黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

ジジェク「パンデミック」を読んで

2022-01-13 09:54:38 | 人新世
パンデミックに際して、どう対応するか

 ジジェク「パンデミック」を読んで

 まだ読んでいない方の為に、私の感想と抄録をここに載せます。いろいろな例え話やエピソード、説明などは、ご自身でお読み下さい。

 「パンデミック」スラヴォイ・ジジェク著抄録 (日販アイ・ビー・エス)

この71歳の哲学者は、最も危険な哲学者と呼ばれる。マルクスは「ヨーロッパに幽霊が出る―共産主義という幽霊である」と「共産党宣言」の冒頭に書いた。私はコロナのパンデミック以後、今「妖怪が世界をさまよっている」と言ってきた。現代の妖怪はコミュニズム、それも形を変えた「脱成長のコミュニズム」である。この書は2020年4月にジジェクが書いたものを、5月に斉藤幸平が緊急出版した。
 1990年代半ばから始まっていたいろいろな動きは一方では政治や歴史の見直し、医学では精神神経免疫学の登場で、遺伝学や感染症学、疫学などの見直しが始まっていた。                        
 「人新世」は、地質年代の呼び方を人類が地球を変えているとして、2000年にオランダの化学者パウル・クルッツェンが提起したと言われる。ロンドンのエコノミスト誌が2011年に「人新世へようこそ」という特集を組み、広く知られるようになった。
ヒトゲノムも2003年には解読された。遺伝子分析から、古考古学も発展し、古墳の発掘も進んだ。その後次々と歴史の見直しが始まり、「サピエンス全史」や「反穀物の人類史」、「人体600万年史」など2015年前後から多くの著作が出た。
その中でも特にヨーロッパで注目されたのが、斉藤幸平の「大洪水の前に」で、ドイツの経済理論学会奨励賞とドイッチャー記念賞を、最年少で日本人が受賞したことである。斉藤幸平は「人新世の資本論」とマルクス・ガブリエルたちと対談集「未来への大分岐」を書いた。
私はつねづね医学は社会科学であると言っていたが、それを言ったのは、アメリカのルネ・デュボスと元東大医学部長の白木博次であった。しかし、それは医学だけではなく、気候学も人文社会科学から切り離されて語られていたので、現在の気候危機を招いたのである。それを「人新世とは何か」でボヌイユは指摘し、人文社会科学と自然科学の分断がなされていたが、これを再度統合しなければならないという。
 私はヒポクラテスの環境重視の医学を継承していたが、「人新世とは何か」によれば、ネオヒポクラテス学派と呼ばれるようだ。確かに病理学者ウイルヒョウや疫学者シゲリスト、
バーナード・ディクソン、ルネ・デュボスたちも、そして初期のバーネットやマクニールたちもそうだった。サイエンティフィック・アメリカン誌にも時々私と同じ考えの論文が載るのもやはりその流れであった。利根川進門下の某遺伝子学者が言うところの日本の科学ジャーナリズムの層の薄さから、科学雑誌を読んでいてもそう言う動きをとらえることができなかった。
それでそのことに気付いたのは「世界」に載った斉藤幸平の論文であった。私がこの世界の流れに気付いたのは、コロナウイルスによるパンデミックが契機である。コロナウイルスが教えてくれたのである。
 ジジェクの存在も斉藤幸平が教えてくれた。そこでジジェクの「パンデミック」の抄録と私の考えをここに記す。ジジェクは、欧米の人たちの習いでキリストとヘーゲルの言葉を冒頭に置いたが、私は私淑するブッダの教えを置く。ブッダは「もろもろの事象は過ぎ去るものである」。「生きとし生けるものの上に、幸いあれ、平和あれ、安楽あれと」と説く。
ジジェクに対する批判は、「資本主義と危機」(岩波書店)の中で、フォスターが書いていますので、参照してください。以下は抄録となります。 ()内は私見です。



序章  我に触れるな
 ウイルスは我々の生活の基礎そのものを打ち砕き、途方もない量の苦しみを生むだけでなく、ことによると大恐慌よりひどい経済的大混乱を引き起こすだろうということである。
もう平常への復帰はない。古い生活の廃墟の上に、新しい「平常」を構築しなければならなくなるだろう。
 (ブッダは、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される」という。
 精神神経免疫学から言えば、人はすべて「暗示」から生じているという。ウイルスを恐れることはない。恐れるから悲しみや苦しみを生じる。しかし、パンデミックを起こすのは適度に感染力が強く、適度に人を死に至らしめる病原体である。エボラ出血熱のように致死的な感染症だと、人と一緒にウイルスが死ぬので次の人に感染しない。元気で歩き回る人がいるから感染しやすくなる。だからウイルスを恐れる人は、かかると恐怖に陥り、昂じるとパニックになり、「死ぬ、死ぬ」と自ら死んでいく。だが効果があると信じているワクチンを受けると、「これでコロナにかからなくて済む」と元気になる。だが、ワクチンが嫌でしぶしぶ受けさせられると、ワクチンで何が起きるか不安で、アナフィラキシーが起きる)。

第一章 我々はみな、同じ舟に乗っている
(しかし、ジジェクの分析は鋭い)。
中国の機構全体が、毛沢東の掲げた「人民を信ぜよ」に反していると言える。中国政府は「毛沢東主義者」のウェブサイトを閉鎖し、各大学のマルクス主義研究サークルを禁止した。
 マーチン・ルーサー・キング博士(暗殺されたアメリカ公民権運動指導者)が半世紀前に言っている。「我々はみな、違う船でやって来たかもしれない。だが、今、同じ舟に乗っている」。
 (そうだ。今は航空機時代で、船のような水際などない。しかも世界中のすべての人々が、同じ舟に乗っているのだ。水際作戦など成立はしない。オミクロン株のコロナウイルスは空気感染だというが、本当は呼吸器感染の病気はすべて空気感染なのだ。マスクもプラスティックのつい立ても、手洗いも、多少は効果があるかもしれないが、そんなに有効ではない。 最大の防御は自然免疫である。それは貧困と格差社会から、違いが生ずる。
  日本で最初のクラスターは、横浜に停泊したプリンセス・ダイアモンド号の乗船者であった。しかし、3711人のうち60歳以上が大半の2165人なのに、死亡率は低く、感染(PCR 陽性)率が19%、その内の発病率54%、70歳以上の1242人のうち、死者は7人だった。クルーズ船に乗れる乗客も乗員もそれなりに裕福であるから、軽く済んでいた。感染率も死亡率も低く、むしろPCR陽性でも無症状者が半数だったことを思い出して欲しい)。

(だからジジェクは言う)
第二章 何をこんなに、いつも疲れているのか?
 つまり、新しい労働区分が存在するのだ。西側先進国における自営の自己搾取の労働と、第三世界の疲弊させる組み立て労働。さらにもう一つ、激増しつつあるあらゆる形の人をケアする労働(介護職、ウェイターなど)である。これには搾取も多い。この三つのグループのそれぞれが、特有の疲労と過重労働の形態を示す。組み立てラインの労働は、労働者は死ぬほどうんざりする。
 一方、人をケアする労働が過酷なのは、共感を持って働くことが期待され、仕事の「対象」を思いやるように見せることを期待されるという。常に「いい人」でいることの重圧は想像に難くない。保育や介護、看護などの労働者に言える。
 しかし、最後のグループに対する要求は、ずっと疲労度が高い。自己搾取によって疲労困憊(ぱい)するのは、自宅のパソコン画面の向こうで働く不安定な労働者だけではない。「クリエイティブ・チーム業務」という欺まん的な名称で呼ばれるグループである。・・・つまるところ、経営のあらゆる悩みや責任を負いつつ、賃金労働者の将来の不確かさも変わらない、いわば、両方の世界の悪いところ取りである。
 超過勤務で死ぬほど疲れている医療従事者や、過大な負担でくたくたになっている介護従事者は、取りつかれたような昇進を動機とする疲労とは全く違う理由で疲れているのだ。
その人たちの疲労こそ値打ちがある。

第三章  欧州のパーフェクトストームに備えて
 めったに起きない重大な状況が重なって発生する究極の壊滅的な出来事を、「パーフェクトストーム」という。世界全体を巻き込むという特徴ゆえに、「我々はみな同じ舟に乗っている」という表現が使われることが多い。しかし、ヨーロッパという舟には、・・(危険な)運命を思わせる兆候がある。それは、三つの嵐が上空で力を蓄積しているからだ。
 最初の二つは、コロナウイルスの流行の持つ身体的な影響(隔離と苦痛と死)と、経済的な影響である。これに加えて、「プートガン」ウイルスとも呼ぶべき第三の嵐がある。トルコと(シリアの)アサド政権が起こしている暴力の嵐である。シリアを支えるプーチンと、トルコのエルドアンである。名づけて「プートガン」である。
 人種差別は、脅威をオリエントの他者に由来したものと判断した時に作動する。(日本でも、アメリカでも、過去に起きたこと)
 この感染と難民という大惨事を未然に防ぐため、・・・ヨーロッパは、難民の危機への対応に行動すべきである。
 ドイツの左翼党の幹部グレゴール・ギジは、「我々が第三世界の貧困層にたいする責任を受け入れなければ、彼らはヨーロッパに来るしか選択肢がなくなるだろう。それこそ反移民の感情を大いに逆なですることになる」と(批判に)答えた。貧しい国の苦しみの原因は、ヨーロッパの(日本も)人種差別や植民地支配の結果であるという動かしがたい事実にもとづいて、寛容や罪悪感に訴えるアプローチは、効率的でないからだ。(日本人に、特に左派の人たちにこれだけ言える人がいるだろうか。)



第四章  ようこそ、ウイルスの砂漠へ
 今回のコロナウイルスの感染拡大をきっかけに、社会の片隅に眠っていたイデオロギーのウイルスが大流行を起こしている。・・
 たとえば、新型コロナウイルスは、中国の共産党支配の崩壊につながるという推測がある。ちょうど、ゴルバチョフ自身が認めたとおり、チェルノブイリの悲劇がソビエト共産党の終焉(えん)につながる出来事だったように。但し、ここにはパラドックスがある。コロナウイルスは、国民や科学の信頼にもとづいて、共産主義を書き換えることも強いているのである。
 私は、新型コロナウイルスの流行が世界の資本主義制度に対する「五点掌爆心拳」(中国武道の究極の必殺技)となると考えている。
 我々はみな同じ舟に乗っているのだ。他者と密接に接触するな、自己隔離せよと求める厳格な命令下の日常生活の中で、団結と世界的な連帯を促すものが表れてきているという事実には、最高の皮肉を見ざるを得ない。
 そのほか様々な破局的な事態も姿を現している。干ばつ、熱波、巨大な台風など枚挙にいとまはない。こうした事例すべてにおいて、正しい解はパニックではなく、効率的な世界の協調を打ち立てるという、難しいが急を要する作業である。(今こそインターナショナルが求められている)
 
第五章  感染流行の五段階モデル
 精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスから。著書「死ぬ瞬間」の中で、死に至る状況にあると知った人がたどる反応を、死の受容の五段階モデルにまとめた。
 第一段階の<否認>は、「そんなはずはない。自分に起きるはずはない」
 続く<怒り>は、「なぜ、こんなことが自分に起こるんだ?」
 そして、<取引>をする。「子どもたちが卒業するまで、生きさせて」と、
 さらに<抑うつ>の本能的に投げやりになる段階では、「どうせ死ぬなら、何もかも、もうどうでもいい」と感じる。
 最後に、<受容>の段階が訪れ、「もう闘えない、覚悟した方がいい」と考えるようになる。
 これを彼女は破局的な個人的喪失(失業、愛する人の死、離婚、薬物中毒)に応用したが、五つの段階は必ずしも同じ順序でも起こらないし、すべて体験する訳でもない。
 社会が心的外傷を残す何らかの断絶に遭遇する場合にも、同じ五段階が識別できる。たとえば生態系崩壊の脅威を考えてみよう。
 同じことが、デジタル支配が生活に与える脅威の拡大についても言える。
 コロナウイルスの流行に対する我々の反応も、同様なのではないか。
 では最終段階の受容は、どのようなものになるだろうか。奇妙な真実として、この流行拡大は、・・・最近の社会的抗議活動に共通の特徴を示している。爆発しなければ、その後消え去る。根強く残れば、恒久的な恐怖と脆弱性(ぜいじゃく性=弱さ)を我々の生活にもたらす。もっと広い意味で言うと、ウイルスの流行は、我々の暮らしの究極の不確実性と無意味さを再認識させる。
第六章  イデオロギーのウイルス
 我々の世界が密接につながればつながるほど、一地域の災難が世界的な恐怖や破局的事態につながりやすくなるというパラドックス(逆説)が働いている。
 技術開発が自然からの独立性を高める一方で、別のレベルでは、自然の気まぐれへの依存を高めているのだ。
 新型コロナの拡散にも同じことが言える。
 ひとつ確かなことがある。新しい壁を作ろうと、更に厳しい封鎖をしようと、隔離だけでは効果が無いということだ。完全な無条件の連帯と世界的に協調した対応が必要なのであって、それはかって共産主義と呼ばれたものの新しい形でもある。
一時期の武漢。ゴーストタウンの都市。非消費主義の世界はこんな風なのかも知れない。
シチュアシオニスト(1960年代の国際的状況主義的社会改革者たち)のマニフェストの結論「無意味な時間なく生き、邪魔するものなく楽しむ」
ラカン(フロイト派精神分析医)の説明のように、超自我は突き詰めれば「享楽(きょうらく)せよ」という命令であり、それは実際、最悪の事態を招く原因だということだろう。割り当てられた時間のあらゆる瞬間を集中的な関与で満たしたいという衝動は、結局、息のつまるような単調さに行きつく。だから無意味な時間(退穏[隠居]あるいは放下[無我の境地に入ること])の瞬間は、我々の人生の経験の活性化にとって不可欠なのである。
世界の都市封鎖の意図しない結果のひとつとして、少なくとも一部の人が、騒々しい活動から解放された自分の時間を使って、自分の苦境の意味(あるいは無意味)について考えてくれるのも願っても良いだろう。
イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグは、自分の国を愛するのではなく恥じることこそが、国に帰属している本当の証かもしれないという考え方を示した。
しかし、世界各国で封鎖されている人々にとっては、恥じたり他者の非難を感じたりする時ではなく、勇気を出して辛抱強く自分たちの奮闘をやり抜く時である。
本当に恥じを感じるべきは、自分たちは過剰に防護しながら、感染拡大を甘く見た者たちだ。もしかすると、そうしたダブルスタンダードに対する一般市民の激しい怒りが、今回のコロナ危機に予期しない肯定的な副作用を生む可能性もある。

第七章  冷静にパニクれ!
 メディアはしきりに「パニックになるな!」と繰り返すが、パニックには独特の論理がある。この種の過剰な不安と対をなすのが、パニックになる理由が十分あるはずなのにパニックが起きない奇妙な状況である。
 コロナウイルスの流行によって共産主義が新たに息を吹き返すかもしれないと私が示唆した時、この主張は、案の定、一笑に付された。
 WHOの事務総長の述べている総合的アプローチは、一国の仕組みを超えたものである。
 他国との協力も模索しなければならないし、軍事行動と同様、情報を共有し、計画には完全な協調が必要になる。これがまさに私の言う、今日必要とされる「共産主義」である。
 ここでの私は空想主義ではない。
 コロナウイルスは人類に老人・弱者・病者を排除することを許し、世界の健康に貢献する、有益な感染であるように見えるのかもしれない。私が主張する幅広い共産主義のアプローチは、そのような粗野な視点から脱する唯一の方法なのだ。
 病院の収容能力を超えた時に人工呼吸器などの配分に関する決定を一体どんな基準でするのだろうか。最も弱い人、高齢者を犠牲にするのか。「適者生存」という野蛮な論理を発動させる準備をしているという意味になりはしないか。だから重ねて言う。我々が直面している選択は、野蛮か、それともある種の再考案された共産主義か、なのである。

第八章  監視と処罰? ええ、お願いします
 コロナウイルスの流行拡大によって、国民を管理・規制する施策や、・・・対策が、正当化され助長されてしまう状況について、多くのリベラルや左派のコメンテーターが発言している。イタリア全土のロックダウン・・・、デジタル化された社会統制が普及している中国こそ・・・我々の未来だという意味だろうか。
 イタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンは、・・全く異なる反応を示した。アガンベンは、インフルエンザの別バージョンでしかない「コロナウイルスの流行予測に対して、狂気じみた理不尽な、絶対的に不当な緊急対策が導入されている」として、「メディアや当局は、なぜ躍起になってパニック感をあおり、すべての地域に対して移動の厳重な制限と日常生活や労働の停止を課して、本当の「例外状態」招くようなことをしているのか」という。
 アガンベンは、この「不相応な対応」の主な理由を、「通常の統治の枠組みとして例外状態を利用する傾向が強くなる」ことにあると見る。
 「例外的措置の言い訳としてのテロ攻撃がネタ切れになったとたん、感染拡大に対する介入が、限度を超えた措置を広げる理想的な口実になるというわけだろうか」。もう一つの理由は、「恐怖状態である。恐怖状態は、近年、個人意識の中に流布しており、集団パニック状態の現実的な必要性に姿を変える。ここでも感染拡大は、理想的な口実になる」。
 アガンベンの主張には疑問が残る。パニックは国家に対する不信がつきまとう。なぜそんなことが必要なのか。アガンベンの反応は、左派のよくある立場を極端にしたものである。だが、脅威の現実を消しさることはできない。
 しかし、新しい形の地域や世界の連帯に対しても、絶大な後押しになっている。また、権力自体に対する統制の必要性も、明確になった。だから人々が国家権力に責任を負わせることが正しいのだ。権力を持っているなら、何ができるか見せてみろ!と。
 しかし、あらゆる形態の探知やモデリングを「監視」だと、積極的な統治を「社会管理」だと、反射的に解釈することは誤りである。我々には、介入を表す別のもっと「繊細な語彙(ごい)」が必要である。
 ジジェクが恐れているのは、「流行を封じ込める効果のない措置がとられることや、当局がデータを操作したり、隠ぺいしたりする可能性である」。マスクをしたり、社会的隔離を取ることが、今日の連帯の形というパラドックスが生まれている。我々庶民はウイルスと共に暮らさなければならない。
 問題は、いつかは生活が見かけ上の通常に戻るとしても、感染発生の前に我々が経験していた「通常」と決して同じではないということである。
 絶え間ない脅威にさらされながら、ぜい弱になった生活を送るすべを学ばなければならないだろう。生活について、あるいは様々な生命体の中の生物としての我々の存在について、態度を完全に変える必要が出てくるであろう。
 ウイルスは無生物の化学的単位とかんがえられているが、感染し、生きた細胞の中だけで増殖するから、生命体ととらえられる場合もある。ウイルスは、「リヴィング・デッド」であり、生きても死んでもいない。(だから消毒の意味はなく、洗い流したり、ふき取るしかない) ジジェクは「より高度な増殖の機構(まさに人間のこと)の不調の産物として現れ、それに取りつき(感染し)続ける最下位の生命という残余」であるという。
 (だから対策は、消毒や殺菌ではなく、我々の健康状態を良好に保つことであるの。マスクも手洗いも、社会的隔離も、本当は殆ど効果のない対策でしかない。江戸時代に、麻疹や天然痘の予防に張ったおまじないの紙でしかない。ジジェクは続ける)。
 人の精神は一種のウイルスである。ヒト動物に寄生し、自己複製のためにそれを利用し、時にはそれを破壊するぞとおどす。そして、精神の伝達手段が言語である限り、・・・言語は我々が従わなければならない規則である。
 現在のウイルスの感染拡大から我々が最も憂慮すべき教訓は、「あなたたちが私にしたことを、今度は私があなたたちにしているのです」というメッセージなのです。
 
第九章 人の顔をした野蛮がわれわれの運命か
 最近、ウイルスに感染することを願っている自分に気づいて驚くことがある。感染すれば、
少なくとも、この疲弊させる不確実性は終るだろうにと思えるのだ。
 (だからかかってしまった私には、今不安が全くない。マスクも手洗いも隔離も、人々との連帯の為にしているのです)
 最近、感染拡大の影響を克服するには、急進的な社会的変化が必要だと言われているのをよく耳にする。しかし、急進的な変化はすでに起こりつつあり、コロナウイルスの感染拡大は、何かこれまでに「不可能」だと思われているものを突き付けている。
 「不可能」が現に起きたのだ。我々の世界は止まってしまった。それは何なのだ。
 あけすけな野蛮(治安錯乱や恐怖によるリンチなどの暴力)よりも私が恐れるのは、人の顔をした野蛮である。無慈悲な生存主義的な措置が(首切り、借家からの追いだし、生活保護からの締め出し、不当な利子の奨学金ローンの返済強要、使用料未納での電気やガスの停止など)、後悔や同情すら伴って強行されるが、専門家の意見によってそれが正当化されるのだ。
 注意深く観察すれば、権力者の声色の変化に容易に気づくだろう。
 つまり彼らのへ本当のメッセージは、社会倫理の基礎を失う覚悟がいるぞ、高齢者と弱者のケアを切り捨てるぞということである。
 このような「適者生存」の倫理を受け入れることはできない。軍人倫理でさえ、重症者をまずケアすべきであると定めている。
 我々の第一原理は効率化であってはならず、救いの必要な人が生き続けるためには、費用にかかわらず、無条件の支援が行なわれることでなければならない。
 冷戦時代の生き残りのルールはMAD(相互確証破壊)であったが、今のルールは別のMAD(相互確証距離)なのである。(madはご存じのように「狂気の」である)
 最近は一人ひとりの責任があり、・・・というが、それは、経済や社会制度全体をどう変えるべきかというより大きな問題を見えにくくするために作用するなら、それはイデオロギーとして機能する。
 我々は三つの危機、医療の危機(感染拡大そのもの)、経済の危機、そして心理的な危機である。何億人もの日常の暮らしの基本的な座標が崩壊している。
 先ごろ、この危機を乗り切る方法は一種の「共産主義」だと示唆して、私は多方面から冷笑された。
 しかし、隔離と生存だけでは足りない。隔離と生存を可能にするには、基本的な公共サービスが昨日し続ける必要があり、電気、水道、食料、医薬品などが入手できなければならない。これは生き残るためだけの「戦時共産主義」と呼ばれたものの一種である。
 昔から言われている通り、危機においては、我々はみな社会主義者なのである。
 しかし昔、政府は銀行だけは救済したように、この強制された社会主義は富裕層のための社会主義になりはしないか。
 この感染拡大は、ナオミ・クライン(カナダの女性ジャーナリスト)が「惨事便乗型資本主義」と呼ぶ長く悲しい物語の新しい章になるだけなのか。
 今誰もが、社会と経済の仕組みを変えなければならないと口をそろえている。
 しかし、トマ・ピケティ(「21世紀の資本論」の著者)がいうように、本当に必要なのは、どのように、どの方向に変えるか、どんな方策が必要かである。今こそ真の政治が必要なのだ。連帯に関する判断とは、極めて政治的なのだから。




第十章 共産主義か野蛮か。それだけだ!
私が、パンデミックの結果、一種の共産主義が来るだろうというものだから、それに右翼から左翼までの批判は、戻ってくるのは資本主義であって、それも火事場泥棒的に、より強い形で、例えば中国のような国家による生活への完全統制(日本の戦前の軍部と財閥による国家統制のような)だと。いわく、生存主義的なパニックに政治性はなく、他者を闘いの同志ではなく、死の脅威と見ることを強いるだけだと。
 (アメリカ政府の秘密を暴露して)刑務所にいる(ウィキリークスの編集長)アサンジは、我々にとって必要な人物である。隔離下の私たちには、電話とインターネットが他者との主なつながりとなるが、いずれも国家に管理されており、国家は思いのままに遮断することができるのだ。
 一体何が起きるのだ。実際、以前は不可能と思われていたことが、すでに起こりつつある。例えば、ボリス・ジョンソン(首相、保守党)はイギリスの鉄道の一時的な国有化を発表した。(日本では、テレワークや学校のネット授業や、会議のズーム会議化が普通になった。)
 アサンジは「少なく見ても、コロナ危機の新しいフェーズで、「なんでもあり」、どんなことでも可能となったとはっきりした」という。
 言うまでもなく、事態は良いほうにも、悪いほうにも、あらゆる方向に転じる。だからこそ、急進的な選択に直面している現在の状況は、大いに政治的なのである。
世界の各地で、国家権力が半ば崩壊することもあるだろう。(現実にアフガンのタリバン政権や中南米やアフリカで起きている政変)
 アメリカでの数々の発現に含まれるメッセージは明白だ。膨大な数えきれないほどの人命か、アメリカ的「生活様式」(すなわち資本主義)かという選択である。そして、この選択では人命が敗れる。(だからアメリカのコロナによる死者が世界一だ)
 しかし、それが唯一の選択なのか。アメリカでさえも、世界でも、形を変え、新しい形でなら再出発できる。何をすべきかは、誰にも分からない。
 ここでカントが国家の法律について書いた「従え、しかし考えよ。思考の自由を維持せよ」にこそ従うべきだ。カントのいう「理性の公的利用」が我々には必要なのだ。
 感染拡大は(気候変動など)様々な環境上の脅威と合わさって襲ってくるだろう。だから難しい決断を今、下さなければならない。
 「中世のペストをみよ」という観念論ではなく、(現実には戦争と革命後のスペイン風邪のパンデミックの時を考えるべきだ)ペストを運命として受け入れる気もない。
 ここで、私の言う「共産主義」の出番である。これは既に起こりつつあること、あるいは、既に検討されつつあり一部は執行されている措置の名称としての共産主義、資本主義の解毒剤としての「災害共産主義」の視点である。
 観光業に従事する人たち、難民たちのことを(特に彼らの思いのことを)、忘れてはならない。
 明白なことが、あとふたつある。ひとつは、制度化された保健医療制度は、高齢者や弱者のケアを地域のコミュニティに依存せざるを得なくなること。
 もうひとつ、リソース(財源または資源)の産出と共有のため、何らかの有効な国際協力を組織しなければならないことである。各国が単に孤立すれば、戦争が勃発してしまう。(ミャンマーや北朝鮮を見よ)
 私が「共産主義」を言う時に言及しているのはこのような協力の進展であり、それ以外の選択肢は新しい野蛮以外にない。
 野蛮と我々(共産主義)とを隔てる境界線は、ますます明瞭になる。今日の文明の象徴のひとつが、世界各地で様々な戦争を続けることは、完全に狂った意味のないことだという認識の拡大である。
 ウイルスとの闘いは戦争ではない。ウイルスは、戦略などなく、馬鹿みたいに自己複製をするメカニズムでしかないのだから。
 自己破壊から人類を守ろうとする努力を通じて、我々は新しい人間性を作りつつあるからだ。現在のきわめて重大な脅威を通してのみ、我々は統合された人間性を思い描くことができるのだ。

 補遺 友人からの二通の有益な手紙
 (ここは簡略に、要点だけにします。PTSDの起き方にも関係しますので)
フロイトは「快感原則の彼岸」の冒頭で、指摘した謎である「戦争で負傷した兵士は、無傷で帰還した兵士よりも、自分の外傷的経験に向き合うことができる。逆に無傷の帰還兵は繰り返し夢にうなされて、暴力的な心象や戦時の幻想を追体験する傾向があった」ことである。
 ラカン派の精神分析医トゥピナンバは、HIV危機の最中にも同じパラドックスがあったことに気づいた。「目に見えないHIV危機の拡大は、まさに神経をすり減らすような状況だった。自分を問題の規模に一致させられないことが余りにも苦しくて、この状況に何か象徴的な輪郭を与える為なら、自分の
パスポートに「HIVあり」のスタンプを押されることは、支払うべき対価として高すぎるようには思えないほどだった。感染してしまえば、少なくとも、ウイルスの力を測る尺度が与えられ、まだ残されている自由がどんな種類のものかが分かる状況になるのではないかと思えた」。
 (フランスの哲学者)ブルーノ・ラトゥールは、新しいアプローチが必要になり、その道筋を示した。コロナウイルスの危機は来たるべき気候変動に対する「最終リハーサル」だと強調している彼は、正しい。(気候変動)は次の危機だ。
「健康上の危機においては、ウイルス側には我々に関心がなく、人間ののどからのどへと、その気はなくとも人間を殺しながら、我が道を突き進んでいるとしても、とりあえず人間側は全体としてウイルスと「戦って」いると言える。ところが悲劇的なことに、環境変化においてはこの状況が逆転する。恐ろしい毒性で地球上のあらゆる生命の生息条件を変えてきた病原体は、ウイルスではなく、人間なのだ!」
「これは宣戦布告もせずに我々に戦争を仕掛けてくる人間だけに当てはまる」、「宣戦布告せずに我々に戦争を仕掛けてくる」行為主体性は、人間の集団だけでなく、既存のグローバルな社会・経済システム、すなわち、我々みな(人類全体)が関与している既存の世界秩序でもある。
 多くの貧しい賃金労働者は、気がつけば貧困がウイルスよりも大きな脅威になっていたという悲惨な状況があり、その大きな原因は、福祉国家の解体に集中してきた新自由主義経済であること。
 実際に仕事に戻れる人たちは貧しく、一方で富裕層は快適な自己隔離に固執するという。
 左派リベラルの憂慮は、今実際起きていることを見落としている。(実際には社会経済システムがこの危機を引き起こしたのに)権力者たちは、マスクや手洗いや社会的距離などをと叫び、この危機の結果を我々個人的責任にしようとしているが、現実は正反対である。
 国家の運営にあたるものたちがパニックになっているのは、状況をコントロールできていないからだけでなく、彼らの臣民である我々にそのことがばれていると知っているから、である。権力の無能が、今、露呈しているのだ。
 この感染拡大の最もあり得る結果は、新しい野蛮な資本主義の蔓延である。体の弱った高齢者が、多数犠牲になって亡くなる。労働者は、生活水準の大幅な低下に甘んじるしかなくなる。生活に対するデジタル管理は、永続的なものになる。階級格差は、生か死かの問題に直結するようになる。

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