sironeko

短歌

SUNDAY NIKKEI 活字の海で

2011-02-21 20:51:55 | Weblog
 
                       肥前赤絵窯元鷹巣窯さんの湯飲み
昨日、今日と忙しかったので、いま昨日の日本経済新聞を読んだ。「異例の反響呼ぶ夭逝歌人 笹井宏之、没後2年で歌集」と題した記事が出ていた。1部を抜粋すると

{『てんとろり』、そしてインターネットでのオンデマンド出版限定だった第一歌集
『ひとさらい』が同時刊行されるや注文が殺到、いずれも2週間ほどで増版が決定した。数百部程度が一般的という短歌の世界にあって、それぞれ累計5千部、4千部とけた違いの数字に達している。「年齢を問わず幅広く読まれている」}とある。

「ひとさらい」の批評会の時に、穂村弘氏の話では、高野公彦氏の講談社学術文庫の「現代の短歌」が増版を重ね(たしか20年位だろうか)1万部に達したと言われたので、(確かな記憶だと思うが、、、)2週間で5千部は凄いと思う。

 


・月足らずで生まれたらしい弟を補うようにつきのひかりは  
・木の間より漏れくる光 祖父はさう、このやうに笑ふ人であつた
・ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒
・葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある
・きらきらを綺羅へ雲母(きらら)へ変へてゆくサラダボウルといふ水鏡
                         笹井宏之「てんとろり」
・わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒  笹井宏之「ひとさらい」 

☆生きて負ふ哀しみの量(かさ)深々と宇宙(そら)にきはまる碗琴の音(洋子)

☆百年の午睡ののちに逢ひませう桜吹雪を浴びて待ちます(洋子)


ふきのとうの白和え

2011-02-15 20:16:08 | Weblog
今日は、蕗の薹を摘みにいった。         (器は貞山窯さんの高台)
1月の終わり頃から、週に1回ぐらい摘んで今日で4回目だった。一回に60ケから70ヶ位収穫するので、天ぷらにしたり、近くの知人にも届けている。今日の献立は、ふきのとうの白和えにした。材料は、ふきのとう以外は、全部在庫の食材で、具は椎茸、こんにゃく、大根、人参で、これは下味をしっかりつけた。あえごろもは、豆腐、胡麻、味噌、砂糖 酢で、作った。胡麻は、油が出るぐらいに擦った。白和えは、普段あまり作らないが、田舎で育ったので、法事とかで祖母や母や叔母達が作っていたので、味加減を舌が記憶しているので、なんとか作れる。分量は、全部アバウトで、水っぽくならないようにするのがコツと思い、豆腐の水切りを丁寧にして、下味をつけた材料も布巾で固く絞った。里芋も入れればよかったと思ったが、あとのまつりだった。初めてふきのとうの白和えを作ったが、苦みがほどよく美味だった。残ったふきのとうは、ゆがいて冷凍した。

☆伝統の味を受け継ぎ伝へゆく田舎料理のソムリエわれは

☆蕗の薹みつけるたびにむらきもの心膨らむ春は曙

☆たつぷりと蕗の薹入れ白和へを作る寒夜は熱燗にする

今日(2月7日)の「有明抄」より

2011-02-07 13:52:23 | Weblog
今日の佐賀新聞の有明抄に笹井宏之さんのことが書かれていた。
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『石川啄木は1910年、24歳で処女歌集「一握の砂」を出版した。序文の薮野椋十(むくじゅう)は、当時朝日新聞社会部長だった武雄市出身の渋川玄耳(げんじ)の筆名だ。渋川は熊本時代に親交のあった夏目漱石を朝日新聞の社員に迎え、啄木を歌壇の選者に登用した◆「いたく錆びしピストル出でぬ /砂山の/ 砂を指もて掘りてありしに」。これまであまり取り上げられなかった題材を使い、3行に書き分けたスタイルは、新しい抒情と評判を呼んだ。しかし啄木は肺の病が進み、26歳で世を去った。◆ 2年前に啄木と同じ26歳の若さで亡くなった有田町の歌人笹井宏之さんの短歌作品が、脚光を浴びている。昨年12月に作品集「えーえんとくちから」(PARCO出版)が、今年1月24日の三回忌には第二歌集「ひとさらい」と第二歌集「てんとろり」(ともに書肆侃侃房)が出版された◆これで笹井さんが生前に発表したほとんどの作品が活字で読めるようになった。笹井さんは、重度の身体表現性障害で自宅療養しながら、新聞や「ケータイ短歌」番組などに投稿した。笹井さんにとって短歌は「遠い異国を旅する」手段だった◆「庭先にいくつもの手がやってきて互いの指をよせあっている」「パジャマ着たまま沈んでいく人を失礼しますといってなでている」。分かりやすい言葉だが、語られている出来事は現実ではない。でも、あってもあかしくないと思わせ、言葉の響きが気持ちいい◆「てんとろり」に収録された「冬のよろこび」37首は本名筒井宏之名で佐賀新聞歌壇の掲載された。「花冷えの龍門峽を渡りゆくたつたひとつの風であるわれ」。啄木が現代でも親しまれているように、笹井さんの歌の魂も風となってよみがえった。(園)』

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武雄市出身(西川登りだったような記憶がある)の薮野椋十のことは、高校の国語の先生で私を短歌へさそっていただいた松浦先生が「武雄市民の短歌」という冊子を作られた時に、序文にかかれていた事を思い出した。26歳で亡くなった啄木と笹井さん。笹井さんの歌も啄木の歌のように読み継がれていくことだろう。


・夢の戸を閉め忘れたる朝と思ふ 筆立てに筆いつぽんもなし(笹井宏之)「てんとろり」

☆「てんとろり」猫のごとくに携へてあなたの歌の世界を旅す(洋子)