黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

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空恐ろしい世の中に、だんだんと。

2014-12-23 16:40:57 | 仕事
 あの信じられないような総選挙の結果から10日、この国のこれからの在り様に「絶望」したり、しかし「まだまだ絶望するには早すぎる」と思ったり、あれやこれやを思って日々を過ごしてきたが、どうやら昨今の「政治」にしろ「経済」にしろ、はたまた「文化」にしろ、その状況の根っこには従来の「アナログ社会」から「インターネット社会」への移行期=転換期がもたらす「混乱」があるのではないか、当面をそのような「転換期」における人間の生き方を注視することに意識を傾注しないといけないのではないか、という結論を得ることができた。
 そんな折、北海道の畏友から、以下のような「文藝春秋」掲載の記事が送られてきた。新聞に広告が出たときから読みたいと思っていた記事であったが、新著『葦の隋から中国を覗く』に関わって公私ともに忙しく読むことが適わなかったので、畏友から退き字の送付は大変ありがたかった。
 この記事は、現今のマスコミ(の一部)が瀕死の状態になっている現実を余すことなく伝えており、またこの社会がいかに「右傾化」を進めているかを明かすものになっている
 かなり長いものですが、熟読してください。
 ネトウヨと言われる人たちの言動、及びそれの同調するような「右派週刊誌」が現在どのようなスタンスで存在するかがよく分かるでしょう(字数の関係で中略が多くなったが、感じんんあと頃は省略していないつもりです)



【(独占手記)売国報道に反論する――――慰安婦問題「捏造記者」と呼ばれて】

=元朝日新聞記者・植村隆「文藝春秋」2015年1月号掲載

<内容>

1:「録音テープ」から始まった■23年前に書いた記事

2:1990年夏のこと■空振りが続く元慰安婦取材

3:金学順さんが名乗り出た■元慰安婦の記者会見

4:もう一つの批判された記事■キーセンの経歴を書かなかった理由

5:慰安婦捏造記者と書かれて■西岡力氏への反論

6:バッシングの日々■大学の雇用契約も解消された

7:「負けるな植村!」■私の何が悪かったのか


手記その1:「録音テープ」から始まった

■23年前に書いた記事

 それは1本の録音テープから始まった。1991年8月10日、ソウルにある「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)の事務所。挺対協共同代表の尹貞玉さんら2人のメンバーが、ある元朝鮮人慰安婦の証言を録音したテープを再生し、私に聞かせてくれた。

録音機の中の女性の声は、「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」、「思い出すと今でも身の毛がよだつ」などと淡々と過去を振り返っていた。
 この女性は、中国東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされたという。200から300人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。5人の朝鮮人女性がおり、1人に1室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの4人が一般の兵士200から300人を受け持ち、毎日3、4人の相手をさせられたという。
 「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」。週に1回は軍医の検診があった。数力月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルヘ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしているという。
 約30分のテープでは静かに身の上話を語っていた。しかし、協議会のメンバーによると、話をする前に泣いていた、という。私は驚き、そして震えた。やっとハルモニ(韓国語でおばあさん)たちが、重い口を開き始めたのだ。
(中略)
 朝日新聞の松井やより編集委員が、1988年8月18日付の朝日新聞「ひと」欄で、尹さんを紹介している。それによると、1943年、尹さんが梨花女子大(梨花女子専門学校)1年生のとき、学生全員が地下室で青い紙に指紋を押させられた。
 〈『「女子挺身(ていしん)隊」にでも引っぱられるのでは、と心配した両親は翌日、私を退学させました』戦後に復学・卒業したが、同世代の慰安婦たちの運命をずつと考え続けた。『自分だけが逃れたような気がして……』〉
 とある。私も1990年夏、同じような話を尹先生の梨花女子大学の研究室で聞いたことがあった。尹さん自身、負い目があったのだろう。

 尹さんは事務所で会う前日、梨花女子大近くにある自宅で、こう話していた。
 「その女性はつい最近、友人に伴われて協議会の事務所に来ました。『日本政府が挺身隊があったことを認めないことに腹が立ってたまらない』と名乗り出たのです。おそらく現在、韓国で自分が慰安婦だったということを証言しているのは彼女だけでしょう」

 テープを聞き終わった私に尹先生は言った。

 「これからも聞き書きを続けていきます」。韓国で、慰安婦の証言がようやく歴史に刻まれる時代になったことを告げていた。
 当時、大阪社会部員だった私は、このテープを聞くためだけに韓国へ出張したのだった。出張前、大阪から尹貞玉さんに取材を申し込んだが、証言者はマスコミの取材を受けることを拒否しており、名前も教えられない、と言われた。しかし、テープを聞かせることはできるという。インタビューではない、質問もできない。それでも私は重要なニュースだと思った。確かな情報源のためテープでも問題ないと判断した。
 前年、2週間かけて韓国のあちこちを取材した。慰安婦の取材をするために、全力を尽くしたが、見つけられなかった。一年たって、被害者が声を上げ始めたのだ。

 取材は終わった。急いで、ソウル支局へ行き、原稿を書き始めた。

 前文(リード)にはこう書いた。

 〈【ソウル10日=植村隆】日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた〉

 私は前文の中に、「女子挺身隊」という言葉を使った。約10日前、7月31日付の朝日新聞の紙面でソウル支局長が「朝鮮人従軍慰安婦問題 南北共同で補償要求」という見出しの記事を書いていた。こういう記事だ。

 〈日中戦争や太平洋戦争で、『女子挺身隊』の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦の実態を調査している韓国挺身隊問題対策協議会(16団体、約30万人)の尹貞玉・共同代表は、5月に東京で『アジアの平和と女性の役割』シンポジウムが開かれた際、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)代表との間で、朝鮮人慰安婦の補償などを日本政府に共同で要求することで合意したことをこのほど明らかにした〉

 私の記事は、その挺対協の活動の続報でもあった。当時、韓国では「女子挺身隊」といえば「慰安婦」を意味していた。それは、尹貞玉さんらが立ち上げた「韓国挺身隊問題対策協議会」という団体名に反映されていた。この両者の混同は戦後まもなく定着した。日本のメディアは韓国で定着していた認識を踏襲していた。
(中略)
  そうしたいきさつは、大阪で発行されていた朝鮮半島問題などを扱う雑誌「MILE」(ミレ=朝鮮語で「未来」の意味、1991年11月号)に書いた。題名は「改めて日本に突きつけられた朝鮮人従軍慰安婦問題」で、こういう書き出しだ。「ソウルにいる元朝鮮人従軍慰安婦が語りはじめたらしい。植村君、取材に来たらどうかね」
 ソウル支局長に用事があって電話したところ、探し求めていた情報を教えてもらったという話である。当時のソウル支局長は、今こう回想している。
(後略)

手記その3:金学順さんが名乗り出た

■元慰安婦の記者会見

 前年元慰安婦の証言を得られなかった私は、録音テープとは言え、元慰安婦が語り始めたことを取材し、慰安婦問題が進展していることを重く受け止めていた。直接インタビューできなかったが、「記者には会わないと言っているのだから、仕方がない」と思っていた。
 ところが、この元慰安婦の女性が8月14日に実名を出して、記者会見を行ったということを大阪で知った。ソウル支局からの連絡だったと思う。名前は金学順さんといい、67歳でソウル市鍾路区に住んでいるという。
 15日の韓国各紙朝刊にはこの女性の記事が出た。私は悔しくてならなかった。まさか記者会見で告白、名乗り出るとは思わなかったので、帰国したからだ。もう少しソウルにいれば、直接取材できたのに。

   ソウルにいる尹貞玉さんに電話取材をする一方で、ソウル支局からファックスで送ってもらった新聞記事を見て、同日の大阪の夕刊に続報を書いた。

〈韓国の『韓国挺(てい)身隊問題対策協議会』(尹貞玉・共同代表)が聞き取り調査をしている元従軍慰安婦(女子挺身隊)の女性が14日午後、ソウル市内で、実名を出して証言した。同夜のテレビニュースで流され、15日朝の韓国の新聞各紙に大きく報道されるなど反響が広がっている〉。記事の中でもわかるように、私は「従軍慰安婦(女子挺身隊)」と書いている。あくまでも、当時は従軍慰安婦=女子挺身隊、という観念が固定化されていたからだ。

 この時の韓国の新聞の報道を見てみよう。1991年8月15日付の韓国紙では、金学順さんは「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(東亜日報)、「私は挺身隊だった」(中央日報)、「挺身隊の生き証人として堂々と」(韓国日報)など、金学順さん自らも「挺身隊」という言葉を使って記者会見をしている。
 なぜ金さんは名乗り出たのだろうか。当時、私の取材に尹貞玉さんは「14日、2回目の聞き取りをしたところ、金さんは『日本政府は挺身隊の存在を認めない。怒りを感じる』と、自分の体験を公表すると申し出た。それまで非公開で聞き取りをしていたが、急きょ韓国の報道陣に公開することになった」と話していた。
 しかし、不思議なことにこの金学順さんの出現について、日本の新聞のソウル特派員たちは、当時、強い関心を払っていなかったようだ。データベースで調べてみても、毎日や読売にもこの会見が報道されていない。ふつう、韓国の新聞に重要なニュースがあれば、転電するのだが、その形跡がないのだ。

 ただ一つ、日本の新聞では北海道新聞が、この金学順さんの単独インタビューに成功していた。事前に、挺身隊問題対策協議会に「証言する慰安婦が出てきたら、連絡を」と申し込んでいたという。道新は15日朝刊の社会面トップにこういう記事を載せている。


 〈『日本政府は責任を』。韓国の元従軍慰安婦が名乗り--わけ分からぬまま徴用、死ぬほどの毎日〉

 〈戦前、女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。(中略)金学順さん。学順さんの説明によると、一六歳だった1940年、中国中部の鉄壁鎮というところにあった日本軍部隊の慰安所に他の韓国人女性3人と一緒に強制的に収容された〉

 やはり、リードでは「女子挺身隊の美名のもとに」と書き、「強制的に収容」と書いている。

 最近になって、この記事について、筆者の元特派員に「これは当時の大阪朝日を見て書いたのですか」と尋ねてみた。この筆者は「あなたがそんな取材をしていることは知らなかった」という。やはり、この言葉は枕詞のように使われていたのだった。
 また同年8月18日付の北海道新聞は「開戦から50年」という連載の第6回で、「もう一つの強制連行」という見出しで、金学順さんを紹介した。それによると、金学順さんは7月下旬に韓国教会女性連合会事務局を訪問した。記事では金学順さんが「韓国人女子挺身隊(従軍慰安婦)問題担当の事務局員」に「『私は女子挺身隊だった』と、切り出した」とある。

 これに関連して、北海道新聞は2014年11月17日付の特集記事「慰安婦問題を考える」で金学順さんについて言及。〈女子挺身隊の美名のもとに〉と記したことについて、〈韓国では勤労のための挺身隊と慰安婦を混同していた〉時期があると説明した。取材した元記者によると、〈女性もそう語っていた〉と金学順さんが女子挺身隊という言葉を使ったことを明らかにしている。

 こうした表現は、 読売新聞でも、使っていた。

 来日した尹貞玉さんに取材した91年8月24日付の大阪読売朝刊では〈連行された約20万人の女子挺身隊のうち「慰安婦」として戦地に送られたのは8万人から10万人とみられているが、公式資料がないので正確にはわからない(中略)。ソウルの金学順さんもそんな一人〉。

 「女子挺身隊の名」という表現の記事は、1987年8月14日付の東京読売夕刊に〈従軍慰安婦の実態伝える劇団夢屋第三作『女子挺身隊』の悲劇〉という見出しで出ている。また、91年7月12日付の毎日新聞にも、〈また『女子挺身隊』などの名目で徴発された朝鮮人女性たちは自由を奪われ、各地の慰安所で兵士たちの相手をさせられた〉とある。そもそも、尹貞玉さん自身が当時、そうした説明をしていたのだ。毎日新聞91年12月9日夕刊のインタビューで尹さんはこう語っている。

 〈私たちにとっては、挺身隊が即ち従軍慰安婦なんです。戦争中、女子挺身隊の名で徴用された女性たちの多くが、慰安婦にされたのですから〉

 毎日新聞で最初に金学順さんのことを記事にしたのは、社会部の女性記者だ。91年9月28日付の「記者の目」に紹介している。この記者は8月下旬に金学順さんに会った、と書いている。読売新聞でも金学順さんのことを最初に書いたのは、前述の同年8月24日付の尹貞玉さんの来日を報じた記事の中である。署名がないことや大阪本社版にしか出ていないところをみると、筆者は読売新聞大阪本社の記者だろう。
 つまり、朝日も毎日も読売も、慰安婦として名乗り出た金学順さんの第一報を書いたのはソウル特派員ではなかったのだ。当時は関心のある記者が慰安婦問題を取材していた時代だったのだ。
 またここで再び強調しておきたいのは、名乗り出する前の金学順さんの存在を聞いたのは前述のようにソウル支局長からの情報だったということだ。


 『闇に挑む!』(1998年、徳間文庫)で著者の東京基督教大学教授の西岡力氏は「植村記者は日本国を相手に裁判を起こして闘っている、『太平洋戦争犠牲者遺族会』の梁順任・常任理事〈当時〉の娘と結婚している。金学順さんについて植村記者が第一報を書けたのは、義理の母からの情報提供によるのだろう」と書いている。しかし、これは事実ではない。

 まず指摘しておきたいのは、当時の金学順さんの聞き取り調査をしていたのは尹貞玉さんの「挺対協」であり、私の義母・梁順任の所属する「遺族会」とは全く別の組織である。挺対協は進歩的な団体の連合組織で、遺族会は戦争の犠牲者や遺族たちでつくる団体であり、保守的な立場をとっている。政治的な傾向は違っている。
 金学順さんと梁順任が初めて会ったのは、私が名乗り出前の金学順さんのテープ証言を記事にした8月11日より、約40日後の9月19日のことだった。
 金学順さんの名乗り出は、沈黙を守っていた元慰安婦たちに大きな影響を与えた。「週刊金曜日」の2011年9月30日号は、その一人の李容洙さんに当時のことを聞いている。
(中略)
 〈私は92年6月に名乗り出て、29番目だったそうです。あのとき金学順さんの会見をテレビで見てその勇気に感動し、何人もが「私も慰安婦だった」と名乗り出ました。私は勇気がなくて地元大邱の新聞社に「友人に『慰安婦』だった人がいるがどこに連絡したらいいのか」と聞きに行き、ソウルの挺対協で尹貞玉先生(共同代表)に「友人のことで相談に来た」とうそをついていましたが、遂に途中で「本当は私自身が『慰安婦』でした」と告白して、先生と抱き合って泣きました〉
(後略)

手記4:もう一つの批判された記事

■キーセンの経歴を書かなかった理由

 私は1989年11月~92年3月の大阪社会部時代、金学順さんに関して書いた署名入りの記事は、わずか2本だ。名乗り出る前の金学順さんの存在を報じた91年8月の記事と、金学順さんの弁護団への証言内容を伝えた同年12月25日付の大阪本社版の記事である。12月の記事は「女たちの太平洋戦争」に掲載された。この記事でも、一部メディアのバッシングを受けている。

 見出しはくかえらぬ青春恨の半生日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん〉とある。記事はこうだ。

 〈韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の元朝鮮人従軍慰安婦、元軍人・軍属やその遺族35人が今月6日、日本政府を相手に、戦後補償を求める裁判を東京地裁に起こした。慰安婦だった原告は3人。うち2人は匿名だが、金学順さん(67)=ソウル在住=だけは実名を出し、来日した。元慰安婦が裁判を起こしたのは初めてのことだ。裁判の準備のため、弁護団と「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(ハッキリ会)は4度にわたり韓国を訪問した。弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨の半生を語るその証言テープを再現する。(社会部・植村隆)
 「私は満州(現中国東北部)の古林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」
 「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」(後略)〉

 この記事への批判の代表的なものとして、読売新聞2014年8月29日付朝刊に掲載された「検証②朝日『慰安婦』報道」がある。同年8月5日の朝日新聞は「慰安婦問題を考える上」という特集ページで、植村の慰安婦問題の記事について、「記事に事実のねじ曲げない」として捏造疑惑を否定した。読売新聞は同月28日付の紙面から、朝日の検証記事を批判する連載を始めた。その2回目がこの「検証②朝日『慰安婦』報道」であった。

 この検証記事をめぐる読売新聞の取材姿勢には驚いた。そして、「だまされた」という思いがある。こういう経緯だ。読売新聞社は、8月28日午後2時前に朝日新聞社の広報部に「植村隆氏への質問項目について」という6項目の質問状をファックスで送ってきた。「取材の可否について本日28日午後7時までにいただけないでしょうか」とあった。朝日の広報部から連絡を受けた私は、その時間までに「取材を受ける」と朝日広報を通じて、読売に回答した。翌日昼、回答を作成していると、東京本社の広報担当者から「もう記事が出ている」との連絡があった。読売新聞は私の「答え」を要求しておいて、その「答え」も聞かずに、私を批判する記事を書いたのだ。彼らは私が取材を拒否すると思いこんで、記事を準備していたのではないかとさえ思える。「結論ありき」だったのだろう。

 さて、読売新聞のこの記事は全編、植村の記事を扱っている。記事には「触れなかった過去」という小見出しがついている。

 〈植村氏は91年12月25日の朝刊5面(大阪本社版)で再び、金さんの苦難の人生を取り上げる。だが、植村氏は一連の報道で、金さんが母親に40円で「妓生(キーセン)を養成する家」へと養女に出された事実には触れていない。妓生は宴会などで芸事をする女性のことで、妓生から慰安婦になった人もいたとされる。さらに、金さんは、養父から「中国に行けば稼げる」と言われて北京に連れて行かれたと証言している。植村氏の一連の記事では、金さんをだました人について、「地区の仕事をしている人」などと表現し、養父であることがわからなくなっている〉

 批判のポイントは2つある。①キーセンを養成する家へ養女として出されたことに触れていない②養父に連れて行かれたことがわからなくなっているーーということだ。

 ②から先に説明したい。私が同席した91年11月25日の聞き取りでは、全学順さんは養父については全く語らなかったのだ。それは当時の聞き取り調査に同席し、証言を記録した市民団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の記録「ハッキリ通信」第2号でも確認できる。この通信は12月6日の提訴のころに発行されたものだ。その記録では、こう書いてある。

〈私が一七歳のとき、町内の里長が来て、「ある所に行けば金儲けができるから」と、しきりに勧められました。私は日本名で「エミコ」さんと呼んでいた友だちと2人で行くことに決め、おおぜいの朝鮮人が乗せられたトラックに乗ったのです〉

 それを基に作成された弁護団の聞き取り要旨(日本語)には〈1939年、同原告が17歳(数え)の春、同原告らの住む町内の区長から、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、同町内からもう一人の娘(エミ子という名だった)と共に出稼ぎに行くことになった〉と書かれている。

 いずれも私の記事とほぼ同じ内容であり、養父は登場してこない。韓国語の翻訳の仕方で用語の違いが多少あるだけで、いずれも町内の人に出稼ぎに誘われたことを話している。「週刊ポスト」2014年10月3日号も「養父問題」を取り上げている。〈植村氏は当然、その時点(11月25日の取材時点――引用者)で「連行」ではなく「親に売られた」のだと認識したはずなのだ〉〈もし「検番の養父」と言っていたのに「地区の仕事をしている人」と改変して書いたなら、これは意図的な握造の決定的証拠となる〉と書いている。しかし、私が書いた記事は、前述の「ハッキリ通信」第二号と同様だ。同通信を読めば、聞き取り内容がはっきりわかるはずだ。基本的な資料をチェックした上で記事を書いて欲しいものだ。

 ①に戻りたい。キーセンとは韓国の芸者である。確かに私は、キーセン学校について書かなかった。先ほどの「ハッキリ通信」第2号には、金さんが「私は平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になって生きて行こうと決心したのでした」と語ったことが記録されている。
 しかし、それを基に作成された弁護団の聞き取り要旨にはそのくだりはなかった。私は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではない」と考えたので、あまりキーセンということに重きを置いていなかった。キーセンだから慰安婦になるというわけでもなかった。金学順さんは初めて証言テープを聞いた時から「だまされて慰安婦にされた」と話していたからだ。
(中略)
 読売新聞の14年8月29日の連載とは別のページの特別面に興味深い記事が出ていた。
〈本紙、92年以降は慎重に報道〉という見出しだ。その中で、91年12月6日夕刊で、金学順さんら提訴した3人の慰安婦を「強制徴用された」と書いたことに言及している。つまり、読売新聞は、当時金学順さんらの元慰安婦は「強制連行された」と解釈していたのだ。さらに金学順さんについても、「キーセン養成所にいた経歴には触れていない」と書いている。読売も当時の紙面では養父についても、触れていない。また、この記事では読売新聞も九二年以前は「従軍慰安婦」と「女子挺身隊」を混同していたことについて記している。

 私は8月二9日の読売新聞の別々のページにある二つの記事を読み比べて、大きな脱力感に襲われた。つまり、私の記事に対して「触れなかった過去」と指摘している部分は、読売新聞にとっても「触れなかった過去」なのだ。しかも「強制徴用」と踏み込んで書いている。

 読売新聞は八月中、都合三回にわたって、〈キーセンと書いていない〉と植村を批判した。それなら、自分の社の記事で「なぜ書かなかったのか」について、検証して欲しいものだ。
(中略)
 キーセン学校へ通ったか、通ってなかったかは大きな問題ではないと私は思う。金学順さんが、どんな経歴であっても、自ら望んで慰安婦になったわけではない。被害者は、被害者ではないのか。

 1991年12月6日の提訴時の5つの全国紙の夕刊(東京本社発行)では、産経を始め各紙の記事に全学順さんの「キーセン」の経歴は出ていない。

「週刊金曜日」2014年7月4日号で大学非常勤講師の能川元一(のがわもとかず)さんは、こう指摘していた。

 〈各紙が「キーセン」としての経歴に触れなかったのは、当然のことにすぎない。金学順さんの訴えは「そこへ行けば金儲けができる」と言われて連れていかれた日本軍「慰安所」での強制売春についてのものであって、「キーセン」であったことは無関係だからである。そしてこの当たり前のことを「握造」だと攻撃するところに、「慰安婦」問題否認派の根強い女性差別が露呈しているのである〉

手記その5:慰安婦捏造記者と書かれて

■西岡力氏への反論

 この「女子挺身隊」の呪縛は、14年になって激しく私を襲い、私の「生存権」を脅かすことになった。
 「週刊文春」2014年2月6日号の「“慰安婦握造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事で、23年前の91年8月11日のあの記事を「握造」と決めつけられたのである。この記事は「怒りの総力特集 韓国の『暗部』を撃て!」という特集のひとつだった。いわゆる「反韓」記事の一種である。これで「慰安婦問題を大学で教える、逃げる記者」というイメージが作られたようだ。そして、この転職もふいになってしまった。

 函館支局長だった私は2013年11月、公募でキリスト教系の神戸松蔭女子学院大学のメディア分野の専任教授に選ばれた。2012年度から、地元札幌の北星学園大学で非常勤講師を務めていた。若い世代と共に学ぶ、ということに喜びを感じ、それを本業にしようと、転職を決めたのだ。同年12月に雇用契約を済ませた。

 私は2010年4月に51歳で、母校である早稲田大学の大学院アジア太平洋研究科博士後期課程に社会人入学した。東京本社時代に朝日新聞の戦争責任を追及した長期連載「新聞と戦争」の取材班で、植民地時代のソウルにあった朝日新聞京城支局について調べたことがあった。その時、1910年8月の韓国併合条約調印後に大阪朝日新聞が〈韓人の日本人となることは韓人の為に幸福なるべし、蓋し韓国に於ける日本の行動は文明を意味し……〉という社説を書いていたことを知った。こうした新聞の言説が日本人の中に根強く残る朝鮮人蔑視の風潮を作り上げたのではないかと思い、もっと研究をしたいと大学院に進んだ。北海道に転勤してきた2009年春以降は、北海道に渡った坂本龍馬の後裔たちの生き方を描いた長期連載「北の龍馬たち」に熱中した。自由民権運動や日米開戦阻止に動いた龍馬の子孫たちのデモクラシーヘの思いに魅せられたからだ。こうした課題もあり、大学の教員になって、教育と著作に力を入れたいと思っていた。

 週刊文春で「握造」とされた記事は、最初に紹介した1991年8月11日付の朝日新聞大阪本社版の社会面トップ記事だ。週刊文春の記事で、西岡力氏は次のようにコメントしている。〈植村記者の記事には、「挺身隊の名で戦場に連行され」とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、挫造記事と言っても過言ではありません〉。しかし、繰り返しになるが「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」は私の取材当時、韓国では同じ意味で使われていた。読売新聞も混同を認めているように私が独自に使ったものではない。
(中略)
 一連の批判に関連して、興味深い指摘を神戸大学大学院の木村幹教授がハフィントンポスト(投稿日:14年8月26日)〈慰安婦問題で朝日新聞は何を検証すべきだったのか〉の中で書いている。木村教授は植村が「女子挺身隊の名で」という記事を書いたことについて言及し、〈明らかなことは、このような植村の記述が、この時彼が取材にて入手した金学順の証言による産物ではないことである。(中略)植村報道もまた同紙が用いて来た慰安婦に関する『枕詞』を繰り返したに過ぎなかった。その意味でこの植村報道の内容に、同紙の一連の報道の中で特殊な意味を見出すのには無理がある〉。

 当時の状況を考えれば、こういう見方になるのが普通だ。

 さらに、週刊文春の記事の西岡氏の後半のコメントでは〈(金さんは――引用者)親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており〉としている。
(中略)
 だが、この週刊文春の記事は、私の人生を大きく狂わせた。

 「文春に出た記事で、『なぜこんな者を教授にするのか』などという抗議電話が来ている。この件で話をしたい」。1月31日(金)夕方に神戸松蔭女子学院大学の事務局長から私の携帯に、こんな電話があった。きちんと説明すれば誤解は解けるだろうと、大学向けに説明文を作った。
 2月5日に神戸のホテルの小会議室で、大学の副学長2人と事務局長の計3人に会った。私は札幌から持参した資料や説明文を出して、3人に配ろうとした。しかし、3人とも受け取りを拒否した。そして、副学長らは言った。
「記事の真偽とは関係ない。このままでは学生募集などにも影響が出る。松蔭のイメージが悪化する。4月に植村さんを受け入れられる状況ではないので、どうすればいいのか相談したい」。要するに大学に就職するのを辞退して欲しいという相談だった。この3人には、採用した教員を守るという姿勢は全くなかった。怒りを通り越して、あきれ果てた。
 翌日の2月6日に同大教授会でこの問題が取り上げられたという。月刊誌「創」の2014年12月号で北海道新聞記者が書いた記事によると、執行部はこう報告した。
「週刊文春の報道で、大学に脅迫が来ている。過激な団体から攻撃を受け、学生が巻き込まれるような事態は避けたい。理事会は植村氏の就任は難しいと判断した」
(中略)
   西岡力氏は月刊「文萄春秋」(1992年4月号)に植村批判の記事を書いた。そこでは、こうも言っていた。

 〈朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった〉

 しかし、私は一度も金学順さんについて、「強制連行」とは書いていない。一方で、他紙は「強制連行」や「拉致」という表現で書いている。読売新聞は1991年12月6日夕刊で、金学順さんら提訴した慰安婦3人についても匿名ながら「強制徴用された」と表現。同日の日経新聞夕刊には、「従軍慰安婦として強制連行された金学順さん(67)」という記事が出た。毎日新聞も同年12月13日朝刊の「ひと」で、〈金さんは15歳の春、日本軍兵士にら致された〉としている。97年12月16日毎日新聞夕刊の金さんの訃報記事では〈金さんは、41年に従軍慰安婦として中国の前線基地に強制連行された〉と書いた。不思議なことに、「強制連行」と書いていない私が、強制連行があったように書いたとされ、「強制徴用(強制連行)」と明記した読売新聞などがバッシングする側に回っている。これはきわめて異常な事態だ。
 もちろん、私はほかのメディアが金学順さんについて「強制連行」と書いたことを非難しているわけではない。それは金学順さんの証言のずれにも由来することだからだ。秦郁彦氏は著書『慰安婦と戦場の性』で、金学順さんの訴状と他の三つの証言のくいちがいを問題にしている。強制連行なのか、騙されたのか、人身売買なのか。金さんの証言のずれで、話を聞く側は様々な解釈ができるだろう。
 しかし、金学順さんの主張には一貫している点がある。

 意に反したまま、慰安婦にされて日本軍将兵の性の相手をさせられた――

 ということだ。慰安婦になった経緯がどうであれ、十代の娘が慰安婦にさせられたという事実に向き合うことが、大切なのではないだろうか。そのつらい思い、悔しい気持ちに寄り添うことこそが必要なのではないか。
 金学順さんは「アジア女性基金」の償い金を拒否したまま、1997年12月に亡くなった。
 挺対協の常任代表の尹美香さんの著書『20年間の水曜日』(2011年、邦訳は東方出版)によると、金学順さんは節約して貯めた二千万ウォンを「恵まれない人々のために使って欲しい」と言い残したという。
 金学順さんに最初に会った時の印象は強い。ウェーブのかかった髪に、上品な表情をしていた。17歳の少女の面影も想像できた。さぞかし、美しい少女だったのではないか、とも考えた。半世紀近く、そのつらい思いを話せずにいた。そして恥ずかしさを超えて、勇気を持って証言した。そんな女性に「証言がくいちがう」「売春婦、公娼だった」と言ってバッシングする人々がいる。セカンドレイプのように聞こえ、その言葉を聞くたびに胸が痛くなる。

手記その6:バッシングの日々

■大学の雇用契約も解消された

 1992年4月号の月刊「文藝春秋」で西岡力氏が植村を取り上げたのが、最初の植村批判だと言われる。当時、西岡氏は私には全く取材をしなかった。だから、私は当初は相手にしていなかった。だが、雑誌が発売された後、上司の指示で社内向けに報告書を書いた。「内容に問題はない」という結論となった。その後、朝日新聞内部で、この問題が取り上げられることはなかった。

 私は当時、週刊「朝日ジャーナル」に反論を書きたいと思ったが、上司らから「放っておけ」とアドバイスされたこともあり、実行しなかった。

 当時、西岡氏は「挺身隊問題」については、「重大な事実誤認」、「キーセン学校問題」については、〈事実の一部を隠蔽しようとしたと疑われても仕方がない〉と書いていたが、さすがに「握造」という言葉は使っていなかった。

「教員人事に関するお問い合わせについて  一般公募人事により採用予定(2014年4月採用)であった植村隆氏との雇用契約は、2014年3月7日付で解消されました。植村隆氏が、本学に着任することはありません」

 3月17日、神戸松蔭女子学院大学はHPでこう告知した。私は大学との話し合いで、雇用契約を合意解除した。異例の告知である。ネットでは、松蔭の決定を礼賛する書き込みが登場した。

 私は3月末、朝日新聞社を退職し、札幌の北星学園大学非常勤講師の仕事だけになった。(中略)ところが、この春からは、ネットの世界では「植村が北星学園大で非常勤をしている」など私の追跡が始まった。5月初めからは、自宅にいやがらせ電話がかかってくるようになった。女の声で「言わなくてもわかるでしょう。逃げないで説明してください」。なぜ、104にも登録していないのに、わかるのだろうか。YAHOO!で、自宅の電話番号を入れて検索してみた。

 こんな書き込みがあった。
「植村は現在娘の通う×××校の近くに家を買い優雅な生活を送っているとの情報がありました。なぜこのような生活ができているのか みなさんで確認してみましょう。011―1××××―××××(実際の数字)が電話番号です」
 もうこの自宅の電話には出ないようにした。
 このころから、北星学園大学にも、いやがらせ電話や辞任を求めるメールが送られてくるようになっ
た。5月末に「辞めさせろ」という脅迫状が学長・理事長あてに送られてきた。
 「握造朝日記者の植村隆を講師として雇っているそうだな。売国奴、国賊の。なぶり殺しにしてやる。すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誄として学生を痛めつけてやる」「辞めさせたらHPにのせろ」
 パソコンで打たれた手紙で、関西地方の消印があったという。差出人の名前はなかった。虫ピンが十本ほど同封されていたという。
 7月末にも脅迫状が届いた。9月12日には、「まだ働いているのか。爆破してやる」という脅迫電話がかかってきた。電話をかけてきた男は威力業務妨害罪で10月下旬に逮捕され、その後、略式起訴となった。新潟県の男だが、私には全く面識がない人物だ。
 一方、「週刊文春」は執拗な取材を続けていた。8月14・21日号には「慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様女子大 クビで北の大地へ」という見出しの記事が出た。記事の最後はこう結んであった。

 〈韓国人留学生に対し、自らの握造記事を用いて再び。誤った日本の姿”を刷り込んでいたとしたら、とんでもない売国行為だ〉。仮定の話をしておいて、売国行為と非難している。開いた口がふさがらなかった。
 この夏は、自宅にまで週刊誌記者がやってきた。「フラッシュ」の女性記者は私が不在の際に「他の週刊誌などでは、一面的なそして一方的な報道がされていますが、真相はどこにあるのか直接聞きたいと思ったからです」という丁寧な手紙を残していった。しかし、雑誌が出て驚いた。同誌八月十九・二十六日号には、「『従軍慰安婦提造』朝日新聞記者 大学教授転身がパー」という見出しに私が犬を連れて自宅前を歩いている写真を付けていた。私が知らない間に写真を撮ったのだ。
「週刊新潮」の記者たちは自宅の庭で、週刊新潮を読んでいる私の姿や犬を連れて自転車で出かける姿などを盗撮し、14年9月11日号に載せた。

 こうした週刊誌の植村バッシングは、ネットにも転載され、「植村を辞めさせろ」と言った声が、さらに拡散されていった。

手記その7:「負けるな植村!」

■私の何が悪かったのか
 「ツイッターで私のことがつぶやかれている。ツイッターの拡散力は恐しいから」。8月10日、娘が言い出した。
 私の娘は5月末に高校生の平和活動「高校生平和犬使」の北海道代表に選ばれ新聞に報道された。ネットで攻撃されるのではないかという不安があった。それが的中した。6月上旬には『おい、これ植村の娘じゃないか」という書き込みが現れ、娘を誹誇中傷する書き込みがどんどん増えていった。娘には言わなかった。心配させたくなかった。
 実は、娘もそれに気づいていた。私には言わなかった。このツイッター事件で、二人ともお互いに気づいていたことがわかった。学校のHPの娘の写真が流出していた。
 ある反韓国のブログには、この写真が貼り付けられていた。「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」とも書かれていた。8月10日に書いたものだ。
 このブログにも多数の誹誇中傷が書き込まれた。「晒し支持!!!断固支持!!! 日本人の国際的評価を下げ、ここまで日本の国益を侵害した連中だから当然だね」「なんだ まるで朝鮮人だな。ハーフだから当たり前か」。1時間でコメント数29件に上っていた。

 私が記事を書いた時代には、まだ生まれていなかった17歳の少女の写真がなぜ、さらされ、なぜ、こんな罵詈雑言がかかれるのか。

 ネットの攻撃はそれだけではなかった。私には、大学4年生の息子がいる。この息子の高校時代の同級生で、同じ植村姓の青年が息子に間違われて顔写真をさらされ誹誇中傷を受けているのだ。全く関係ない人を巻き込んでしまった。謝ったがそれですむものではない。悔しくてならない。
(中略)  
 なぜこんなにバッシングが続くのか、考えてみた。私が「挺身隊」という言葉を記事で使ったことや、「キーセン」にふれなかったことがこのバッシングの最大の理由ではない、と思う。私が大阪社会部時代に書いた金学順さんに関する署名記事は2つだけだ。旧日本軍の慰安所設置などを示す資料が発見されたという92年1月の有名な記事は私が書いたものではない。故吉田清治氏の記事は全く書いていない。大阪社会部の後は、国際ニュースを扱う外報部に戻り、1993年8月~96年11月までは中東イランのテヘラン支局長をしていた。この間は慰安婦の記事を書いていない。96年12月~97年8月のソウル特派員時代に書いた署名記事で「従軍慰安婦」の言葉のあったものは19本だけだ。

 そんな私が標的にされる理由を考えてみた。
①私が朝日新聞の記者で、慰安婦として最初に名乗り出た金学順さんの存在を他紙に先駆けて署名入りで報じたこと。金学順さんの登場で他の慰安婦たちが次々と証言することになり、慰安婦問題が大きな国際問題になった。
②朝日新聞は故松井やより記者を筆頭に総体として慰安婦問題を熱心に報道してきた。そうした記者たちの歴史認識やリベラリズムヘの嫌悪がある。朝日の慰安婦報道を批判する人のなかには、「朝日新聞廃刊」 までを主張する人もいる。
③私が韓国人と結婚していること。
④妻の母(私の義母)は無罪だったが、詐欺事件で逮捕・起訴されたこと。新たな遺族訴訟の準備をする過程で、詐欺事件に関連し、義母は裁判にかけられた。しかし、一審・二審とも無罪となり、14年8月に無罪が確定した。

 こうした中で、「慰安婦問題」を書くと、攻撃を受けるという認識が朝日新聞自体にも広がっているようだ。記者たちの萎縮が進んでいるように思える。こんなにバッシングを受けている先輩を見れば、当然なのかもしれない。しかし、そこが私を攻撃する勢力の「狙い」なのではないか。後輩記者たちには頑張ってほしいと思うし、私もきちんと向き合わなければならないと思う。
 私は人に助けを求めたことはこれまであまりなかった。「契約はあるから後期は続けられるだろうが、北星学園大学の教職員たちの大多数は来年度はやめてもらいたいと思っている。私は頑張って応援するが、非常に厳しい状況だ」。新学期を前にしたⅧ月、私を応援してくれているある教員が嘆いた。危機が迫っている。でも北星は大好きだから、やめたくない。思い切って市民運動関係の女性に「事態解決のために協力して欲しい」と相談した。また、地元のジャーナリストにも事情を説明した。彼らは口々に言ってくれた。「応援したい」。とはいえ、私を取り巻く異常な事態はどこのメディアも取り上げなかった。朝日バッシングが大きな影響を与えたからだ。やっと、「週刊金曜日」が9月19日号で報じたものの、大手マスコミは追いかけなかった。

 「そうだ大学へ応援メールを出そう」。最初に相談した女性が9月上旬に発案し、北星学園大学への激励のメール送付運動が始まった。同大学によると、応援メール運動が始まる前の8月までは抗議メールが807通で、激励メールは20通だった。しかし、9月以降は逆転し、10月末までの2ヵ月では、抗議メールが333通で、激励メールはその3倍の1011通に上った。
(中略)
 朝日新聞が「挫造はない」という結論を出したため、他の社の取材にも応じるようにした。これまで、北海道新聞、毎日新聞、NHKなどの取材を受けてきた。それらの記者たちには、直接会って、証拠書類を見せ、丁寧に説明してきた。「事実を知りたい」という姿勢で私の話を聞いてくれたからだ。そして、そうしたメディアは、私の記事を「握造」と報じてはいない。海外でも関心を呼び、ニューヨークタイムズの記者も取材に来た。

 周りに応援してくれる人々が集まり始めた。取材でお世話になった方々もいたし、初対面の方々もいた。みな、私の説明を聞いてこうした異常な事態はおかしいと考えていた。
 「松蔭、帝塚山に続いて、北星も脅しに屈したら、歯止めが利かなくなる」。こうした考えを共有する人々が、北星学園大を応援する市民団体「負けるな北星!の会」(略称マケルナ会)を立ち上げたのは10月6日のことだ。作家の池渾夏樹氏や森村誠一氏、原寿雄元共同通信編集主幹ら学者、ジャーナリスト、弁護士など43人が呼びかけ人になり、野中広務元自民党幹事長、上田文雄札幌市長ら401人が賛同人になった。東京と札幌で記者会見があった。設立趣意書には「北星学園大学や家族への脅し、攻撃は、自由と民主主義へのテロ」だとうたった。呼びかけ人の小林節慶応大学名誉教授が「植村さんは失業すると、生存権が脅かされる。未成年の嬢さんに自殺を教唆するのは犯罪だ。これがテロでなくて何か」と主張してくれた。私は胸が熱くなった。
 読売、産経を含む各紙は社説で大学への脅迫を批判した。自由人権協会(喜田村洋一代表理事ら)や東京弁護士会、札幌弁護士会、日本ペンクラブなど様々な団体が声明を出した。全国の約380人の弁護士たちが北星学園大学を応援するため、「勝手連」的に札幌地検に威力業務妨害罪で刑事告発を行った。

 告発人共同代表の中山武敏弁護士は告発の前にこんなメッセージを発信した。
 「(大学への)脅迫行為で報道の自由、言論の自由を封殺する状況を許せば再び何時か来た道へつながるのではと危惧しています。植村隆さん、嬢さん、家族への酷い人権侵害も見過ごすことはできません。私たちの行動が平和と人権の確立をもとめる広範な世論づくりに役立てばと願っています」。

 私だけの問題ではないことを改めて痛感した。危機に直面した後に、様々な人から応援を受けることができた。私は直面している問題に立ち向かって行くことを決めた。「これをきっかけに『慰安婦』とされた方々が生きておられる間に、植村さん自身がジャーナリストとして検証をする必要があるのでは」という趣旨のメールを札幌の女性弁護士からもらった。ふり返って気づいた。私は慰安婦問題に距離を置いていた。
 私は23年前、前述の大阪の雑誌「MILE」に「改めて日本に突きつけられた朝鮮人従軍慰安婦問題」と題して、韓国での名乗り出の第一号の元慰安婦・金学順さんの登場前後の経緯などについて書いた。その記事の最後をこう結んでいた。
 〈太平洋戦争開戦から50年たって、やっと歴史の暗部に光が当たろうとしている。この歴史に対して、われわれ日本人は謙虚であらねばならないし、掘り起しの作業を急がねばならない。放置することは、ハルモニたちを見殺しにすることに他ならないのだ〉

 「改めて突きつけられた問題」というのは、32歳の大阪社会部記者植村隆が、56歳の北星学園大非常勤講師植村隆に投げかけた言葉ではないか。歴史の暗部を見つめようとする人々を攻撃し、ひるませようとする勢力が2014年の日本にいる。それには屈しないと声を上げる人々もいる。お前も一緒に立ち向かえと、若き日の自分から発破をかけられているのだ。

 私の慰安婦報道をめぐる一部メディアの非難は「文藝春秋」1992年4月号から始まった。それは、いつの間にか「捏造」とまでエスカレートした。だからこそ、反証のための手記をまず「文藤春秋」に寄せるべきだと考えた。
 私は「握造記者」ではない。
 不当なバッシングに屈する訳にはいかない。



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