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日本百名山 21、安達太良山(1700m)

2013-09-16 | 日本百名山

日本百名山 21、安達太良山(1700m)

安達太良山で思い浮かぶのは、先ず『安達太良山の鬼婆』と千恵子抄ですが、
筆者は千恵子抄のことにしか触れていないので、先ずはその辺から・・・。

高村光太郎夫妻が二本松の裏の崖に腰をおろして、
「パノラマのような見晴らし」
 (二本松駅手前の新幹線路上より)

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図との合成表示、高さ強調1.5倍、


を眺めた時の絶唱 『樹下の二人』 の一部を引用すると、

あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川、
・・・
 ここはあなたの生まれたふるさと、
 あの小さな白壁の点々があなたのおうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸おう。
・・・
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。 


さて、その登山の案内であるが、
まずその地図と径路断面図を示しておこう。

 

「私は二本松から山麓の岳温泉まで車を駆り、そこから安達太良山に向かった。・・・
(スキー場の)斜面を登りきると、林の中の平らな道が続くが、やがて又急坂になって、勢至平(せいしだいら)
と呼ぶ茫々とした原に出る。・・・

行手に黒々とした岩で厳めしく立っているのが鉄山である。
そのすぐ下にくろがね小屋があった。
だいぶ古びた
山小屋だが、熱い温泉の湧いているのが何よりであった。・・・


小屋で一泊した翌朝は、・・・
雪と岩との急斜面を登って稜線へ出ると、そこは鉄山と矢筈の森との鞍部である。・・・
鞍部から馬ノ背を辿って、大きな岩の立っている矢筈の森を超えると、稜線はゆったり広くなって、やがて乳首の下に出た。
鉄梯子のかかった岩場を登ると、安達太良山の頂上であった。・・・

帰途は岩代熱海の方へ下った。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)


そして、いよいよ歌舞伎で有名な、『安達ヶ原の鬼婆』の昔語りに移ろう。

《安達ヶ原鬼婆伝説》
安達ヶ原の鬼婆は、その名を『岩手』といい、都のある公卿屋敷の乳母であったとか。

幸せに暮らしていたが、手塩にかけて育てていた娘が病にかかってしまう。
我が子の病を治したい一心から、『妊婦の生肝を飲ませれば治る』という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどりついたのが安達ヶ原であった。
(京都にいて福島の地を思う心は、多分、当時最北の地と思われていたからでしょうか?) 

木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどきのこと。
伊駒之助・恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を乞うた。
その夜、身重であった恋衣が俄に産気づき、伊駒之助は薬を求めに出て行った。
老婆『岩手』は、待ちに待った妊婦の肝を取るのはこのときとばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き、生肝を取ったが、
苦しい息の下から 『私たちは小さい時、都で別れた母を探し歩いている』 と語った恋衣の言葉から、
持っていたお守り袋を見て驚愕する。
これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまった。

以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らうようになってしまったが、
数年の後、紀州熊野の僧『阿闍梨祐慶東光坊』によって射殺されてしまったという。

鬼婆が埋葬されたといわれる黒塚には、杉の大木が生えており、
また、平兼盛が詠んだという歌の句碑も建立されているそうです。

 みちのくの 安達ヶ原の黒塚に
  鬼こもれりと 聞くはまことか

 

 

 

 


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