黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「ズレ」について考える

2008-01-26 08:44:59 | 文学
(本来はコメント欄に書くべきことであるが、長くなるので、ここにを書いて今日のブログとすることにした)
 昨日、若い人たちと僕との「感覚のズレ」の例として中国における大江健三郎の著作の売れ具合と日本におけるそれとの違いについて書いたら、「浜田」さんという方から、中国における大江健三郎文学の受け入れ方を「海賊版」の発行を例にとって云々するのは、「的外れ」「勘違い」なのではないか、日本の若者を批判するとき中国を例に出すのは常套的で、それこそ「ジコチュウ」的な判断なのではないか、それよりは「海賊版」が横行するような中国の著作権意識の低さについて批判すべきではないか、というような「お叱り=批判」を受けた(詳細については、浜田さんのコメントを読んで欲しい)。
 確かに浜田さんの言うように、中国における著作権意識は日本を初めとする先進国と比べてみれば「低い」と言える。しかし、著作権とはそもそもどのような存在なのか、著作権が保護されていることによってなにがしかの金銭をもらっている僕が言うのはおかしいかも知れないが、この著作権という問題は、そもそも資本制社会において「著作者」と「出版社」を守るために作られた法律であるということを前提にした場合、1949年の毛沢東による革命以来、「共産主義社会・社会主義社会」の建設を目指してきた中国にしてみれば「私有財産制」を象徴する一つである「著作権」など、初めから存在しないようなものだったと考えることができる――もちろん、現在の「改革開放政策」に基づいた経済の高度成長は政策を初めとする諸政策は、明らかに資本主義化を目指すもので、毛沢東たちが望んだものと違った方向に行っているのではないかと思い、その湯女政策を今後も推し進めるのであれば、「海賊版」の横行なども断固阻止すべきであると思う――。中国の体制について云々すると長くなるので、またの機会にして、今日はこれだけでご容赦いただきたい、と思う。
 だから、そのようなことを前提に昨日の文章を書けば、「浜田」さんからいただいたような「お叱り」は受けなかったのではないかとも思うが、僕が言いたかったのは、中国における著作権や「海賊版」のことではなく、大江健三郎の文学に強い関心を持つ中国の若者たちとそれに見向きもしないような日本の学生(若者)たちの「違い」はどこにあるのか、そのことと現在の文学状況を象徴するような表現である「文学不振説」や「純文学衰退説」とは関係あるのではないか、ということに他ならない。さらに言えば、一介の「文学の徒」であると思っている僕の中に芽生えて消えることのない「文学不振」という実感の理由は、果たしてどこにあるのか、所謂「カルチャー本」と言われる「軽い本」(一度読んだら棄てても惜しくないような本)は読んでも、言葉による芸術=文学を通して「生き方のモデル」(大江健三郎)を提出しているような本を読まなくなった学生(若者)が増加している現実、について考えて欲しくて昨日の文章を書いたのである。「浜田」さんが言うような、日本の若者をバッシングするために中国の文学事情を持ち出したのではありません。ご理解いただけたでしょうか。
 また、「文学」が社会全体の問題ではなく一部の好事家たちのものに成り下がるのも、時代の趨勢か、とも思うのだが、中国だけでなく、僕の「実感」では、日本以外の多くの国でまだまだ「文学」が芸術の中心になっているのではないか、ということがあるので、昨日の文章を書いたのであるが……。なお、付け足せば、今週の授業の冒頭で「先日、今期の芥川賞受賞作家を知っている人はいますか?(「作品を読んだ人」ではない!)新聞やテレビで繰り返し報道していましたが」と聞いたところ、答えは全員「NO」であった。我が学群(学部)を数年前に卒業して芥川賞を受賞した「青山七恵」のことを知っている学生も、ゼロであった。
 本当に、こんなことでいいのだろうか?これもまた、僕の「感覚のズレ」なのだろうか、と思いつつ……。

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7 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-01-26 15:22:13
言い訳
著作権の話ではなく (浜田)
2008-01-26 16:54:58
中国の著作権についてはついでのような質問だったので、実はそちらをメインに回答されても困るのですが。
私はどちらかといえば日本と中国の対比の仕方に疑問があります。

今回もまた同じようなことを書かれました。

>大江健三郎の文学に強い関心を持つ中国の若者たちとそれに見向きもしないような日本の学生(若者)たちの「違い」はどこにあるのか

「「違い」はどこにあるのか」という以前にそもそも「中国の若者は文学に関心がある」「見向きもしない日本の学生」という対比を前提とした物言いに疑問を感じていて、そもそも「「違い」なんてあるのですか?」と思っています。

前回のコメントにも書いたのですが、中国と日本との人口は0がひとつ違いますよね?
なので感覚的に「日本よりも中国のほうが本を読んでいる」と言われても納得しづらく、単に刷り部数だけ見ると割合的にはそれほど変わらないのでは?という印象を持っています。

中国の場合、先の記事に大江健三郎の本が1万部と書かれていますが、日本の場合の大江健三郎の刷り部数はどのくらいなのかご存じでしたら教えていただけますか?
浜田さんへ (黒古一夫)
2008-01-27 07:31:17
 繰り返したくないので、まさにコメント風にお答えします。
1.中国の若者と日本の若者の文学に対する取り組み方の「違い」について、もちろんこれは僕の実感を基にしたもので、調査したり統計的なものではありません。知り合いの書店員(日本の)などから聞いたことも、僕の認識・感想を形成する基になっています。
 ところで浜田さん、あなたは日本の若者は大江健三郎の作品をまだ読んでいると思いますか?その実情をご存知でしたら教えてください。僕も認識を改めなければなりません。
 大学の教室で「大江の本を読んだことのある人」と聞いて、100人中2~3人しか手を挙げない日本と、昨年の6月に山東省の大学で話をしたとき、同じ質問をして100人中20~30人が手を挙げた中国を対比して、僕はその「違い」を言いたかったのです。
2.もちろん、中国と日本の人口は「0」が一つ違います。そのことは承知の上でなお「違い」を強調したのは、大江の文学が中国人学生にとって「外国文学」であるという「ハンデ」を背負っており、そんな大江文学の翻訳が中国では1万部が1週間ほどで売り切れ、その結果「増刷」されるまでに「海賊版」が出るという文学状況を言いたかったのです。
3.大江作品の刷り部数ですが、正確にhぼくも知りませんが、1994年に大江がノーベル賞を受賞した直後に出版社の人に聞いたところ、「かつて(1970年頃)は初刷りが10~20万部だったけれど、いまはその10分の1ぐらいになっている」と応えて貰った経験があります。そのような状況が変わらないとすれば、初刷りで1~2万、増刷されて4~5万部というのが現状ではないかと思います(しかし、書店員の話では読者の多くは「団塊の世代」が中心で、若者はほとんど買わない、とのことです)。
 なお最後に付け足しておけば、僕は現在都市と農村の格差がますます広がりつつある中国の在り方は間違っている、と思っていますし、今なお健在な「中華思想=ジコチュウ的な考え方」も問題だと思っています。あくまでも「文学の読者」という観点から意見を述べただけです。
お返事ありがとうございます (浜田)
2008-01-28 00:51:09
>あなたは日本の若者は大江健三郎の作品をまだ読んでいると思いますか?その実情をご存知でしたら教えてください。

大江健三郎に限らず、日本の若者という集団を考えたときに彼らが文学を読んでいるかどうかについて私は具体的な実情は知りません。
私の知っている日本の若者は私の知りうる範囲の狭いものでしかないですから一般化もできませんし、おこがましくもその小さな世界を元に「日本の若者は」などと一般化する気もありません。

ただ、

>大学の教室で「大江の本を読んだことのある人」と聞いて、100人中2~3人しか手を挙げない日本

こういう集団の中で挙手を求める方法での簡単な統計は日本人の気質を考えたときにあまり信頼できる方法ではないという気がします。
周りが手を挙げるまで自分は手を挙げないと周りの様子をうかがっていたら手を挙げる前に先生が話が次に進めてしまって機会を逃した、自分は大江を読んだことあるけれどみんなの前で手を挙げるのは恥ずかしくて嫌だ、自分だけ知っていることを公言するのは居心地が悪いし恰好付けるようで嫌だ、読んでいるけれど手を挙げて下手に指名されたら厄介だ、たまたま挙手を求められたタイミングで上の空の状態で質問が聞き取れていなかった、などの人たちを含めれば2〜3人という数字はもう少し増えそうな気がします。
個別に質問した結果があるともっと確実だと思いますが、せめて他の人には分からないように紙を配ってアンケートを採ったりすればもう少し信頼のできる数字になりそうです。
(芥川賞作家を知っている学生数が0だったという挙手アンケート結果も同じ意味で疑わしいです)

>同じ質問をして100人中20~30人が手を挙げた中国

中国人は周りの人たちの様子をうかがうことなどする前に挙手をしそう(偏見です)なので、同じような挙手によるアンケートの方法だと、教壇に立つ人間には日本人よりは読んでいる印象を強く受けそうな気がします。

>大江の文学が中国人学生にとって「外国文学」であるという「ハンデ」

ハンデというのが外国から来たものという色眼鏡のことなのか、単に言語的な問題のことなのかがわからないのですが、言語的なものならば翻訳があるので外国文学でも普通に読めます。
日本でもドイツ文学・アメリカ文学・ロシア文学など各国の文学の翻訳が普通に書店に並んでいて有名な作品はだいたい日本語で読めますが、それらは日本文学に比べてハンデをおっていると思いますか?
大江はノーベル文学賞も受賞しているので世界的に有名ですからその辺りのネームバリューも考慮しないといけない気がします。

>初刷りで1~2万、増刷されて4~5万部というのが現状

少なく見積もって日本が1万だとして中国も同じ1万だとすると、大江の新刊1冊あたりの人口は日本のほうが0ひとつ少ない数字ですね。
数字だけを見ると中国よりも日本のほうが断然大江は売れていそうですがいかがでしょうか?

>書店員の話では読者の多くは「団塊の世代」が中心で、若者はほとんど買わない、とのことです

中国との対比の次は団塊の世代との対比ですね。

団塊の世代は人口的に多いですから、客に団塊の世代が目立ってしまうのは当然のことなのではないでしょうか?
今は書店に限らず、客層を選別できないような誰でも入れるお店はどこに行っても団塊の世代ばかりです。
それに傍目から若者に該当する年代は15歳から25歳くらいの約10年間に位置する世代と単純に考えて、団塊の世代と傍目から団塊の世代のように見える年代(正確に団塊の世代に該当しなくとも書店のレジの人がぱっと見で団塊の世代と判断してしまう人たち)は50歳から70歳くらいまでの約20年間くらいに幅広く存在している気がするので、団塊の世代と若者世代を見た目だけで単純に比較するのも疑問があるように思います。
団塊の世代と団塊の世代のように見える世代の人数に対して若者世代の人数は圧倒的に不利ですから、書店員の印象にはますます団塊の世代が有利で若者世代には分が悪いのではないでしょうか。

また、その書店がどの都道府県のどれくらいの規模の書店なのかにもよるでしょう。
仮に地方都市の過疎化が進んで住人の大部分を団塊の世代の人たちが占めている街があったとして、その街の書店員が「客の多くは団塊の世代」と言ったとしてもそれは当たり前のことなのではと思うのが自然です。
客層は学生街なのか老人ばかりが取り残されたさびれた街なのかニュータウンかなどの街の性格に左右されますし、都会と地方とでも違うはずです。
少なくともどういった街のどれくらいの規模の書店なのかを明らかにして客層の年代別の割合がそれぞれどのくらいなのかを示さないうちに、いかにも書店員たちの共通認識のような取り上げ方で「若者はほとんど買わない」という特定の書店員の批判の言葉を借りるのはずるいでしょう。

さらに「若者は全く買わない」ではなく「若者はほとんど買わない」という意見なのですから、書店員の方の言い分は「非常に少ないながらも本を買う若者は存在する」という認識に置き換えても間違いないと思うのですが、そうすると「あなたは日本の若者は大江健三郎の作品をまだ読んでいると思いますか?」という冒頭の疑問には「非常に少ないかもしれないが読んでいるのではないですか?」と答えられそうです。

そして本を買うための経済力の違いも考えると団塊の世代のほうが若者よりも気軽に新刊本を買えるでしょうし、ブックオフなどの古書店で安く買いたがる若者もいると思いますし、読むだけなら図書館でも間に合います。
それに最近ではアマゾンを利用したりしてネットで買い物をするのが主流になりつつありますから本を店頭で買わずに通販する若者も増えていると思います。

現実的には、もうある一人の書店員の話だけで読者層を把握するのは難しい時代(せいぜい一般書店を利用するという特定の購買層を把握できるだけ)だと思いますがいかがでしょうか?
(書店員の話だけで「読者の多くは」と述べていますが、購買層と読者層は同じではありませんから、書店員の話を参考に「読者の多くは」と断定するのは危険すぎます)

>今なお健在な「中華思想=ジコチュウ的な考え方」も問題だと思っています

中華思想とはジコチュウ的な考え方であるというご認識とその中国の問題とやらについて興味がわきました。
いずれお話を伺いたいです。
揚げ足取りは止めませんか。 (黒古一夫)
2008-01-28 07:16:07
 どのように説明しても、「悪意」(と言って悪ければ、「疑念」と言ってもいいです)を持って解釈すれば、どのようにも言えます。
 特に教室での挙手についてなど、あなたのおっしゃるようなことは十分に考慮してもなお、一つの「事実」としてしてきしただけです。
 「外国文学というハンデ」についても同じです。あなたは、母国語で書かれた小説と翻訳作品を同列に見て購入しますか?翻訳作品に関する「情報」が母国語で書かれた作品より圧倒的に少ないことなどを含めて、「ハンデ」と言っているのです。
 「書店員」の話も過疎地の書店のことではなく、東京の書店であり、大学が4つも5つもある県境所在地の書店の話です。過疎地の書店、等を持ち出して論理を構築するのは、一般的には「揚げ足取り論法」と言います。
 あなたのような言い方(論法)では、何事も言えなくなります。あなたは何者ですか?
批判はお嫌いですか? (浜田)
2008-02-01 00:26:01
お返事遅れました。

そういう考えもあるかもしれませんねとでも言えば話が収まるところを自分の意見は全て「事実」で決して間違いがないもので他の人からの突っ込みは「悪意」「疑念」「揚げ足取り論法」と切って捨てるとは驚きです。
私はそんな適当なあしらいなどはしないで質問されたことにはきちんと誠実に回答をすることにいたします。

>あなたは、母国語で書かれた小説と翻訳作品を同列に見て購入しますか?

話がずれてきましたが私は同列に見て購入すると思いますよ。
少なくとも書店で面白そうな海外の小説の翻訳を見つけたときにそれよりも日本の小説を読みたいからという理由でその面白そうな翻訳を買い控えしたりはしません。
本を買うか買わないかは面白そうか面白くなさそうかで判断するもので母国語か翻訳かで選ぶようなものではないと思っています。

>翻訳作品に関する「情報」が母国語で書かれた作品より圧倒的に少ない

中国の事情はよく知りませんが日本では有名どころの翻訳作品の情報はそれなりに氾濫している気がします。
少なくとも売れそうもなく話題になっていない日本の小説よりは海外の人気作家の方が広告が多そうですし実際に売れているような気がします。

ところで中国では大江健三郎の「情報」は中国語で書かれた他の作品よりどのくらい「圧倒的に少ない」ものなのでしょうか?と聞きたいところですがこういう直感的感情的な脊髄反射の誇大化表現を拾ってしまうとまた話がずれそうな揚げ足取りになるらしいので止めておきます。

>あなたのような言い方(論法)では、何事も言えなくなります。

あなたのような切り捨て方では、何事も反論できなくなります。
自分への賛同者の声しか耳に入れるつもりはないのですか?
自分が書いた文章に対する説明責任は放棄しますか?
揚げ足取りというコメントひとつで批判や反論から逃げることができるなら楽なものですね。
それならプロフィールに「コメント歓迎。ただし賛同のみ。批判や反論は疑念や悪意や揚げ足取りとみなす。」とでも書いておけばいいと思いますよ。
つい先日のブログに反論や異議申し立てがないと面白くないしこんなことではこの国の「知」の在り方もおかしくなるなどと書いておきながらそれは実に残念ですね。

ところで私はこのブログの内容は「事実」と「事実のようなもの・一見事実に見えるもの・事実と言い切るには説明が不充分なもの」が混ざった状態だと感じています。
(このブログに限らなくても他のブログでも新聞でもテレビでもいわゆるメディアと呼ばれるものは少なからずそういう部分を持っているものだと思いますが。)
「事実のようなもの・一見事実に見えるもの・事実と言い切るには説明が不充分なもの」を「事実」として表現しようとする際には論理的に若干の無理をしないといけませんが、その無理を綺麗に隠蔽できるならば普段テレビ番組を流し見しているようなブログ読者を納得させることは簡単でしょうし文章の力強さ・勢い・強引さもあってある程度それは成功しているように見えます。

「事実」を言うだけだけなら何事でもいくらでもできますからちょっとした「悪意」のような「疑念」程度でこの先に何事も言えなくなるかもなどと心配することはないと思います。
本当に「事実」ならば私も疑問を抱くことはありませんがしかし「事実のようなもの・一見事実に見えるもの・事実と言い切るには説明が不充分なもの」を「事実」に見せかけようとする際のレトリックには疑問がわいてきます。
その疑問を「揚げ足取り」と言われればそれまでですが「私(黒古)の言っていることはすべて事実です」と言われたときにそれを「そうですね」と素直に信じることはそれこそこのブログで批判されている無知で思考の停止した民衆そのものになってしまうと思うのですがいかがですか?

ただ単に「これは事実だ」と声を大きくして繰り返して叫べば物事が「事実」に化けるものでもないと思いますので「事実のようなもの・一見事実に見えるもの・事実と言い切るには説明が不充分なもの」を疑いようのない「事実」として取り上げる際にはどうぞご注意なさってください。
もちろんこれは自戒を込めて言っています。

私のコメントはすべて「事実」です。
嫌いではありませよ、浜田さん。 (黒古一夫)
2008-02-01 10:39:54
 「揚げ足取り論法」と言われたのが、よほどお気に召さなかったようで、またまた長文の「批判」をいただきましたが、昔オウム真理教が世間で騒がれていたとき(まだ、地下鉄サリン事件などが発覚していなかった頃)、上祐某(下の名前を失念した)という幹部のオウム批判に対する反批判(抗弁)に対して、マスコミは「ああ言えば上祐」という言い方で揶揄しましたが、浜田さんの論法を呼んでいると、十数年前にテレビカメラの前で「熱弁」をふるっていた上祐氏を思い浮かべました。
 というのも、浜田さんの「批判」は全く「建設的」でなく、「批判のための批判」と僕には思われたからです。今回も「僕のコメントはすべて『事実』です』と言っていますが、例えば翻訳本と母国語本に差異をかんじて本を購入することはない「と思います」とか、海外の人気作家の方が広告が「多そうですし売れてるような気がします」のように言っていて、「実際に=事実として」翻訳と日本語の本に差異を感じず買っているのかどうか、また実際翻訳の方が売れているのかどうか分からないにもかかわらず、「気がします」とぼやかし=曖昧な表現をして、いかにも「事実」であるかのような言い方をしています。世の中では、このような論法を「詭弁」とか「揚げ足取り」とか言うのだと僕は思っています。
 僕は、僕の考えに賛同している人だけのコメントを歓迎しているつもりはありません。それは、ずっと前ですが、この僕のブログを「広場」にできればいい、と言っていることでも分かると思いますが(こうに書くと、「でも実際は違うではないか、と反論が予想されますが)、僕が拒否したいのは「消耗戦」にしかならない「ひはんのためのひはん」です。何が「建設的」であるかは一概に言えませんが、「自己欺瞞的な口舌の徒」だけにはなりたくないと思っています。
 どうぞ、また批判してください。前言は撤回していくらでも相手しますので。ただし、「消耗戦」だけはやりたくないですね。お互いに。
 それと、本当は同でもいいことですが、「論争」するのであれば、「匿名」をやめて、自分が何者であるかを明らかにして欲しいと思います(僕は、個人情報を明らかにしています)。それが、「論争」における最低のルールでしょう。

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