尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「七人の刑事 終着駅の女」-駅と映画

2013年01月05日 22時12分14秒 |  〃  (旧作日本映画)
 ポレポレ東中野で、特集上映「駅と映画」をやっている。ここは写真家の本橋成一氏が持っている映画館だが、本橋さんの「上野駅の幕間」という有名な写真集の新装版が出た記念。日活100年特集も兼ねていて、古い日活映画5本とブレッソンの「スリ」、アニメの「秒速5センチメートル」を上映している。鉄道映画というジャンルはよく聞くが、「駅映画」なんて初めて聞いた。

 「七人の刑事 終着駅の女」(1965、若杉光夫監督)は、今回の目玉らしい。昔の上野駅がいっぱい出てくるというので出かけて行った。今調べてみると、この映画はきちんと公開されなかったらしい。「七人の刑事」は、TBSの有名なテレビ番組で、1961年から1969年まで放映された。僕は同時代的に名前は知ってるけど、小学生の頃だからよく覚えていない。テレビと同じキャストで撮られた映画を見ると、芦田伸介や佐藤英夫なんかの顔を思い出す気がする。日活で映画化されたのはこの一本だけ。この頃は「事件記者」というNHKの番組が大人気で、日活で映画シリーズになった。

 人気テレビドラマが映画になるときは、今では「映画版」と銘打って「超大作」扱いで製作されることが多い。しかし当時は高い知名度を生かした「プログラム・ピクチャー」で、二本立ての添え物映画が多い。(映画の「事件記者」は50分ほどの中編映画として作られている。)予算もあまりないからだろう、ほとんどロケで撮影され、社会派推理小説みたいな話をドキュメント・タッチで撮っている。それが今になると貴重で、映画そのもの以上に時代背景やロケ地を探るために役立つ。東映の「警視庁物語」シリーズなんか、今見ても60年代日本を考えさせる映画になっている。

 「終着駅の女」は、上野駅の列車内で死体が発見されるという衝撃的な設定で、もう上野駅ばかり映されている。第一発見者の駅員はショックで倒れて救護所に運ばれるが、話を聞くとバッグが盗まれたらしい。聞き込みで男の特徴があがってくると、どうも「ショバ屋」らしい。なんだ、それは。場所取りして、その席順を売る仕事らしい。東北新幹線ができる20年近く前の話で、並んで座る場所が取れないと、ずっと立ってないといけない。

 殺人捜査を進める中で、置き引き常習犯など駅に生きる小悪党の実態が見えてくる。新聞に載った記事を見て、自分の娘や妻ではないかと名乗り出る人々の姿も哀れである。知り合いではないかと来た女の様子が変だと後を付けてみると、地場のヤクザ大沢興行の姿がチラホラ出てくるよう。という筋立ての中で、駅の諸相だけでなく、地下道の店や駅前の様子などもロケされて出てくる。駅を利用する客や駅員の生態などもロケで出てきて、駅そのものが主人公と言ってもいい映画

 「七人の刑事」は、当時のことだから放映されたビデオがほとんど残ってないそうで、映画版は貴重だろう。若杉光夫監督は、劇団民藝所属で民藝と日活が協力していたために、ずいぶん日活映画を撮っている。だから民藝の俳優もいっぱい出ていて、「七人」外の刑事として大滝秀治が存在感を発揮している。日色ともゑもキャスティングされていたが、よく判らなかった。娘を探すために北林谷栄も登場する。今村昌平監督が「人間蒸発」を撮るのは1967年だが、60年代には家出を「蒸発」なんて言ってた。娘よ帰ってくれなんて、桂小金治アフタヌーンショーなんかでよく取り上げていた。

 東京は高度成長中で地方の若者の受け皿はいくらでもあったし、地方農村は解体され親の権威も失墜して行った時代である。東北出身者は、上野駅に降りた後は東京東部に居つくことが多く、都市の下層労働者として滞留していく。「東北」が「国内植民地」だった時代の、「最前線の駅」が上野駅。そういう「見えない戦争」の実態を記録した映画とも言える。

 「新しい背広」(1957)という映画がある。東京の建築事務所で働く男女(小林桂樹と八千草薫)の恋愛を描くが、場所は京王井の頭線。その映画でも貧困が大きなモチーフになっているが、23区の西側が出てくるだけでムードが違う。今回上映予定の「乳母車」(1956)は石坂洋次郎原作だが、鎌倉駅東急九品仏駅が出てくる。小津映画のように鎌倉あたりが一番上で、次が東急や京王線沿線に住んでるカップル。上野駅や東京東部(例えば京成線柴又の「男はつらいよ」シリーズ)は、一番下の階層になる。「下町の太陽」とか「いつでも夢を」「見上げてごらん夜の星を」などが「下町映画」。東京の中に明確な階級対立がある。

 僕は高校時代3年間地下鉄上野駅から高校へ通った。大学、大学院の期間も地下鉄と国鉄を上野駅で乗り換えていた。今でも遠くに出掛けるときに、上野駅を利用することがある。今の上野駅もよく知ってるし、映画の中の60年代の上野駅も知ってる。あの地下街の様子もよくわかるし、地下食堂で食べたこともある。今のエキナカの充実ぶりも素晴らしい。上の階にも店もいっぱいあるし、駅ビル自体が数年前にリニューアルされた。僕が今までに利用したJRの駅としては、1位が上野、2位が池袋なんじゃないかな。よく利用してきた上野駅の姿がいっぱい出てきたので、個人的に嬉しかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「償いの報酬」-マット・スカダー再来

2013年01月05日 00時04分00秒 | 〃 (ミステリー)
 冬の夜はミステリーを読みたい。これは高校生ぐらいからの恒例。学校も休みで、寒い日々、テレビでは年末年始の特別番組が多く、何かしら浮かれた感じもある。テレビをやめて自室に戻るとき(テレビが自分の部屋にある時代ではない)、一人で読みたいのはもうマジメな本ではない。勉強を少し離れて、深々と冷える夜には殺人や陰謀の本が似つかわしい。そして眠気をこらえて読みふけるわけである。真相を早く知りたいと思って。

 ということで年末にミステリーのベストテンなんかが発売されるようになるずっと前から、僕は年末年始にミステリーを読んできた。買ったままの本も多いし、最近買った本も結構ある。何冊か読んでしまおう。という最初は、ローレンス・ブロック「償いの報酬」(二見文庫、2012.10、933円)である。いやあ、6年ぶりのマット・スカダーの再来である。「このミステリーがすごい」で10位に選ばれている。ローレンス・ブロック(1938~)と言えば、マット・スカダー泥棒バーニーの2大シリーズで有名だった。どっちも21世紀の真ん中あたりで新作が途絶えた。もう書かれないのかなと思っていた。終りを覚悟していたと言ってもいい。それが9年ぶりに突然「償いの報酬」という新作が現れたのである。

  
 まあミステリーを謎解き、主には「フーダニット」(Who done it?)、つまり犯人探しの物語と考えるなら、この「償いの報酬」はそれほど傑作とは言えないだろう。大体前半は「犯人じゃない証明」の物語だし、物語全体に「AA」(アルコホーリクス・アノニマス=アメリカのアルコール依存症者の自助団体)の様子が出過ぎている。初めてこのシリーズを読んだ人には取っつきにくいだろう。謎解きという意味では、割と早く「犯人」の推定ができる。(二転三転、急展開という本ではない。ある程度ミステリーを読んでる人なら、「犯人あて」は難しくない。そして、普通の意味での「解決」もない話になっている。)だから、この本はマット・スカダーものを読んできた読者へのサービスのような「内輪受け」というか、スカダー節(まあブロック節なわけだが)を楽しむ本なのだと思う。そう言う風に見れば、こんな嬉しい本も珍しい。マット・スカダーにまた会えるなんて。だから、まだ一度もこのシリーズを読んでない人は、この本からスタートしてはいけない。ハヤカワ文庫の「八百万の死にざま」をまず読んで、面白かったら二見文庫の「墓場への切符」「倒錯の舞踏」あたりの最高傑作レベルを読むといいだろう。それから時系列に沿って、スカダーの個人史をたどっていく。(僕自身は「八百万の死にざま」は文庫で読み、90年の「墓場への切符」からはすべて翻訳が出たときに読んできた。)

 マット・スカダーは最初は「アル中探偵」として現れた。ニューヨークの元警官で、現在は免許を持たずに私立探偵みたいなことをやっている。警官時代に、ある強盗事件で発砲した弾丸が跳飛してヒスパニックの幼女にあたって死んだ。発砲に問題はなく、実際に何の責任も問われていない。しかし、それをきっかけに妻子との関係も崩れ、警官をやめ酒浸りになって行ってしまう。そういう設定で、初期にはニューヨークの匂いが満ちた佳作という感じだったけど、「八百万の死にざま」で「化けた」感じ。一つの時代相を描き切るとともに、謎解きの興味、事件構成の完成度が高い。そして、アル中もここまで来ると調査ができないんじゃないかと心配する感じだったけど、結局「禁酒」した。というか作者が禁酒させたわけである。今度は「禁酒が守れるか」というサスペンスも加わり、AAの活動がらみの話が多くなっていく。そして、ジャン・キーンという彫刻家と付き合いはじめ、僕はこの人と結婚するのかと思ってたけど、やがて関係が壊れてしまって、新しくエレイン・マーデルという旧知の女性と再会して結婚するに至る。

 後半の作品の重要な脇役(以上の作品もあるが)に、ミック・バルーがいる。肉屋の親方なんだけど、実際はアイルランド系のギャングである。ある事件の聞き込みで会わないわけに行かなくなる。思い切って会いに行くが、案に相違して「ウマが合って」しまい、後半生の友になってしまう。このあたりのジャンと別れ、エレインとうまく行き、ミックと友人になるというような設定が、僕はとてもうまいと思う。実際の人間関係には、そういうことが往々にしてあるもんだ。何だかどこかおかしくなって行って別れてしまうとか、変にウマが合ってしまう友達がいるとか。今回の「償いの報酬」はそのミックと、74歳になったマットが昔話をしてると、そう言えば昔こんな事件があったんだよと言う回顧が始まる。「八百万の死にざま」のあと、ジャンと付き合い別れるころ。AAの集会に熱心に通い始めて、禁酒1年がもうすぐ見えてきたという頃(1980年頃)という設定である。同性愛者の中に何か不思議な「死に至る病」がはやり始めているという話が広まり始めた時代。(まだHIVが発見されず、エイズという病名もなかった。)もちろん携帯電話もインターネットもなかった。少なくとも普通の人は使ってない時代。そういう時代を懐かしさをこめて回顧するわけである。マット45歳の時の事件。

 幼なじみだったが引っ越してから会ってない旧友と再会したのは、警察のガラス越し。面通しの対象の悪党としてだった。次に会ったのはAAの集会で、ともにアル中克服をめざす仲間としてだった。AAのステップに「埋め合わせ」というのがあるらしく、アル中で迷惑をかけた人々に償っていかなくてはならないという。と言っても普通の職業ではなく、犯罪者になっていた友が「償い」をしようと思うと、アブナイ面々に会わないといけないかも。その旧友が殺され、そのアブナイ面々が犯人である可能性を調べるように頼まれる。というのが今回の設定である。このシリーズのように、主人公が作品とともに実人生を重ねていくタイプだと、齢を取ってくると捜査がやりにくくなる。警察官という設定だと公務員の定年があるし、私立探偵だって高齢化に伴い身体能力も落ちるし、インターネットを駆使してというようなことも難しい。このシリーズがもう終りかなと思ったのは、作者も「すべては死にゆく」(All the Flowers Are Dying、2005)という題名の作品を書いて、はっきり宣言はしないけど暗示していると皆思ったわけである。ところで、実はまだ話してない過去の調査があって、老友どうしの思い出語りで昔の事件を回顧するというスタイルを発明して、この新作ができたわけである。なるほど、この手があったか。これならもう少し書けるではないか。

 もう一つ、作者が得意にしていたのは、ハードボイルド(スカダー)とコメディ(泥棒バーニー)とスタイルは違うものの、両者ともに舞台はニューヨーク。ニューヨークを描く小説という楽しさがあった。実際にある食べもの屋も登場し、ニューヨーカーの語りを楽しむという面が強かった。ところが「9・11」でニューヨークは大きく変わってしまい、その悲劇とともに「対テロ戦争都市」では「犯罪小説」が書きにくいということもあると思う。ローレンス・ブロック自身は21世紀になっても健筆で、この間は「殺し屋ケリー」シリーズを主に書いていた。これはこれで非常に面白いシリーズで、「殺し屋」ではあるが名短編ばかり、アイディアを小説化するお手本のような作品が多い。だけど中身はと言えば、全米あっちこっちに頼まれて殺人行脚をする話で、この間ニューヨークを離れて出張していたわけである。「9・11」そのものの方は、ノンシリーズというか、そもそもミステリーでもない「砕かれた街」という長い小説を書いてるが、これはどう見ても失敗作で全然評判にもならなかった。二見文庫で出てるからすぐ読めるけど、「9・11」をニューヨーカーが書くのはいかに難しいかというような小説だった。それを思うと、ローレンス・ブロックは、やはり「9・11以前」というか、70年代、80年代頃のニューヨークが書きたい人なんだろうなと思った。それがやはり魅力的で、最後の語りでも、あの店もこの店もなくなってしまったと詠嘆している。これは東京人も同感する部分が多いが、日本では老舗は生き残る。みんなで行った喫茶店とか、ちょっとした飲み屋がなくなり、ほとんどチェーン店ばかりになってしまった。ドトールで話して、さくら水産で飲んだなんて言うのも、何十年もすればノスタルジーの対象になるんだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする