江戸時代の国学者・上田秋成(1734~1809)は、茶人、俳人、医者のほかに読本作家の顔を持つ。
その代表作が、怪奇ものをまとめた『雨月物語』。
先日、熊野新宮市にあった浮島の森に住む大蛇の話(蛇性の淫)を知りたくて、いくつかの『雨月物語』本を取り寄せた。
その『雨月物語』のなかには、栃木に実在の寺の話も収められていた。
それが、『青頭巾』という話。かいつまんで言うと・・・
この寺の住職が、越の国に行った帰りにひとりの童児を連れ帰り、いたく可愛がった。
あるとき、不意の病にかかりその寵童が亡くなると、住職は悲しみにくれ、しまいには、その亡骸を食らい、鬼になってしまった。
そこに、旅の僧が立ち寄り、鬼を改心させ、のちに成仏させたという話。
(詳しくは、こちらへ)
その物語の舞台が、栃木市にある太平山の南麓にたたずむ大中寺。
僕が中学生のとき、このすぐ近くの太平山少年の家で林間学校(だったか)の行事があった。
そのとき、班別に行動したオリエンテーリングでこの大中寺へもやってきた。
ちなみに当時から怖がりだった僕は、怖かったことしか覚えていない。
この日ここに、J君とJ君の彼女とを誘ってやってきたのは、僕がひとりでは来れなかったからなのだ。
石柱には、「曹洞宗大平山」「大中護国禅寺」とある。 参道。
山門前の長く緩やかな石段の脇には、この季節らしくみずみずしい紫陽花が咲き誇っていた。
山門をくぐると、正面には鬱蒼と茂った樹木に隠れて本堂が建つ。
ここ大中寺は、久寿元年(1154)に真言宗の寺院として創建。
のちに荒廃したが、延徳元年(1489)、快庵妙慶禅師によって曹洞宗の寺として再興し、現在に至る。
その快庵禅師こそが、『青頭巾』のモデルとなった高僧である。
上杉謙信ゆかりの寺でもあり、七堂伽藍の寄進を受けるほどの厚遇をえた。
北条と和睦したのもこの寺という。
つまり、ここは関東でありながら、上杉の勢力圏内だったというわけだ。
江戸時代になってからのこの寺は、「関三刹」のひとつに数えられるほどの名刹となる。
曹洞宗といえば、その総本山は越前にある永平寺。
その永平寺の関東における窓口として、この大中寺をはじめ、埼玉の龍穏寺、千葉の總寧寺の三寺が「関三刹」と呼ばれ、絶大な権威を誇ったのだ。
そのため、多くの修行僧がここで寝起きしていたというが、今はその面影もない。
本堂手前、右側には新しめの地蔵堂が建っていた。
中をのぞくと、半跏の地蔵様。
かつてこのすぐ近くに真言宗の円福寺という寺院があって、その寺に居られた地蔵様らしい。
修復して、お堂に安置することになったようだ。
左手に宝珠、右手には錫杖をもった延命地蔵形の木造仏。
半跏のお地蔵様は、平安末期以降にみられる特徴という。たしかに端正な顔立ちは鎌倉期を思わせる力強さを感じる。
お地蔵様と聞けばついつい立ち姿を思い浮かべてしまうが、以前、親戚の菩提寺にあった、ご先祖様所縁の地蔵様も半跏だった。(日記)
そういえば、あの寺も曹洞宗だった。
さてこの寺、『青頭巾』の話だけに限らず、七不思議も存在する。
修行僧が多くいれば、それは全寮制の中学校くらいのにぎやかさで、いじめや差別、引きこもりも存在したと思う。
となれば、「トイレの花子さん」「無人の音楽室から聞こえるピアノ」ばりの怪談話が出来上がってもおかしくはない。
その七不思議を順に。まずは、その壱、油坂。
「ある学僧が燈火欲しさに、本堂の灯明の油を盗んで追われ、石段からころげ落ちたのが元で死に、
そののちこの石段を上がり降りすると災いに合うと云われています。」(案内板より)
現在、坂は通行止めとなっているので、迂回して本堂へ。
本堂には、その弐、枕返しの間。
「ある旅人がこの寺に一夜の宿を乞い、この部屋で本尊の方に足を向けて寝たところ翌朝、目がさめると頭が本尊の方へ向いて居たという。」
御朱印に書かれているように、ご本尊は釈迦如来。
ご住職に伺った話によると、横からご本尊に向かうように達磨さんの絵が掛けられているという。
やはり、禅寺といえば達磨さんである。できれば、拝見してみたかったが。
ふと見上げると、本堂の向拝下の海老虹梁(えびこうりょう)は、龍の胴体がうねうねっと絡まっていて、技巧の粋に見惚れてしまった。
油坂を上から見下ろす。そんな長い石段ではない。
石質なのか、風化によるものか、小石がゴツゴツとむき出しになっているようにみえる。
慌てて駆け下りれば間違いなく足を踏み外してしまいそうである。
その参、不断のかまど。勝手に覗くわけにもいかず、外観から。
「ある修行僧がかまどの中に入って居眠りをしていると、それとも知らず寺男が火を焚きつけたため焼け死んでしまった。
それ以来このかまどには火を絶やさなくなった。」
まさか、今でも火が絶えていない、ってことはないと思うが。
その四、馬首の井戸。
「土地の豪族、晃石太郎が戦いに敗れて寺に逃げ込んだ時、かくまってくれないのを恨み、
馬の首を斬って井戸に投げ入れたが後になって井戸の中からいななきが聞こえたという」
晃石太郎(てるいしたろう)とは、いつの時代のひとか?と調べてみると、どうやら戦国のひとで、正しくは佐竹小太郎信綱というらしい。
この寺の裏山は晃石山といい、むかし、夜毎光る石があったという。呼び名の晃石はそこから取ったのだろうか。
山頂近くには晃石神社と呼ばれる社殿もあり、これまた藤原秀郷に由緒を辿る。
補足すると、小山氏との戦いに敗れた晃石太郎が、叔父が住職だった縁で大中寺を頼ってきたらしいが、難を恐れてか、つれなく断られた。
無念の晃石は、鎧の袖を噛んで離さない愛馬の首を切り落として井戸に投げ入れ、自身は自害したという。
この井戸、今は埋められている。
そうは聞いても、怖くて覗き込むことは出来ない僕である。
その五、不開の雲隠。 (あかずのせっちん)
「土地の豪族晃石太郎の妻が敵に追われてこの雪隠の中に逃げ込んで自殺してからというもの、開けられたことがないといわれる。」
夫が自害したのを知り、わが身ひとりで逃げおおせないと覚悟を決めたのだろう。
屋根までしつらえてある。400年前からずっとこの建屋があったのか?って疑問は拭えないものの、この中に処置されないままの遺体があると思うと身震いをしてしまう。
覗く勇気はもちろんない。
その六、東山一口拍子木。
「寺の東の方のある山で拍子木の音が一声聞こえるとかならず寺に異変が起ると伝えられており、
その音は住職にだけしか聞こえないという。」
ちなみに、太平山神社などのある太平山へのハイキングルートは、ここから山中へ分け入る。
もし僕がこのハイキングコースを歩くことがあって、その途中で万が一、万が一、拍子木の音でも聴こえようなものならば、
それが空耳だと言われようが、もう二度と踏み入ることはできない。
その七、根なしの藤。
「大中寺の開祖、快庵妙慶禅師が鬼坊主の霊を葬うため、墓標としてさした杖から成長したと言われる藤の古木
上田秋成「雨月物語」青頭巾の話」
つまり、これが『青頭巾』の元ネタというわけだ。
こちらは、快庵禅師をまつる開山堂。
なかにあるのは、坐像か掛け軸か。
御朱印。
帰ってきてからもういちど、『青頭巾』の話を読み返してみて、くさぐさ考えてみた。(以下、スジをいじりながら)
快庵妙慶禅師ご自身は実在の人。
もとは薩摩の人で、京都、美濃で修行をし、陸奥で行く途中にここに立ち寄り、人肉を食らう鬼坊主の話を知る。
鬼と成り果ててしまった僧は在野のただの坊主ではなく、阿闍梨の称をもち、越後の寺に灌頂の導師として出向くくらいの高僧だったことがわかる。
それほどの人間が、溺れるほどに、12,3歳の少年を愛してしまうのだ。
愛するということは、性交関係を持つということ。立場上、少年に拒否するという選択肢はない。
少年がよほど美しかったのだろうが、仏門につかえる身でありながら、ロリコン趣味のおっさんとなんらかわらない煩悩をもっていたわけだ。
あらためて申すまでもなく、男色、衆道のたぐいは、平安のむかしから公家や僧侶の間にあった。
戦国時代の武将のお小姓も、夜の御伽のお相手だったのは周知のこと。
江戸時代には、町人の間にさえその趣向は広がっていて、古典落語「お釜さま」は、島屋の番頭にオカマを掘られた丁稚の、実際にあった事件が元ネタだったりする。
この少年も、高僧にカマを掘られて、その世界を知ったことだろう。
初めて知るその世界が、少年にとって甘美であったのか地獄であったのか、本人しか知りえないことだが。
しかし、ふと思い直せば、この少年の中にこそ、もともと鬼が宿っていたのではないかという気がしてきた。
鬼、といっても餓鬼くらいのヘタレで、屍を食らわすことで僧に乗り移ったのかもしれない。
とはいえ、阿闍梨ともあろう人物が「無明の業火」という愛欲の道にはしり、鬼になり果てるとはどこか心に油断があったのだ。
快庵は、「二十日あまりの月おそく出」た日に里の家に泊まり、翌晩に山寺へ向かう。
たぶんその晩の月は、月齢21の下弦の月ということになろうか。
月の引力が弱まる半月であり、しかも欠けていく下弦。
つまり、生命の力が弱まっていく月夜の晩。不吉な予感を匂わせてくるようだ。
寺を訪れた快庵は、出迎えた僧に、おして一夜の宿を請う。(この時点で、鬼になっていないわけだ)
夜半に月が出てくるのを待っていたかのように、いやむしろ月こそが狂気の元凶であるかのように、僧は鬼に化身し、快庵を食らおうと探しまわる。
しかしいくら探せども、鬼の目には快庵が見つからない。
なぜに見えないのか、それは快庵のかぶっていた紺染めの巾(つまりこれが青頭巾)が、耳なし芳一のお経のように、快庵の身を守ったか。
いわば、魔除けのお札に似た作用があったのだろう。
朝になり、ようやく快庵の姿を確かめた鬼は、観念して快庵に許しを請う。
快庵は、唐の永嘉大師の証道歌「江月照らし松風吹く 永夜清宵何の所為ぞ」を授け、自らの紺染めの巾を鬼にかぶせる。
つまり、鬼の妖力を封印したわけだ。
さて、そのとき授けた、「江月照松風吹(こうげつてらししょうふうふく)永夜清宵何所為(えいやせいせうなんのしょいぞ)」とは、なんぞや?
そのまま現代語に訳すと、「月は明るく川を照らし、松風が吹く。この永い夜と清い景色は何のためにあるのか。」となる。
鬼坊主がその意味を探ろうと、それから一年も先までずっとその二句を唱え続けたように、僕もこの句の意味がぴんと来ず。
解けないままの鬼坊主は、一年ののちに再訪した快庵によって一喝されて、枯れてしぼみきった妄執もろとも粉々に霧散。骨と青頭巾だけが残った。
里の人は、鬼と化した物の怪を退治した快庵禅師を寺に迎え、禅寺に改宗し、一件落着と相成る。
それが、快庵禅師による寺の再興の英傑譚の顛末だ。
しかし、もともと上田秋成がこの話を『雨月物語』に収めたのは、なにか意図があるのではないかと気になった。
それは、物語の最後を「もとの真言宗をあらためて曹洞の霊場をひらいた」としめていること。
とらえよう次第では、「真言(=東密。それに限らず台密もふくめた密教を指すのだろう)は欲をあさり堕落していたので、禅宗が成敗した」話なんじゃないかな、これは。
秋成は、この物語を借りて、密教批判をしたのではないかと思えた。
なお、この話は多くの作家もお気に入りのようで、アレンジを加えて書き直しが出ている。
室生犀星や岩井志麻子は、この事件を別の女性のひとり語りで仕上げている。
山口椿は、ある瞬間からがらりとスジを変えて、おぞましい物語にひっくり返してしまっている。
ところで僕は、読み終わったのちも、「江月照らす~」の意味が解せないままだった。
どこにでもありそうな風景を、なんのためにあるのかと問われても、結局とんと見当がつかなかった。
実はこの歌自体が答えになっていて、何のためにあるとかではなく、そもそも自然とはそういうものなのなのだという。
その答えに手ごたえを感じないまま、どうも納得がいかず、いつものおじさんに、こんな答えでいいのか?と尋ねてみた。
おじさんは、答えはそれぞれにある、だから禅問答なんじゃないかい?と返してきた。
答えはひとつではない、言い換えれば、正解はそれぞれのこころに。
あ!不意を突かれた。なるほど、そうかと、胸につっかえていたものが外れ、「青頭巾」という文字だけが僕のこころに残った。
石川淳「新訳雨月物語」
雨月物語ものの中では、一番読みやすい。
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新釈雨月物語;新釈春雨物語 (ちくま文庫) |
石川 淳 | |
筑摩書房 |
岩井志摩子「雨月物語」
ご存知、エロホラー作家。
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雨月物語 (光文社文庫) |
岩井 志麻子 | |
光文社 |
山口椿「雨月物語」
物語は言うに及ばず、この作家自身のキャラがすごい。
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雨月物語 |
山口 椿 | |
小学館 |
※室生犀星版は、青空文庫で。水木しげるなどにも『雨月物語』はあるが、「青頭巾」は含まれていませんでした。
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