黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

いやーな感じ

2011-05-31 08:44:09 | 文学
 今朝(31日)の新聞を開いて、1面にでかでかと「君が代起立命令『合憲』-最高裁 初の判断」との見出しが踊っているのを見て、言うに言われない「いやーな感じ」(高見順の有名な言葉)に襲われた。
 ご承知のように、僕は先にこの最高裁判決を見透かしたような「大阪維新の会」(橋下徹知事)による「君が代条例」制定の動き(府議会への条例案提出)に対して、「ファシズムの足音、ひたひたと」ということで懸念を表明したが、それに対しては賛否両論のコメントが寄せられ、このことに関して多くの人が関心を持っていることを改めて知り心強く思っていた矢先のこの最高裁の判決、「いやーな感じ」というのは、最高裁が俗に言う「君が代裁判」に合憲の判断を下したことだけでなく、そこに日本人の「歴史」意識の欠如、「長いものには巻かれろ」的な論理刊を感じたからに他ならない。
 繰り返すが、1999年の「国旗・国歌法」が制定された際に、行政府の最高権力者(総理大臣)であった小渕恵三は、「新たに義務を課すものではない」と談話を発表し、官房長官の野中広務も「むしろ静かに理解されていく環境が大切だ」と言って、「日の丸・君が代」は強制すべきものではない、としていたのである。それが、何年も経たないうちに東京都教育委員会(石原慎太郎知事)に、教育現場において「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を強制するようになり(「日の丸・君が代」に対して東京都の教職員は絶対主義天皇制下の戦前のように「起立」して日の丸を仰ぎ見、君が代を斉唱しなければならない、としたのである)、そして、今日の「大阪維新の会(橋下知事)」のことがあり、最高裁の「合憲」判決である。
 僕が「いやーな感じ」になったのは、石原慎太郎のような根っからの「ナショナリスト(国粋主義者)」は別として(とはいえ、前から言っているように、そのような人間に4期も知事という権力職を委ねてきた東京都民の政治感覚・歴史意識を僕は疑っているが)、橋下大阪府知事をはじめ最高裁判事たちの「歴史意識の欠如」はここまでダメになったのか(下落したのか)、と思ったからである。言わずもがなのことを言っておけば、僕は法律の専門家でもなく歴史家(歴史学者・研究者)でもない。しかし、一人の近・現代文学研究者、批評家として戦前(戦時下)の文学作品はもちろん、雑誌や新聞、週刊誌などを読んできた経験から、戦前(絶対主義天皇制下)において、「日の丸・君が代」が人々に対してどのような役割を果たしてきたか、あるいは植民地「朝鮮」や「台湾」における皇民化教育においていかにその野蛮な役割を果たしたか、を僕なりに考えてきて、今日のような考え方をするようになったのである。
 戦後生まれ(1945年12月12日)ではあるが、父母から戦前の「苦労」や「不自由」、「耐乏生活」のことを聞いて育ってきた者として、どうしても野蛮かつ不合理な「絶対主義天皇制」を直接的に想起させるような「日の丸・君が代」を、個人的にはどうしても「国旗・国歌」として認めるわけにはいかないのである。もちろん、法律で決まってしまった以上、スポーツや行事などのいろいろな場面で「日の丸」が掲揚され、「君が代」が歌われることまでを、僕個人としては「認めない」が、他の人がそのような状況に従うことまで否定するわけではない。つまり、僕が否定したいのは、個人の「思想・信条の自由」を認めず「起立」を強制することである。
 昨日の最高裁判決を受けた原告の元教員は、「石原都知事より自分の方が愛国心はあるつもりだ」というような発言をしたらしいが、僕も「日の丸・君が代」を否定しているからと言って、愛国心がないわけではない。しかし、石原慎太郎のように在日外国人に対して「第三国人」などといった差別発言するような狭隘な愛国心ではなく、僕は真の愛国心というのは、他の国に対して日本と「対等・平等」であるという考え方を前提としたものでなければならない、と思っている。
 最後に、僕の「いやーな感じ」は、昨日のような最高裁判決が出る日本に対して「いやーな時代だな、いやーな時代になっていくな」という思いもあってのことだ、と付け加えておく。「フクシマ」が収束のめども立たない今日にあって、「日の丸・君が代」の強制を合憲とする最高裁判決が出る日本、本当に「いやーな感じ」である。何だか「体制派」ばかりになってしまったように思うのは、僕だけだろうか。

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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
hierarchy (noga)
2011-06-01 14:02:28
日本人のことについて、もっとよく学ぼう。日本語しか知らない人は、日本についてもよく知らない。


言語は、考えるための道具である。言語が違えば、考え方も異なる。

日本人は、本当に礼儀正しいのか。
我々の礼儀作法は、序列差法である。序列なきところに礼儀なし。
日本語には階称 (言葉遣い) がある。
言葉遣いの意味を身振りで表わせば、序列差法になる。

日本人は、なぜ察し (勝手な解釈) を使うのか。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。だから、未来時制もない。
日本人には、意思がない。
それで、勝手な解釈を利用する。

日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
恣意は、文章に表わせない。アニマル・子供に共通である。
恣意は、相手により察しにより文章化される。
本人には、その内容に責任がないが、それは本人の意向とされることが多い。

日本語には階称 (言葉遣い) があるので、日本人は序列人間 (縦社会の人間) になる。
義理 (序列関係) がすたれば、この世は闇だ。
意思はなくても、恣意があるので、アニマル風に行動する。

意思のない日本人は、天の声により行動が定まる。自分自身で考える力はない。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
だから、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ必要に迫られることになる。
これは、昔からある浪花節でしょうね。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

「いやーな感じ」を共有します。 (文句の多い大阪人)
2011-06-03 10:56:07
本当に「いやーな感じ」です。前回の黒古氏のエントリーへのコメントを見ても、橋下知事に同調する人は、権力を振るう側と自分を同一視しているように思えます。公務員への儀式の強制において、何故強制する側ばかりに自分を同一視できるのか。
私は公務員ではありませんが、公務員への強制は市民一般への強制につながっていくものであり、権力を振るわれる側の立場として想像力を働かせることが、ファシズムに抗し、民主主義を守ることにつながると考えます。それで初めて排他的でない愛国心、つまり国を民主的で開かれたより良いものにしていく意思が可能になると思われます。
権力を振るう側ばかりと自らを同一視する人々こそが「体制派」であり、そこにまともな「愛国心」を期待することはできないように私には思えます。それは実際に権力者であるかどうかとは関係ないように思えます。
権力それ自体を欲しがってばかりいる人々がいかに「愛国心」に欠けているかは、この時期に内閣不信任案を出したり、それに同調するそぶりを見せて権力闘争劇を演じた連中に如実に現れていると思います。
考えがズレているだけ (大阪恋時雨)
2011-06-03 13:37:44
公務員に服務規程を守り、職務に専念する義務をまっとうしてもらうことと、排他的愛国心は、なんら関係ありません。
そう感じるのは、考えがズレているだけですよ。
例えばね、公務員あがりの某作家さんに関して、その作家さんの公務員時代の元同僚で友人だという人が、テレビでこんなことを言ってました。
「彼(某作家さん)は、勤務中に小説を書いていたのを憶えています。机の下には、書いている原稿用紙が、いっぱいありましたよ」
でもなあ……、これは「公務員の職務専念義務違反」にあたる行為ですよねえ。
普通なら、懲戒処分の対象ですわ。
常識ある市民として、これをどう思いますか?
当てこすりですか? (黒古一夫)
2011-06-03 18:53:56
 「大阪恋時雨」さん、「某作家」というのは、立松和平のことですか。たぶん、そうでしょう。僕が彼と親しかったことを知っていて、このようなことを書いたのでしょうが、「法律」や「規律」を杓子定規に考えるのがお好きな貴方に、僕の考えを言いますが、僕は勤務時間中に「小説を書こう」が、「居眠りをしよう」が、同僚や上司が暗黙でも認めていれば、「OK」だと思っています。
 一般の企業でも「接待ゴルフ」とか「接待麻雀」という名の、「就業規則」以外の「公費による遊び」を「仕事」と称する輩がたくさんいるではありませんか。彼らは、特に「えらいさん」です。
 宮沢賢治ではありませんが、「労働を舞踏に」というのが、僕は理想的な労働形態だと思いますので、その考えに従えば、勤務時間中に小説を書こうが何をしようが、「しなければならないこと」が終わった後であるならば、全く問題ないでしょう。暇な時間に「おしゃべりをする」のと「小説を書く」のは、全く同じことです。
 それとも、「大阪恋時雨」さん、貴方は勤務時間中、毎日全くお茶も飲まず、同僚とおしゃべりもせず、ひたすら机にへばりついて、らちもない書類を作り続けているのが「正しい」労働者の姿だと思っているのですか。貴方は、営業職の人が勤務時間中に喫茶店でコーヒーを飲んだり、あるいはパチンコやで時間をつぶしているのを見たり聞いたりしたことはないのですか。仕事というのは、そのような「法律」に触れるようなすれすれの時間も含んだものの総体だと僕は思っています。
 僕が心配することではありませんが、貴方のように考えていたら、肩こりで仕事の能率も悪くなり、つらいのではありませんか。老爺心ながら、そのように思います。
Unknown (文句の多い大阪人)
2011-06-03 21:44:14
大阪恋時雨さん、あなたは何故「公務員の服務規程」の事ばかりを、意味も無いほど繰り返してコメントされるのですか。なんだか必死になって、この問題を「服務規程」だけの問題にしてしまいたいとやっきになっておられるように見えます。それはこの問題が「服務規程」に収まる問題ではないことを、あなたご自身がご存知だからでしょう?
同じ論点をただ繰り返したり、あてこすりをしても、説得力が増す訳ではありませんよ。
詳しいことは法律の専門家にお訊ねください (大阪恋時雨)
2011-06-03 22:37:34
これからお話するのは、社会常識の話ですよ。
公務員には、自宅の商売や農業、小説書きなど、特定の兼業・副業は許されてます。もちろん、然るべき許可を得てでしょうね。
でもね、「休日や帰宅後など、勤務時間外にするならば」という条件がついてます。
勤務時間中に職場でやるのは、そりゃやっぱり「服務規程違反」「職務専念義務違反」ですわ。それを黙認した上司は、監督不行き届きで、本来は処分の対象になるんと違います?
公務員の場合、勤務時間中に職場を抜け出して、実家の商売や自分の畑仕事をするのも、職場で小説書くのも、「職務専念義務違反」で同じ。
ポイントは、「勤務時間中か、それとも勤務時間外か」にありました。
ご不審な点は、最寄りの役所か、弁護士の橋下知事に、直接、訊いてみればええと思いますよ。
まあ、勤務時間中にお茶を飲んだり、お喋りするのは、誰が見ても「通常の勤務の範囲」でしょうね。
それと同じで、営業回りのサラリーマンが、街の喫茶店で休憩するのも「通常の勤務の範囲」。でも、仕事に関係なく、勤務時間中に雀荘に入ってマージャンをしてたら、そりゃアカンでしょうね。当然、「解雇」ですわ。
まあ、勤め人にとっての「服務規程」は、基礎の基礎です。

……国旗国家の問題が「服務規程」以上の問題を含んでいるとおっしゃるならば、そこはそれ、話を元に戻して、橋下知事さんに不満のある皆さんが直接、法律の専門家の橋下さんに公開質問をしたらええんとちがいますか?
法と社会の相互作用 (文句の多い大阪人)
2011-06-04 00:06:54
法というものは、社会で通用している「公序良俗」というものを参照しますね。大阪恋時雨さんの挙げられている「社会常識」というのは、それだけを見れば、通常の意味での「公序良俗」の範囲かもしれません。しかし、そもそもここで問題になっているのは、この通常容認されている「服務規程」の公序良俗と、憲法で保障されている思想、信条の自由などの問題に照らし合わせて、儀式の強制に従うこのと「服務規程」が同じ質かどうかという事が一つの問題なわけです。大阪恋時雨さんは、ただ単に「同じだ」と繰り返されているだけで、それ以上の論点が見つかりません。何故「同じ」であり、様々な論点から「同じではない」という意見が何故無効でなければならないのかの論拠が見つかりません。
それから、この問題は専門家に聞けば済む問題ではありません。法律が参照する公序良俗とは、社会の価値観の変遷などと共に変わっていくものです。法と社会は相互作用を及ぼしながら双方が変わっていくわけです。そして社会の価値観とは、ここでの黒古氏のブログのコメント欄でも繰り広げられている議論も含めて、言論のプロセスを通じて明確化されたり、変わって行ったりもする訳です。法律の専門家だけではなく、全ての市民が言論や行動を通じて公序良俗を常に構成し続けている面があるわけです。そういうプロセスが「専門家」の意見で決着が着いたり、終わったりする訳ではありません。法の専門家だけが「公序良俗」や社会の価値観・倫理観を決定している訳ではないからです。
火事場泥棒的府知事 (鳥越ゆり子)
2011-06-04 09:26:14
大阪府の橋下知事は、性悪な火事場泥棒的知事ですね。
これまで、どういう立場の人々を弁護してきたのか、その弁護の内容を知りたいものです。
この場をお借りして、抗議の意思を明確にしたいと思います。
国旗・国歌(君が代)がどのように利用されて、多くの人々を悲惨な戦争に駆り立てていったか、まるで「不敬罪」の復活のようではありませんか。
改めて、大阪維新の会と橋下知事にたいして、強い抗議を表明します。
また最高裁判所の裁判官にも抗議いたします。
歴史の勉強、やり直しを求めます。

2011年6月4日   鳥越ゆり子
頑張ってや! (大阪恋時雨)
2011-06-04 17:25:40
中身の無い抽象論を、これ以上聞いてても、しゃあない。
まあ、皆さんで、お好きなようにやったらええ。
今は「昭和ブーム」。皆さんの「反日帝ルサンチマン」も、昭和レトロで、幻想的で、どこか懐かしい。
ほな、社会をひっくり返すまで、頑張ってや!
Unknown (鳥越ゆり子)
2011-06-05 05:05:12
大阪恋時雨さま
あなたの年齢がおいくつなのか、わかりませんけれど、あなたのお名前の付け方も、そうとうレトロな感じがしますね。
「反日帝ルサンチマン」とはまた古い決め付け方です。幻想的、といわれますが、わたしの出逢った詩人達、拷問を受けたのは、菅原克己さん。今現在も、東京の有志の詩人達他のみなさんが「げんげ忌」を毎年春に開催して、菅原さんの詩と詩精神を受け継ごうとされています。
わたしも一度だけでしたが参加しました。
妊娠中に留置されて、「産めよ、増やせよ、の国策があったから、拷問をうけずに助かった」といわれたのは、最晩年の17年間を師事して、実の祖母以上に、わたしにとって祖母のようだった岡山の詩人、永瀬清子さん。
永瀬さんは阪神大震災の一ヵ月後にお亡くなりになりました。
わたしが勤めていたのは、大阪文学学校事務局。今もまだ続いている学校で、夫は詩のクラスの講師として、在任しています。その校長だったのが小野十三郎さん。わたしも夫もたいへんかわいがっていただきましたが、小野さんも、つかまっています。その友人の秋山清さん。大阪にいらっしゃったときにお眼にかかりましたけれど、秋山さんもつかまっていたかとおもいますが・・・。
わたしが詩の朗読会を持ったのが、石川県高松市の鶴彬の生地。鶴彬は獄中で、殺されました。その姪御さんとは友だちで、鶴彬の普及活動にミシンを踏んで得た収入をつぎ込まれています。ですから、黒古さんのこのブログに本の写真が掲載されたことをお知らせすると、たいへん喜ばれて、本を買って読みます、とお葉書が届きました。
また、わたしの息子は南京勤務。中国人の彼女が出来たこともありましたが、彼女の両親の反対で、結婚までにはいたりませんでした。
日本人が先の戦争で、中国人にした加害行為、まだまだ中国人の間では、癒されていません。
すこしも昭和レトロなどという観念的な言葉で
ひとくくりできるような現実ではありません。
幻想的なのは、あなたのほうではありませんか?
あなたももうすこし歴史の勉強をやり直されたほうがいいように、わたしは思います。
命というのは続いているもので、明治・大正・昭和・平成・・・という年号は日本だけのもの。天皇の年号で、はっきり言うと、わたしら
ささやかな庶民がいくら死んでも、かわりません。
「大阪恋時雨1年、2年・・・」くらいになれば、もっとすがすがしい風も吹いて気持ちがいいですけれどね。
わたしも「昭和27年生まれ」ですけれど、中国で、この年号で自己紹介をしても、果たして
どなたにわかるでしょうか?
わたしは息子の彼女がはやく見つかることを念願していますけれど、もし今度も中国人の彼女ができたら、今度こそは、夫もわたしも魯迅を尊敬し、勉強してきたことを、伝えなければ、と考えています。息子からは余計なことをするな、とおこられそうですけれど。
数年前息子を訪ねて、南京に行きましたが、革命政府の拠点は、今も大切にあちこち残されていますし、虐殺記念館もあります。
日本に長崎・広島の原爆ドームや遺産が残されているように、です。
「昭和」レトロなんて、日本の国だけのことですよ。すこしも世界に通用しません。明治・大正のおじいさん・おばあさんも日本中にたくさんいらっしゃるではありませんか?
昭和のわたしたちは、わが家もそうですが、その介護に追われる方がたくさんいますし。
なにか、あなたは現実ばなれした、言葉をもてあそんで、いきがっているように、見受けられます。いかが?

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