玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「空気」を壊せ!

2006年11月02日 | 日々思うことなど
最近、学校でのいじめは「優等生が『問題児』をいじめる」構図が増えているらしい。

Munchener Brucke:いじめの質的変化
 いじめというのは太古の昔から存在する。動物にだっていじめが存在するのだから、人間がまだホモ・サピエンスに進化する前からいじめは存在したのであろう。多くの人が理想化してやまない「昔の日本」にもいじめは存在していたのに、なぜ最近になって大きく騒がれるようになったのか。

 確かに教師がいじめに加担するという話は最近になってよく聞くし、鹿川君事件以前はあまり聞いたことがない。これについてはいじめの質的変化が指摘される。昔はいじめる側がいわゆるクラスの「ワル」で、むしろバランスの悪い優等生的な生徒*1がいじめられる傾向があった。

 最近はどちらかと言うと優等生的な生徒がクラスの問題児をいじめるという形のいじめが増えているという。先生にとっても問題児に苦虫を噛み潰す思いを日々している訳さから、結果的にクラスの中のいじめの形に迎合してしまうことがある。また先生の口から出た問題児に対するホンネが、いじめの構造にお墨付きを与えている結果にもなっている。
なるほど、と言うとまるでいじめを肯定しているみたいだが、正直に言って「さもありなん」という感じがする。

「学校」と呼ばれる場所に行かなくなってから長い年月がたち、自分の子供もいないので教育問題についてほとんど実感がない。学校ならではの特殊事情を知らないし昔の実感も忘れてしまった。とはいえ、日本で日本人の教師が運営し日本人の生徒が通う学校なのだから、世間一般で流れているのと同じ空気が学校にも存在すると思って間違いなかろう。
どこで世間の空気を感じるのかというと、私の場合は個人ブログであり2ちゃんねるだ。「なんだ2ちゃんか」と笑われそうだが、匿名掲示板には決してマスコミに載らない「本音」があふれており「世間」の無意識を知るのに最も適している。

半年ほど前に「ネットイナゴ」という新語が生まれ一部ブロガーの間で広まった。

越後屋 - ネットイナゴ(仮採用)
ネットイナゴとは - はてなダイアリー

「ネットイナゴ現象はいじめだ、けしからん!」と道徳や正義を叫ぶつもりはないけれど、「自らの正しさを疑わない人たちが一人を取り囲んで小突き回す」というありさまが学校(職場・コミュニティ)でのいじめに似ているように思う。ネットイナゴ現象に参加するのを楽しんだり彼らのやっていることを正当化する人たちは現実のいじめ行為も苦にしないのではないかと疑う。
すべてではないにせよネットイナゴによるブログ炎上のきっかけは2ちゃんねるであることが多い。2ちゃんねるを苗床として素朴で正義感の強い人たちが増えており声を上げることをためらわなくなってきた印象がある。いまや日本で最強の「空気」製造機関はマスコミではなく2ちゃんねるだ。

約30年前に山本七平が「『空気』の研究」に書き、そして最近では中島義道が歎いているように、日本人の社会では「みんな」の作り出す「空気」が個人の意識・言語・行動を強力に規制する。「空気」に逆らうのは法律に違反するより恐ろしく神仏に逆らうより罰当たりだ。
学校という小さな世界で「みんな」がいじめる側に回ったりいじめを黙認するようでは被害者に逃げ場がない。物理的意味で逃げ場がない(毎日同じ学校の同じ教室に行く)のもつらいが精神的な逃げ場がない(「学校に行かないのは落ちこぼれ・怠け者だ」)のはもっと辛い。世間の目が届かない究極の逃げ場を求めると、居住の自由のない子供には「あの世」しか見えない。

「居住の自由のない子供」と書いたけれど、もっと問題なのは「発言の自由・思想の自由がない」ことだ。日本では言論の自由があることになっていても実際にはないことが多い。典型的なのは国会とマスコミを賑わわせた「『核武装の是非を議論する』のは許されるのか」という問題だ。言論の自由の価値が本当に認められていれば閣僚に向かって「核武装の是非を議論する自由を認めるのはけしからん」などと批判する人はいないはずだ。「正しいこと」を守るため異論を封じ込めると「正しいこと」が変質したり世界と不適合になったときそれを修正することができない。かつての大日本帝国の破局を思い出せばその恐ろしさがわかる。
「和気藹々とした楽しいクラス(クラブ)に一人だけ変なやつがいて「空気」を悪くしている」という「常識」が「みんな」を支配していたらそれに異を唱えることはたいへん難しい。異論を口にすること自体が「変なやつが空気を悪く」することの証となる。「空気」による支配は異論の存在を許さない。

結局のところ逃げ場のないいじめを無くすにはいじめる側が「みんな」を構成するのを妨げるしかない。いじめに参加したものを強制的に「みんな」から排除することだ。具体的には退学処分ということになる。軽微ないじめ行為であっても問答無用で加害者を退学にすればいじめる側が「みんな」になることはない。これが逆に「いじめられた被害者をよそに移す」形だと「みんな」によるいじめの構図はそのまま後に残ってしまう。また別の誰かが被害者になる。これでは解決にならない。

退学処分が単純で効果的な解決策であるとしても、実行するのはほとんど不可能だろう。現在の日本の空気では子供(生徒)の権利は最大限尊重され保護される。おそらく「ちょっとしたいじめで退学とは厳しすぎる」と感じる人が大多数のはずだ。たとえば高校の必修科目未履修問題でも世間の風はとても生徒に優しい。私は進学校で熱心に受験勉強に励むタイプの生徒にルサンチマンを抱いているので彼らには冷淡である。
それはさておき、多くの日本人が「みんな」の一員として「空気」に従うことを良しとし、生徒の権利が過剰に尊重されているかぎり、いじめ問題の根本的解決は不可能だと言うほかない。できることは対症療法とか弥縫策とかそういった類のものだけだ。それでも何もしないよりはマシだろう(希望的観測)。教育関係者と良識ある国民の方々が「空気」を恐れず果敢に議論することを願う。