~)大きく言うと、以下の5つの時期に分かれるのである。
新制高等学校発足から学区合同選抜制度まで(1947~1951)
学区合同選抜制度(1952~1966)
学校群制度(1967~1981)
グループ選抜制度(1982~1993)
単独選抜制度(1994~) なお、2003年度からは「学区制度」も撤廃されている。

 各制度の詳細を知りたい人は前記報告書などを見て欲しい。こうして見ると、学校群制度以前も、単独選抜ではなかったことが判る。②の「学区合同選抜」と④の「グループ選抜」は、かなり似ている。「単独選抜」になったのは、1994年からだから鈴木俊一知事時代。「単独選抜」が「石原教育行政」の「競争政策」で始まったわけではない。「学区撤廃」は賛否があるが、都内でも特に23区内は地下鉄等の公共交通機関が多く、昔に比べて通学範囲は大きく変わっている。そういう事情を考えると、ある種の合理性はあると思われる。学区撤廃後の大きな混乱は起こっていないと思う。なお、島しょ部の普通科高校だけは、自由に受けることができない。大島海洋国際高校は都民なら誰でも受けられる。また、職業科高校はずっと学区と関係なしにどこでも受けられる。60年代後半以後にたくさん作られた新設普通科高校も、学校群と無関係に単独で受けられた。

 さて、岩波新書「中学受験」では、以前の都立高校がうまく行っていたと奥武則(法政大学教授)という人の主張を引用し、「この都立高校のシステムを崩壊させたのが、当時の東京都教育委員長だった小尾乕雄(1907~2003年没)だった。」(38頁)と書かれている。小尾乕雄(おび・とらお)は後に文教大学を開設する著名な人物だが、「教育委員長」ではない。もちろん「教育長」である。(岩波新書は「教育委員会」という本も出したばかりなのに、こういう間違いがあるのは驚く。教育委員長が教育行政を主導できるように間違うこと自体、教育行政に不案内なのか。)

 河合敦氏の新書では、「世にも奇妙な学校群制度」と題した章があり、「前代未聞の愚策」とされている。さらに「まさに人権の無視だといえる」とまで書かれている。では学校群とはどういう制度か。河合氏の説明を引用すると、「ナンバースクールを含めた複数の周辺校を群(グループ)としてくくり、中学生にはその群を受験させることにしたのである。そして合格者はアトランダムに群内の学校に振り分けられる。つまり、自分が入りたい学校を受験生が個人の意思で選べないのだ。」(15頁)

 ナンバースクールというのは、旧制の東京府立中学および東京府立高等女学校から続く都立高校のことで、特に明治、大正時代に作られたひとケタ台の学校は、長い伝統を誇る「名門校」とされている。簡単に紹介すれば、府立一中が日比谷、以下順番に立川、両国、戸山、小石川、新宿、墨田川、小山台となる。昭和に入って設立された九中が北園、十中が西(以下は省略)。一方、府立高女では、第一が白鷗、以下竹早、駒場、南多摩、富士、三田、小松川、八潮の第八高女までが大正までの設置である。こうして見ると、現在の進学重点校、都立中高一貫校にはナンバースクールが多いことが判る。東京以外の人には、煩雑な説明だったかもしれない。

 中でも日比谷高校1964年の東大合格者数で193名と圧倒的にトップを誇っていた。(岩波新書「中学受験」)2位が西高で156名、続いて戸山101名、新宿96名、次に教育大附属(国立)をはさみ、6位に小石川80名、私立麻布をはさみ、9位に両国64名と、10位以内に都立高校6校が入っていた。それが1977年のランキングでは、10位に西高が52名、13位に青山が41名、15位に富士が40名、17位に戸山が35名と、20位以内まで見ても4校になった。まあ、激減には違いない。それでも西、戸山などは健闘しているが、日比谷はランク外になってしまった。これが「都立高凋落」と言われるものの実態である。
(都立日比谷高校)
 以上のうち、戸山と青山は22群、西と富士は32群と、同じ学校群に所属していた。このように高い進学実績を誇る高校が2校組んだ場合は、それほど「東大合格者数」が落ちなかったのである。日比谷高校は「11群」となり「日比谷、三田、九段」と一緒だった。三つもの高校が同じ学校群になれば、当然(それまでと同じ学力レベルの中学生が受験したとしても)合格レベルが下がることになる。日比谷高校のある第一学区は千代田、港、品川、大田区だから、比較的豊かな階層が多い地域である。そこで、かなりの生徒が都立11群は滑り止めにして、私立高校に進学するという選択をした可能性が高い。その結果、東大合格者数で見る限り、日比谷高校は激減したわけである。

 ところで、これだけみれば、学校群制度は確かに「大愚策」にも思えるが、もちろんそういう制度をつくるには、それなりの事情があったわけである。ここまで日比谷高校が東大合格に近いとなれば、競って日比谷高校に入れたい親が多数出てくる。学区制があるから、先の4区に居住していないと日比谷高校を受けること自体できない。だから、日比谷にわが子を行かせるには、まず「転居」する必要がある。日比谷にもっとも合格者を出す中学は、千代田区立麹町中学校とされていた。そこへ入るには、千代田区立番町小学校から行くことになる。こうして小学生から子どもを「越境通学」させる風潮が蔓延したわけである。先の報告書でも以下のように書かれている。

 「いわゆる有名都立高等学校への過度の集中など、都立高等学校相互間の格差が固定するという課題が生じた。このため、中学校における過度の入試準備教育が行われ、中学校教育に弊害が生じることとなった。また、特定の高等学校に進学するために、小学校段階より越境入学が蔓延するなど、小学校教育にも弊害が生じていた。」

 学校群制度を非難する言説では、これらの事情が全く触れられない。僕はやはり60年代半ばの東京の公教育の実情は改革が必要だったと思う。それが「日比谷高校」の「凋落」を伴うのも仕方ないのではないだろうか。大きな目で見れば、日本の高度成長に伴い、「豊かな階層」が子どもを私立名門校や有名私立大学附属高(附属中)に進学させる風潮は、学校群がなくても生じただろう。だから進学実績が都立優位から私立優位に移ったのは、本質的な問題とは言えないのではないか。
(第2学区の学校群制度)
 問題は「学校群では進学する高校を自分で選べない」ということをどう考えるかである。僕もこれに関しては、自分の受験当時から完全に納得できるものではない。自分が52群を受験したとき、「上野高校、白鷗高校」のどちらかになるか、何の希望も聞かれないことに不満はあった。(自分は、「高校紛争」で定期テスト廃止、自主ゼミ創設など画期的な改革を打ち出した上野高校に行きたかったのである。)その場合、友だちと違う学校に分けられるということが一番大きな問題であって、学校内容はどっちになっても大きな不満はない場合が多いと思う。レベルが同じ程度で通学距離もあまり違わない高校を組み合わせれば、どっちになっても学校振り分けの不満は起こらない。(繰り返すが、友人と別になったということと、希望を全く聞かれないという2点についての不満は残る。)

 河合氏が「人権無視」だというのを読んで、そういう考えがあるかと思い、かなり考えさせられた。学校群制度が「人権無視」だとすれば、当時の生徒は「人権侵害を受けた被害者」である。僕は白鷗高校の生徒会で制服廃止運動は多少行ったけれど、「学校群制度を廃止せよ」という運動は行わなかった。というか、当時誰も自分が「被害者」だとは思っていなかった。子どもは大人が決めた受験制度の中で高校に進学するしかない。それが不満がある制度だったとしても、「そういうものだ」と思うのである。入れば入ったで、新たな友人ができて楽しくやっていく。中学時代の友人は、もともと違う学校群を受けたり、職業高校や私立高校へ行ったりする方が多い。中学を出たら様々な道に進むのは当然。学校群制度で友人とは違う学校になっても、そういう「一般的な別れ」の一種だと理解していたのである。

 群よう子「都立桃耳高校」(新潮文庫)という小説がある。今は古本でしか入手できないようだが、これは学校群時代の高校の様子を伝える面白い本である。そこにも書かれているが、同じ都立と言えど、地域性や伝統の違いで、ある程度気風の違いが出てくる。学校群では自分で希望したわけではなくアトランダムに振り分けるのだから、そういう伝統は消えていくはずである。しかし、各校の気風はやがて「伝染」して行って、なんとなく学校群以前の伝統が残って行ったのである。それが「学校」と「地域」の力と言うべきもので、結局大きな目で見れば、学校群制度は(一部有名校の進学実績を除けば)、都立高校の気風に大きな変化をもたらさなかったのではないだろうか。
 
 ところで、学校群が廃止された後、グループ選抜という制度になった。自分が中学教員になった時(1983年)には、制度が変わっていたので、最初は戸惑った。これは同じ学区を2つ程度の地域グループに分け、そのグループの中で希望校を受けるが、グループ全体で合否判断を行うというものである。だから、グループの最難関校を受けて不合格になっても、グループ全体としては合格することがある。その場合、上位校はすべて希望者多数でふさがっているが、下位校に空きがある場合そこに進学できる。この制度は果たして学校群よりいいのだろうか。僕は教員としてみる限り、改善とは思えなかった。上位校でも合格者が私立高校に回って空きが出ることもある。その場合、中堅校で不合格になった生徒がグループでは合格して、後から空きの出た最上位校に合格することもあった。そういう場合、生徒も教師も非常に苦労したということを聞いている。

 一方、学校群時代は、進学校でも東大合格の縛りが薄まり、それなりに行事や部活、生徒会、あるいは自分の趣味などに時間がさけるので、結構生徒は充実していたのではないか。最難関の日比谷では「生徒のレベルが落ちた」と不満だったというが。今、年長の都立高教員には学校群時代の都立出身者が多いが、大体は「昔の都立は良かった」と思っていると思う。その「昔」は学校群以前の時代のことではなく、学校群時代の都立も捨てたものではなかったと思っているのではないか。どんなもんだろうか。最後に繰り返しになるが、もう一度言っておくと、「学校群制度」を全面的に肯定するものではない。だけど、中学時代の友人と別れるのも、中学卒業というものではないかと思っていたのである。さらに、職業高校や定時制に行くクラスメイトは初めから学校群には関係ない。「学校群=都立凋落」というのも、一面的な見方ではないだろうか。
コメント (2)
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