NINAの物語 Ⅱ

思いついたままに物語を書いています

季節の花も載せていきたいと思っています。

仮想の狭間(16)

2010-04-12 19:34:19 | 仮想の狭間
 真理の家のリビングでは刺しゅうや編み物など手芸の材料をメンバーが片付け始めた。
庭から真理の夫、敏之の声が聞こえてきた。
「やあ、暫くです。お元気でしたか」
真理が窓の外を見て、「えっ!」と大きな声を出した。
他の者もみな外を見て、驚いた様子で口をぽっかり開けている。
敏之の前に笑顔で立っているのは、あの駆け落ちをしためぐみなのだ。
真理が慌てて玄関へ迎えに出た。
リビングに入ってきためぐみは大きな紙袋を提げて明るい表情だ。
「こんにちは。お久しぶりです。
何の連絡もしないで休んでしまってごめんなさい。
やっと昨夜帰って来ることが出来ました。」
紙袋から菓子箱を取り出してテーブルの上に置いた。
何と声を掛けて良いのか、皆一瞬言葉が出ない。
「あのう・・・ぶしつけでごめんなさい。
彼はどうしたんですか?」
秋絵が皆が思っていることを代弁した。
「彼? ああ、息子ね。
あまり傍にいると甘えすぎるので、思い切って帰ってきたんですよ。」
「息子?」
その場の皆がキツネにつままれたような顔になった。
「まあ、息子だなんて。
みぐみさんたら、ごちそうさま。
でも彼とは7つしか違わないのに・・・」
美代子は彼のことを息子と無神経に呼ぶ めぐみに不快感をあらわにした。
「思い切って帰ってきただなんて、貴女が彼を捨てたの?」
詰問するように真理が単刀直入に尋ねた。
「あら 真理さん、さっきは彼が奥さんや子供さんのところに帰ってきて良かったと言っていたんじゃなかったかしら。」
百合子はめぐみの悪びれない様子に不信の念を抱いたが、事情も聞かないでめぐみを責めるような口をきく真理たちにも同調できない。
実際、百合子にはこんな駆け落ち話はどうでもよい気がする。
それより自分の家の経済の方が心配なのだ。
「7つ違うとか、捨てただとか、みんな何を言っているのかしら。
彼、彼って一体誰のこと?
私は息子と7歳どころか24歳違いますよ。」
「はあ?
めぐみさんはダンス教室で知り合った男性と、ずっと一緒ではなかったの?」
秋絵の言葉に真理も続けた。
「そうよ。
7歳年下の彼と駆け落ちしたって聞いていたわよ。」
「まあ、とんでもないことになっているのね。」
「違うの?」
真理、秋絵、百合子が情報もとの美代子の顔を一斉に見た。
顔を赤くして、目を泳がせていた美代子が暫くして口を開いた。
「だって、私の友達の話では、その男性とめぐみさんはとても親しかったって聞いたわ。
同じ時期から二人が教室に来なくなったし、家も雨戸を閉めたままだから、二人はきっと駆け落ちをしたのだろうと噂になっていたのよ。
私、その話を信じてここで話してしまったの。」
「ところでめぐみさんは今までどこへ行っていたの?」
真理の質問に答えるめぐみに もう笑顔はない。
「私の息子が東京で就職しているのは皆さんご存知よね。
その息子が交通事故で大怪我をして、東京の病院に入院していたんです。
知らせを聞いて、取るものも取りあえず駆けつけたもので、こちらには連絡が出来なくて・・・
その子が退院して一人で生活できるまで回復するのを待っていたら、こんな時期になってしまったんですよ。」
「あら、そんな大変なことがあったの。
それで息子さんはもうすっかり良くなられたんですね。
良かったわ。
何も知らずに不謹慎な噂話を信じてごめんなさいね。」
真理が謝ったのに続いて美代子もごめんなさいと頭を下げている。
「それで例の男性はどうしてダンス教室に姿を見せなくなったのかしら。」
秋絵がまだしつこく訊ねている。
「ああ、あの人は福岡に転勤になったらしいの。
子供さんの学校や持ち家のこともあるので、単身赴任だと言っていたわ。
連休ぐらいしか、こちらには帰れないそうよ。」
美代子も秋絵も、めぐみの息子の不幸中に、不謹慎な噂話をしていたことは申し訳ないと思う反面、ここで盛り上がった話が全くの想像話だったことに気落ちしている。
百合子とめぐみは他の者のより一足先に真理の家を出て行った。
「今のめぐみさんの話本当かしら」
残っていた秋絵と美代子はまだ疑っている。
と言うより駆け落ち話が事実でないことが残念でならないようだ。

仮想の狭間(17)

2010-04-12 17:23:14 | 仮想の狭間
 百合子がやっと見付けた仕事はパン屋のレジ係だ。
そのパン屋はオフィスの入ったビルや商店などが混在する通りにあった。
5階建てビルの一階に このパン屋と和食レストランがあり、このビルのオーナーが経営していた。
職場にはパン職人の40代の男性と、その助手をするパートタイムで働く20代の女性一人、それに30過ぎの女性が2人いた。
朝9時に出勤すると、パン作りの現場ではもう4人が早朝から働いている。
百合子はシャッターを開け、店の中を掃除して出来あがってくるパンを陳列台に並べる。
そうしているうちにも客が入って来る。
食パンが焼きあがるのは11時頃で、それが済むと職人も助手も帰ってしまう。
百合子が慣れるまでは助手の女性一人が残って手伝ってくれていたが、一週間もするとその一人も11時には帰って行く。
昼になると、ここのサンドイッチや調理パンに人気があるのか、近くの会社や商店に勤める人たちで店の中が賑わい、百合子は一人で忙しくレジを打ち、パンを袋に入れて客に渡す。
どんなに忙しくても笑顔を絶やさないように心がけているが、独身時代にOLをやって以来の勤めで接客仕事は初めてのうえに立ち仕事なので、疲れてどんな顔をしているのか分からない。
午後になると客も少なくなって一息つくことが出来、やって来る客と親しく話をするようになった。

 パート帰りの主婦は上司の悪口を思いっきり話して帰る。
あれだけ言えば、さぞすっきりストレスも解消するだろうと百合子は思う。
 夫と性格が合わず離婚をしたが、思わしい仕事がなかなか見つからないので生活が苦しいと嘆く女性もいる。
 赤ん坊を背負い、2~3歳の女の子の手を引いた若い母親は髪の手入れも化粧もしていない。
夫がパチンコ店に入り浸りになって給料を入れてくれないと涙を流して話す。
気の毒とは思うがどうしてやることも出来ない。
 また夕方に入ってきた女性は調理パンを幾つか買って、
「これは子供の今夜の食事よ。
私、これから勤めなの。」
と高いヒールの音を立てて急いで店を出て行く。
 このビルの50メートルほど先に大きな店構えの和菓子屋がある。
そこは最近販売網を全国に広げ規模を拡大している。
そこに勤める店員も時々やってくる。
「うちの社長や奥さん、さぞ贅沢な生活をしていると思うでしょう。
ところが凄く質素なのよ。
最近は資金繰りが上手くいかないのか、社長がイライラしていて奥さんとも上手くいっていないらしいの。」
店員は口に人差し指を当てて、
「内緒よ。」
と言って帰って行った。
外見は派手で優雅に見える家庭も内情は分からないものである。
毎日様々な客が様々な話をしていく。
まるで人生の縮図を見ているようだ。
其々の環境に住む女性たちの生活の現実を、テレビドラマを見るように百合子はこの店で見ている。
 3時過ぎに来て、カウンターでパンと自販機の缶コーヒーで間食をとりながら話し込んでいく営業マンもいる。
彼らはカウンターの中にいる百合子のことをママと呼ぶ。
百合子はそんな呼ばれ方が嫌だった。
酒場で働いているような気分になるのだ。
そう言えばもう一つ嫌な呼ばれ方がある。
パン作りの助手をしている女性たちが、時折百合子のことを「おばさん」と呼ぶのだ。
「おばさん、このパンそこに並べといてよ。」
「おばさん、はようしてや。」等と。
大抵は名前を呼ぶが、急いでいるときは おばさんである。
百合子はまだ40代半ばで、ここの女性たちとはそんなに歳は違わないと思っていたが、彼女たちから見ると既に自分は「おばさん」なのかと気分が萎えてくる。

 5時になると交替の女性が出勤してくるので、帰り支度をして外に出る。
秋の日暮は早く、薄暗い中に街灯の明かりが歩道を照らしている。
街路樹のイチョウの葉が足元に舞ってまとわりつき、風が冷たく感じられる。
襟元を掻き寄せ、首をすくめて急ぎ足で駐車場に向かい、車を走らせるころには辺りが真っ暗になっている。
帰り道スーパーで食料品を買うのが日課になった。
店の中を走るように買い物をして家に着くと、部活の無くなった亮太はいつも百合子より先に帰宅している。
百合子が働き出してから、亮太は少し素直になったような気がする。
以前のように「うるせえ。」とか「別に。」という言葉を使わなくなった。
 時間に追われて最近はパソコンを開く暇もない。
インターネットの世界に浸って、ブログに夢中になったり、通販で衝動買いをしていたころが懐かしい。
しかし今働いているパン屋で出会う女性達はみな懸命に生きている。
バーチャルの世界が素晴らしいものと、毎日パソコンを相手に遊んで過ごしていた以前の生活より、夫の収入は減ってもリアルな人々の生活が見られる今の生活の方が生きている実感があると、現在の生活に楽しみを見つけた百合子である。

仮想の狭間(18)

2010-04-12 16:49:48 | 仮想の狭間
 めぐみは息子の世話をしていた4ヶ月間、パートタイムの仕事を休んでしまい収入が途絶えていた。
その上、怪我をした息子の治療費も一部負担をしていたので、その分稼いで取り戻さなければと仕事に精を出し始めた。
働くことで時間の余裕がなくなった百合子とめぐみは真理の家で開いている【手芸の集まり】を止めざるをえなくなった。
秋絵は夫が千葉県にある支社へ転勤になり、そこへ娘と付いて行くという。
メンバーが3人も欠けて、この集まりは自然消滅する羽目になった。
先日、秋絵が夫の転勤や引越しのことを伝えに真理の家を訪れた。
先ごろまでの派手な服装ではなく、以前のようにモノクロの服に素顔である。
彼女が付き合っている彼のことを真理が尋ねると、彼とはこの前の土曜日に別れてきたという。
美術館へ一緒に行った帰りに、もう会えないからとホテルに誘われたが、きっぱりと断り最後に強く抱きしめてもらったそうだ。
「一線を越えなかったわよ。」
と秋絵は涙目で話した。
一線とはどこで引くのかと真理は疑問に思う。
何はともあれ、秋絵は彼と別れて元の落ち着いた主婦に戻っている。
しかしメールのやり取りは今まで通り続けるそうだ。

 9月末に写真サークルの撮影会が京都の高山寺であり、このときの参加者は6名で加藤は不参加であった。
小高い山の木々の間に幾つかの建造物があり、その一つ石水院の建具やその中から見る山々の景色が素晴らしい。
紅葉には少し早いモミジの間に、斜めに敷かれた四角い敷石が続く参道や、杉木立の中の小道も写真に撮るには良い被写体だ。
どこを見ても絵になる風景だった。
あの時も山崎は、いつも真理の傍にいて優しくアドバイスをしていた。
高山寺からの帰りは、山崎が真理を自動車で京都駅まで送ることになった。
「二人だけでもう一ヶ所、どこかへ写真を撮りに行こう。」
車の中で山崎が誘ったが、真理はなぜか危険なものを感じて断った。
しかし行けば良かったと後悔もする。
以前はしつこく近寄ってくる山崎を疎ましく感じていたのに、最近 真理は山崎のことが心から離れなくなっている。

毎日のメールが待ち遠しくて、何度もパソコンを開いたり閉じたりしている。
携帯のメールでも良いが、お互いに夫や妻のいるところではメールを開くことが出来ないのでパソコンのメールを利用している。
10月の写真サークルはびわ湖の夕景を撮影する予定になっているが、山崎はあまり乗り気ではないらしく、真理にそれほど勧めない。
しかし加藤は何度も誘ってきている。
『もうすぐカモなどの冬鳥が飛来し、びわ湖の水面に浮かぶ姿を写真に撮るのもいいし、枯れたヨシを近景に暮れゆくびわ湖を撮ってもいい。
帰って来る漁船がシルエットのように、赤く染まった湖に映る景色が素晴らしい』などと、しきりにその美しさをメールで書いてくる。
真理はまだ見たことがないその景色を見てみたいと思う。そして写真にも撮りたいが、夕景を撮っていると帰りが遅くなるのが気になる。
たまには遅く帰宅しても良いが、さて誰と行くと夫に言えばいいか。
写真のサークルに入ったことは高山寺へ行ったあと、その写真を見せながらそれとなく夫に話した。
K子に勧められて入ったことにしている。
これは以前、一緒に行ったはずの本人から電話がかかってきて、嘘が暴露しそうになったあの高校の同級生K子である。
またK子をダシに使おうかと思うが、また電話がかかってきてはと迷う。
山崎と加藤のメールに気を取られて、近くにいる夫の敏之のことが目に入っていなかった真理は、最近敏之が携帯を手放さないのを不審に思うようになった。
度々携帯の呼び出し音が聞こえ、その度にニ階へ行ったり庭に出たりしている。

仮想の狭間(19)

2010-04-12 16:00:02 | 仮想の狭間
 敏之の携帯の相手は一体誰だろうと真理は勘ぐり始めた。
改めて夫の行動を振り返ると、不審に思えることが幾つか思い浮かぶ。
敏之の勤めは週に二日だが、それ以外の日はゴルフとか、会社のOBとドライブだとか言って外出する日が最近多くなったように思う。
出掛ける日は洗面所の鏡の前で何十分も頭や顔の手入れをしている。以前はそんなに時間を掛けて手入れをする人ではなかったのに。
この頃敏之の服装がおしゃれになってきたのを真理は単純に喜んでいたが、ほとんど真理と一緒に外出することがなくなっていた敏之は誰のためにおしゃれをしていたのだろう。
家の中で片付けをしている時も鼻歌まじりであったり、口笛を吹きながらやっていることが多く、定年になってストレスが無くなったので日々が楽しいのかと思っていたが、真理が山崎や加藤のメールに心ときめかせているように、夫の敏之も心惹かれる相手が出来たのだろうか。
真理は敏之が遊びに出かける際に、誰と一緒なのか尋ねたことがない。
それだけ安心しきっていたのと、パソコンの中の相手に夢中になっていて、夫の行動に関心がなかったのだ。

 夕食時、敏之が皿のスープをスプーンですくいながら、真理と目を合わさずに話しだした。
「来週の土曜日、会社のOBと山梨の方へ一泊旅行に行ってくるからね。」
「そう、山梨はもう紅葉がきれいでしょうね。
それでOBとはどなたかしら。」
敏之は少し驚いたような目を真理に向けた。
「うん・・・吉田君と・・・田中君だ。」
真理が遊び相手の名前を訊いてくるとは意外だったようだ。
また真理から目をそむけてスープをすすりだした。
敏之が名前を出した2名は聞いたことがあるような気がするが、真理が全く知らない人達だ。
それより驚いたことに、来週の土曜日とは写真サークルが計画したびわ湖の夕景を撮りに行く日なのだ。
行くかどうか迷っていたが、敏之が留守なら好都合と思いびわ湖行きに参加する決心をした。
「そうだわ、その日は私も写真サークルで出かける日なんです。」
「ふうん、またK子さんも一緒なのか?」
「そうよ。今度はびわ湖の北の方へ行く予定なの。」
K子が真理の家へ電話してきても、突然来訪しても敏之は留守なので嘘がばれる心配がない。
夜に早速 加藤と山崎に参加の意向をメールした。
加藤は喜んでくれたが、山崎はその日は都合が悪くて参加できないと連絡してきた。
真理は山崎に会えると期待していただけに、寂しくて胸の中に何か重いものが溜まっているように塞いだ気分になった。
翌朝、山崎からメールが入っていた。
<せっかく真理さんと夜まで付き合えるチャンスなのに、参加できなくて残念です。>

 次の週の水曜日、敏之は珍しく家にいて土曜日の一泊旅行の準備をもう始めている。
先日買ってきたジャケットを着て鏡の前に立ったり、鞄を出してきたり、下着を用意したり鼻歌まじりで用意したものを鞄の中に入れたり出したりしている。
昼食にカレーを作って夫婦で食べていた。
「びわ湖は若いころ二人で行ったことがあるね。
景色のいいところだからきっと良い写真が撮れるだろう。
楽しんでくるといいよ。」
などと敏之は機嫌が良い。
突然敏之の携帯の呼び出し音が鳴りだした。
敏之は携帯を開いて相手を確認すると、
「あっ、ちょっと。」と言ってニ階に上がって行った。
真理が食事を済ませても敏之は下りてこない。
カレーがご飯に染み込んで冷えてしまっている。
一時間近く経ってから、やっと戻ってきた敏之の顔は先程の明るい表情が消え、眉間にしわを寄せた険しい表情に変っていた。

仮想の狭間(20)

2010-04-12 15:55:37 | 仮想の狭間
 もう何年も敏之に対する熱い感情を忘れていた真理であったが、胸の中にモヤモヤと誰に対してか分からない嫉妬心が湧いてくる。
翌日、この日は出勤日であるはずなのに、敏之は家を出ようとしないで何時までも新聞を読んでいる。
読んでいるのか同じところをぼんやり見つめているのか定かではない。
昨日の昼の電話は誰からだったのだろう。
真理は気になるが訊ねられる雰囲気ではないのだ。
ようやく立ち上がった敏之は昨日の旅行鞄に入れたものを出して、元あった場所に片付け始めた。
「あら、旅行に行かないの?」
「うん、田中君の家に不幸が出来たので行けなくなったんだ。」
「それじゃあ。」吉田さんと二人で行けばいいじゃないのと言いかけたが、敏之の落胆ぶりを見ていると、その言葉を飲んでしまった。
田中や吉田と一緒だというのは、その場しのぎの出任せであることを最初から直感で真理には分かっていた。
付き合っている女性との間に、何か亀裂が生じたのかもしれない。
 夕食時、黙り込んで食べていた敏之がとんでもないことを言いだした。
「今度の土曜日、真理の行く写真の撮影会に俺も付いて行っていいかな。」
「だってあなたはサークルの仲間ではないでしょう。」
「メンバー以外の者でも付いて行くくらいは許されるだろう。」
「そんなのダメよ。他の人が嫌がると思うわ。」
真理自身が嫌なのだ。
夫に内緒の自分だけの楽しみを、夫に覗き見られるようなことはしたくない。
「メンバーの人に訊いてみるけど、多分ダメだと思うわよ。」
その夜、夫が次の撮影会に付いて行きたがって困っていると、加藤にメールで知らせたら、意外な返事が返ってきた。
<真理さんのご主人ならOKですよ。
僕もお会いしたいので是非一緒に参加してください。>
あれだけ熱心に真理を誘っていた加藤は、自分に特別な思いを寄せているものと信じていただけに、このメールはショックが大きかった。
加藤は拒否したくても、真理に気兼ねして拒否出来なかったのかもしれないと、自分に都合のよい解釈をして気を取り直した。
敏之に加藤の返答通りOKが出たと伝えるべきか、拒否されたと言うべきか迷う。
真理の本心は、家庭から解放される自由な時間や場所を敏之に邪魔されたくないのだ。
しかし昨日からしょげ返っている敏之が少し可哀そうにも思える。
今回は真理が心動かされている山崎が参加しないので、一度くらいは気晴らしに敏之を連れて行っても構わないかと、K子が急用で不参加になったことにして、夫婦で行く決心をした。

 当日は秋晴れのよい天気になった。
駅前のレストランで早めの昼食を済ませ近鉄電車に乗った。
京都駅でJR琵琶湖線に乗り換え湖北に向かった。
米原で加藤が他のメンバーと自動車で待っている手はずになっている。
あれ以来、敏之は口数が少なく気持ちが落ち込んでいるのが表情で読み取れた。
電車の中でも二人は殆ど口を利かずに窓の外を眺めていた。
マンションや新しい住宅、田んぼや畑、農家の家並が車窓を流れて行く。
刈り取られたベージュの田中の畑に、真っ赤に熟した柿が鈴なりになって収穫されずに残っている。
真理は前の座席に座ってぼんやりと外を見ている敏之に目を移した。
目の下や頬に深い皺が数本出てきて、いつの間にか老け込んでいるのに気付いた。
それほど近頃は夫の顔を近くでまじまじと見たことがなかった。
この人はどんな女性に心惹かれたのだろうと考える。
顔に? 姿に? 性格に? 何に惹かれたのか。
しかし、今の敏之を見る限り、その女性との関係は破局を迎えているように思える。
電車は米原駅に着き、改札を出ると加藤があの満面の笑顔で待っていた。

仮想の狭間(21)

2010-04-11 23:06:19 | 仮想の狭間
 駅前には加藤の自動車の横にもう一台黒いセダンが停まっていて、中にサークルのメンバー三人が乗っていた。
二台で撮影場所まで行くことになっているようだ。
真理たち夫婦は加藤のワンボックスカーに乗るように促された。
後ろのシートに真理と並んで乗るものと思っていた敏之が、加藤の横の助手席に勝手に乗ってしまった。
真理は後ろのシートに一人で掛けて、前の二人を見る形になり、加藤が夫と並ぶのでどんな話が出るのかと心穏やかではなかった。
車は琵琶湖岸に出て北上していく。
青い湖面と道路沿いの黄色く色付いた並木が美しく目に入って来る。
前で敏之が加藤に話しかけている。
以前に勤めていた会社のことや定年後に勤めだした職場のことなど、自分の経歴を紹介しているようだ。
加藤も自分自身のことを話しだした。
真理はメールのやり取りはしていても、加藤の経歴をほとんど知らなかったので興味を持って聞き耳を立てた。
加藤は琵琶湖西岸の農家の生まれで、京都の大学を出ると商社に就職をして、営業マンとして各地を転々としていたようだ。
定年を迎えたのを契機に故郷に戻って、親がやっていた農業をしながら好きな写真を楽しんでいるという。
「ほう。」と羨ましそうな相槌を敏之は何度も打っている。
加藤のあの満面の笑顔や、メールにみられる人を惹き付ける文章、言葉はこれまで彼が歩んできた職業からきているものか、それとも人柄によるものか、いやその両方が加藤という穏やかな人物を作り出しているのであろう。
その魅力に真理は惹かれてしまったのである。
長浜城近くのホテルの喫茶コーナーで休憩をとった。
そこでも加藤と敏之はコーヒーを飲みながら話が弾んでいる。
 現地に着くと加藤がメールで書いていたように湖岸にヨシが生え、それが枯れている様に風情があり、ここから見る夕日の景色は絶好の撮影スポットだろう。
前方に小さな島が見え、対岸に山々が連なっている。
夕日にはまだ早いので、波間に浮かぶ水鳥を写真に撮ったり、田畑の風景を撮ったりと各自が思い思いに時間を過ごしていた。
加藤と敏之はよほど気が合ったのか行動を共にしているので、真理もその後を付いて歩いた。
加藤は自分の愛用のカメラを見みせながら得意そうに説明をしていて、敏之がそれに大いに興味を持ったようだ。
二人の間に真理の入る空きはない。
これほどこの二人が親しくなるとは予想もしなかったことだ。
本来なら真理の傍で加藤が山崎のように親切にアドバイスをしてくれていたはずなのに、と敏之を連れてきたことを後悔する。
夕暮れ近くになると湖岸道路の歩道はカメラマンの三脚がズラリと並ぶ。
陽が落ちるまで、真剣な顔で彼らはレンズを覗いている。
真理と敏之は三脚もデジタル一眼レフも持っていないので、二人してコンパクトデジカメで夕日を撮ったり、暮れかかる辺りの景色を撮っていた。

 帰りの電車の中での敏之は来る時とは全く違って明るく、先日の電話で気落ちした何かから吹っ切れたように思える。
「俺も写真サークルに入れてもらおうかな。
デジイチも買わなければね。来週にでもカメラ店へ行ってみようか。」
真理にしてみれば今回一回だけのつもりの夫の同行が、今後も続くのかと思うと憂鬱になる。
インターネットの世界から現実の世界に飛び出して得た甘い楽しみの中に、夫が入って来ることはその終わりを告げるものなのだ。
彼がゴルフと称して他の快楽を得ていたことは想像されるが、真理自身も山崎とのメールや写真サークルの中で、夫を少なからず裏切っていたのは確かなことで彼を責めることが出来ない。
数日後、電器の大型量販店で一眼レフカメラを二人で選んでいた。
敏之は加藤から教えてもらったカメラの知識を生かしているようだ。
相変わらず山崎から毎日甘いメールが送られてくる。

仮想の狭間(22)

2010-04-11 22:41:57 | 仮想の狭間
 一眼レフデジカメを買って以来、夫の敏之は近所の景色を写真に撮ったり、庭の花を撮ったりと熱心に取扱説明書を見ながら撮影会に行く準備をしている。
真理にもカメラの使い方を教えるが、今一つ夫と撮影会に行くことに抵抗のある真理は何時も上の空で聞いている。
12月の撮影会は京都の洛北だそうだ。
山崎や加藤がメールで熱心に誘って来るが、以前ほどウキウキとした気分にはなれない。
「今度の撮影会は来月の第2日曜日だそうよ。」
リビングのソファーにかけてテレビを見ていた敏之は、真理の言葉を聞いて手帳を取り出した。
「その日は会社のOB会のゴルフコンペがある日だ。
これ休むわけにはいかないんだよな。」
予定表を見ながら敏之は如何にも残念そうだ。
「撮影会はまた何度でもあるんだからゴルフの方へ行けばいいじゃないの。」
真理は夫が参加しないと分かると俄然やる気が出てきた。
その日からカメラの取り扱い説明書と首っ引きで使い方を覚えようとしたが、なかなか分かり辛い。
少々理解できていなくても山崎や加藤が優しく丁寧に教えてくれるだろうと、覚えるのを諦めてしまった。

 撮影会の当日、山崎が京都駅まで真理を迎えに来る手はずになっていた。
京都駅南口の駐車場で待っていると言うので、真理は南口を出たところで山崎の携帯に電話を入れた。
直ぐに彼の車がやって来たので助手席に乗り込もうとして真理が後部座席を見ると、真理と同年代の顔見知りの会員の女性と、40過ぎかと思われる若い女性が乗っている。
「おはようございます。」
挨拶をして山崎の隣に乗った。
「新しい会員さんですよ。」
山崎は親指を後ろに向けて上機嫌で言った。
洛北岩倉の実相院前に着くと加藤や他の会員が待っていた。
その辺りの神社や岩倉具視邸、実相院などを思い思いに皆が撮影をすることになった。
12月ともなるとこの辺りは冷え込む。
真理は薄着をしてきたのを悔みながら、山崎らの後ろを歩いて撮影場所を探した。
山崎らが神社の前で撮影準備にかかったので、真理もそこに決めて階段下から上に向かって写そうと三脚を出して設置にかかったが上手くカメラが三脚に載らない。
山崎はと見ると、先程車の後部座席にいた若い女性の傍で何やら熱心に教えていて真理の方を振り向きもしない。
手と首筋が冷たくなってきて焦り、三脚とカメラをガタガタさせていると加藤が通りがかりに気付いて設置してくれた。
加藤がカメラの使い方を説明していると山崎が近寄って来て、
「真理さん、良いカメラを持ってきたね。」
と声を掛けたが直ぐに若い女性の方に戻ってしまった。

憧れ(1)

2010-04-05 21:23:32 | 憧れ
山々は新緑に包まれ、野も萌える若草に覆われて新しい息吹を放出している。
ここは谷間の草深い山村。
ソウは畦に立って、父コキラを見ている。
山肌にしがみつくようにある小さな田に、父コキラとソウの兄ジンは苗を植えている。
朝から二人で懸命に植えているが、もう昼前だというのに、この小さな田の半分も進んでいない。
「ソウ。苗!」
父の声にソウは応えて、足元の苗の束を父の近くへ放り投げる。
暫くして父と兄は田から上がってきた。
泥だらけの手足をそばの小川で洗って、昼飯を食べるために父は二人の息子を伴って家に帰る。
ソウは裸足の足裏に触る草の感触が好きだ。
道の真ん中に生える草の上を、ピョンピョンと踊るように歩く。
 茅葺の家の中は土間の向こうに、敷かれた藁の上にムシロが置いてある。
その上に三人は掛けるように座った。
ソウの母ユウがヒエやアワの入った粥を椀に入れて、三人に差し出した。
おかずはユウが家の前の草むらで採ってきた野草を塩漬けしたものだ。
家族4人は粥をすするようにして食べた。

この貧しい村では収穫する米の中から、地主へ納める分を除くと残りは少なく、着物などは町へ出て、その貴重な米と引き換えに仕入れてきた。
村人が食べるものは少量の米と、アワ、ヒエ、家の周りで採れる僅かな野菜、それに山菜や野草だ。

憧れ(2)

2010-04-05 21:22:25 | 憧れ
ソウは地主の息子サナエと仲が良かった。
父の手伝いのない日は、サナエと隣家のヤスの三人でよく遊んだ。
歳はソウとヤスが数えの9歳で、サナエは一つ上の10歳である。

サナエは村にある寺で字や数を習っている。
ソウはそれを遊びながら、サナエから習うのが楽しみなのだ。
サナエは家の敷地の土に棒で字を書いてみせる。
ソウとヤスはサナエの真似をして、同じく棒で書いてみる。
「あははは ヤスの書いた字は何と読むんだぁ」サナエが笑い、後の二人も大笑いをする。
ソウは直ぐに字や数を覚えるが、ヤスはなかなか覚えられない。
しかし、三人はこんな事をして遊ぶのが大好きだ。
何も知らない二人に教えることは、サナエにとっても優越感が持てて気分が良い。

そんな遊びに飽きると、道の小石で投げっこをしたり、近くの小川で魚捕りを始める。
手ですくったり、サナエが持ってきた竹の箕で捕ったりと。
夢中で遊んでいると、日はもう西の山に隠れようとしている。
山村の一日は短い。
慌てて桶の中を見ると、今日は小魚が以外とたくさん捕れた。
三人で分けっこをした。
ソウの分け分は、モロコ6匹とタナゴ2匹にドジョウ3匹で、幅広い葉っぱで入れ物を作り、それらを入れた。
ソウもヤスも母親に土産が出来たことが嬉しくてたまらない。
家の入口を入ると、母のユウは雑炊を作っている。
「おっかあ、みやげ」
小魚の入った入れ物をソウは得意げに差し出した。
「「おお、これも煮て食べようかね。」
ユウもおかずが一品増えることを喜んだ。

憧れ(3)

2010-04-05 21:21:00 | 憧れ
季節はめぐり、また春がやってきた。
ソウは母ユウの後ろに着いて川の堤を歩いている。
川といっても、ユウの背丈の二倍ほどの幅しかない狭い川だ。
今日は山裾の竹林へタケノコを採りに行こうと、ユウが息子を誘った。
母の背の背負い篭を見て歩いていたソウの目が、ふっと川の前方に移った。
川向うに何か桃色のものがチラチラと見え隠れする。
何だろうと近づいて行くと、女性の着物であることが分かってきた。
桃色に小さな花を白く染め抜いた着物を着て、萌黄色の細い帯を締めた娘が、
対岸の草むらで野の花を摘んでいる。
つややかな黒くて長い髪を、背中で一つに赤い紐で結んでいる。
ソウはこんなに綺麗な着物は見たことがなかった。
娘が足音に気付いてこちらを向いた。
色白のふっくらした顔に黒く長いまつ毛の目、紅を差した小さな口もと。
ソウはゾクッと震え、ただ「美しい!」と思った。
村の女たちは皆、毎日の野良仕事で日焼けをして真っ黒な顔をしている。
着物も紺か地味な赤のしま柄のものしか着ていない。
ソウは胸がドキドキ高なって、母を追い越して急ぎ足で竹林へと向かった。
これまで自分の着ているものが恥ずかしいと思ったことはなかった。
しかし、今日は自分の格好がみじめで恥ずかしいと思った。
紺の格子じまの膝丈しかない短い着物、しかも肩や尻に継ぎが当てられている。
あの美しい顔で見られているのが耐えられなかった。
あの娘はどこから来たのだろう。
16歳、いや18歳になっているかもしれない。

憧れ(4)

2010-04-05 21:19:02 | 憧れ
竹林には細いタケノコが数多く出ていて、ソウと母のユウはタケノコの根元を足で踏み倒しては背負い篭の中に入れた。
そんな作業の中でも、ソウは先ほど出会った娘の姿が頭から離れなく、黙り込んだままだ。
背負い篭の中に小さくて細いタケノコが10本余り貯まった。
「今日はこれだけにして帰ろう。」
ユウが言って帰ることになった。
途中、あの娘に出会うのではと期待半分、娘に自分を見られたくない気持ち半分で、先ほど通った堤に出た。
しかし、そこにはもう娘の姿はなかった。
ソウは気が抜け、急に疲れが出てきた。
 夕飯後もタケノコを煮た良い香りが家の中に漂い、横になっているソウはその香りの中で、閉じた瞼に娘の姿を追ってうとうとと眠りに付いた。


田の稲が青々と波打つ暑い夏がやってきた。
地主のサダイがソウの家にやってきた。
「のう コキラ、この前頼まれていたソウの件だが。
棟梁に話したら、連れて来いということだ。
ソウは利発な子だから、きっと気に入られると思う。
この夏の終わりにでも、ワシが棟梁のところへ連れて行ってやる。」
家の隅で柴を積んでいるソウの耳に地主の話が入ってきた。
地主が帰って、待っていたように父コキラに訊ねた。
「おとう、地主さんは何を言いに来たんだ?」
「ソウよ、お前はもう10歳になった。
家で働くには田畑が少なすぎる。ワシとジンだけで十分だ。
そこで地主さんにお前の奉公先を探してもらっていたんだ。
町の大工の棟梁に頼んでくれたようだ。」
ソウは急に悲しくなった。
これまで父や母そして兄と別れて暮らすことなど考えてもいなかった。
しかし、隣のヤスは去年の秋に、町の着物の店に奉公に出ている。
最近、急に食べる量が増えてきたソウを、この家では養いきれないのは薄々気付いていた。

憧れ(5)

2010-04-05 21:17:27 | 憧れ
 気の早いコオロギが鳴き始め、夏の終わりを告げている。
ソウは地主のサダイに連れられて、町にやってきた。
道端に野菜を売る者や茶碗を売る者、着物を売る者などが雑多にムシロの上に品物を並べて店を開いている。
道路を人々が大勢行き交い、着ている物の色や柄が様々で、ソウは目を丸くしている。
 サダイはその賑やかな通りから外れ、狭い裏通りへと入った。
そこは表通りとは打って変わってみすぼらしい小さな家が立ち並んでいる。
そのはずれの周囲の家より、いくらか大きな構えの一軒の家の前で立ち止まって、「ここだ。」とソウを促した。
玄関らしき戸を開けると、土間が奥へと続いている。
「ごめんよ。」
サダイの声に奥から女が出てきた。
歳の頃30歳代の半ばかと思われる。
小さな目に丸い鼻をした女は、サダイと顔見知りなのか笑顔で土間の奥へと案内した。
すぐに裏口から外に出てしまった。
そこには男たちが三人、木に向かって作業をしていて、墨壺を持った男に女は声をかけた。
「おまえさん、サダイさんが小僧さんを連れて来たよ。」
振り向いた男は、眉が太く大きな目をギョロリとさせてソウを見た。
そしてサダイに向かって、
「ありがとよ、奥で茶でも飲んで行きな。」
と言うとまた作業に取りかかった。
家の中は板張りになっていて、そこで二人は女の入れてくれるお茶を飲んだ。
「仕事をしっかり覚えて、みんなに可愛がってもらうんだぞ。」
そう言い残して、サダイは去って行った。
女の傍に幼い女の子が二人駆け寄ってきて抱きついた。
「今日はゆっくりして、明日からしっかり働いておくれよ。」
そう言う女の顔を見ながら、この人が棟梁の女房の多紀であることを悟った。

憧れ(6)

2010-04-05 21:16:50 | 憧れ
ソウは台所横の板の間で寝ていた。
体を揺り動かされ、「ソウ、早く起きて水汲みに行くんだよ。」
大声に目を覚まし眠い目を開けると、薄暗い中に白い多紀の顔が真上に見えた。
飛び起きて、裏口の横に置かれている桶を持って外に出ると、道がぼんやり見える程度の明るさだ。
昨日多紀に教えてもらった湧水のある川辺まで目を凝らしながら行った。
桶に水を入れて、ふらつきながら歩くが重くてなかなか進めない。
途中で何度も桶を下ろして休みながら家に着き、台所の瓶に水を移し替えた。
こんな事を三度繰り返したが、三度目にはもうすっかり夜が明けて明るい日差しになっていた。
朝早くから力仕事をしたので無性に腹が減る。
「遅いねえ。最初だから仕方がないけど、もう少し早く運べるようにおなりよ。
朝ご飯を食べてから掃除だよ。」
と多紀が女の子を抱えながら言った。
既に他の者は食事を済ませているようで、お櫃を開けると雑穀の混じった茶色いご飯がほんの少し残っていた。
椀に冷えた汁があり、ソウのために残してくれていたのか青菜の漬物が小鉢に一口ほどあって、掻きこむように食事を済ませた。
 土間は大工の家らしく木くずが散らかり、掃除に手間取った。
その後は板敷きの床の拭き掃除。
拭き終えてホッとしていると、外の仕事を命じられる。
カンナくずや木くずを一ヶ所に集める作業だ。
ぐずぐずしていると邪魔だと叱られつつ、働き詰めの一日が終わった。
 この家では通いの20歳代の大工が一人と、住み込みの10歳代の大工が一人いた。
その日から住み込みの大工の横で寝ることになった。
ソウは疲れて倒れ込むように眠った。
父や母、兄と和やかに食事をしている夢を見た。

憧れ(7)

2010-04-05 21:16:27 | 憧れ
 一年が経ち、親方(棟梁)はソウを現場の掃除にも連れて行くようになった。
親方や先輩大工は器用に木を組み込んでいく。
家を建てる技術の巧妙さを初めて目の当たりにして、ソウは感心するばかりだった。
これまで、仕事の辛さに故郷へ帰りたいと常に父母を恋しがっていたが、俺もいつかはあんな仕事が出来るようになりたいと、この仕事に意欲が湧いてきた。
それ以後は道具を見て名前を覚えたり、先輩の仕事をそれとなく見て、使い方を学んだりしていた。

 ソウが16歳になり、もう一人の住み込み大工のトメが22歳になった。
今までソウは、水汲みや台所の手伝い、掃除、使い走りが仕事であったが、少しずつ木を切ったり、カンナがけをさせてもらえるようになっていた。
覚えが良く、器用なソウを親方は気に入っているようだ。
 夜、床つくとトメはいつも近所の娘の話をする。
どこどこの娘は顔が可愛いだの、その隣の娘のおでこが気に入らないとか、あの娘のむっちりとした白い足を見たとか。
ソウは聞く度に、少年の頃に故郷の川の堤で出会った美しい娘を思い出していた。
秋祭りの日がやってきた。
大きな仕事が一段落したので、「今日は一日遊んで来い。」と親方が珍しく皆に休みを与えた。
トメとソウは連れ立って神社へ向かった。
神社の前は出店が連なって、団子や野菜の煮物などの食べ物や、おもちゃ、着物、茶碗、鍋などが所狭しと並べてある。
二人はあちこちの店をひやかして歩いていた。
不意にソウの方に何かが当たって落ちた。
見てみると、おもちゃの太鼓の棒らしく、短い竹の先が丸く布で包まれている。
拾って立ち上がった目の前に、紫の着物に薄黄色の細い帯を締めた女が5歳くらいの男の子を連れて立っている。
「ごめんなさいね。この子が駄々をこねて投げたものだから。」と頭を下げている。
「いや。」と言って、拾った棒を渡そうと女の顔を見て、「あっ。」と思わず声を出して驚いた。
あの時の娘だ。頬は幾分丸みが取れたようだが、間違いなく少年の日に川の堤で見た娘だ。

憧れ(8)

2010-04-05 21:14:55 | 憧れ
 母子と別れてから、トメがソウに訊ねた。
「お前 あの親子を知っているのかい。」
「いいや。」
「そうだろうな。知っているはずがない。
だけど お前の顔、真っ赤になっているぞ。」
ソウの胸は張り裂けんばかりにドキドキと高鳴っている。
トメが続けた。
「あの人はこの町の「かえごろも」のおかみさんで、美人で評判の人なのさ。」
「かえごろも?」
そうだ、「かえごろも」はお屋敷の女達の古着を只同然で仕入れて、この辺りの娘や女房に売っていいるのさ。
景気がいいらしいぜ。」
「ふうん、そんな商売があるんだ。」
雨の日は仕事場が休みなので、ソウは掃除と道具の手入れを手早く済ませると、「かえごろも」を探して歩いた。
かなり遠くまで探したが見つからない。トメにに訊けば知っているだろうけど、胸に秘めているものを見透かされそうで訊けなかった。
次の雨の日に、その店は以外と近くで見つけることができた。
店といっても、この辺りの店は品物を売るのは、海道にムシロかゴザを敷いて、その上に並べて売っている。
それで家も店舗ではなく看板が掛けてあるだけで、玄関の戸は閉めたままだ。
「かえごろも」と書かれた看板が軒にぶら下がっている家を見つけた。
親方の家より立派な家で、玄関は引き戸でその横に格子の付いた窓がある。
 ソウは雨の日が待ち遠しかった。
雨が降る度に「かえごろも」の前を通った。
ある日、丁度家の前に差し掛かった時、戸が開いて中からあの女が子供を抱いて出てきた。
「あらっ、この前はどうも。」と傘をさしながらソウに挨拶をしてきた。
ソウと同じ方向に歩きながら、
「この子がね、この前の神社で遊びたいって言うものだから。こんな雨なのに。」
そう言って女は子供の顔に頬ずりした。
ソウも今日は暇だからと、神社まで付いて行った。
杉木立に囲まれた神社で、祭りの日に出店が出ていた参道を歩くと社殿に着く。
その大きな屋根の下で、子供の遊びの相手をした。
女はユキノと名乗り、子はミチヤといった。
その日から時々ソウはミチヤの遊び相手をするようになり、傍でユキノが嬉しそうに見守る姿があった。
ユキノの傍にいるだけでソウは幸せだった。