栗太郎のブログ

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永徳寺の秘仏、62年目の千手観音様のこと

2010-12-05 21:13:05 | 見聞記 栃木編

先日の11月28日、日曜日。
下野三十三観音札所のひとつ、市貝町の永徳寺で、62年振りにご本尊のご開帳があった。
前回のご開帳といえば、昭和23年のことになる。
ほんとは60年目の一昨年に御開帳のはずだったのだが、その年は、ここの自治会がたまたま地元鎮守社のご祭礼当番にあたっていた。
一年間にふたつものお祭りを負担するのは大変と、2年後にずれて今年となった次第。

さて、ふだんの永徳寺は、観音山の山頂に残る小さなお寺。
弘仁6(815)に徳一大師が開いたといわれている。
徳一といえば、平安時代のはじめ、京より会津にやってきて仏教を広めた高僧。
その徳一が磐梯山のふもとに慧日寺を開いたのが大同2(807)のこと。
それから、慧日寺を起点に東北や関東北部にひろく布教をしたその活動のひとつとして、この寺を建てたのだろう。

中世においては、この地域でも合戦は絶えず、この観音山にも城郭があった。
地元の永山家に残る文書によると、平安末期、ここの城を治めていたのは平家方の将、平宗清らしい。
文治3(1187)、頼朝の平家追討の命を受けた梶原景時等の軍勢に攻められ落城し、全員が討ち死にをしたという。
文治3年といえば、壇ノ浦の2年後、奥州藤原氏征伐の2年前。義経が逃げ回っていた頃のこと。
地方ではまだ平家の勢力が残っていたのか?ともおもう。
おまけに平宗清というのは、かつて頼朝が幼少期に捕縛されたとき、池禅尼とともに助命を願った武将であった。
本人か?と気になって調べてみても、宗清本人の生没年は不詳だし、そもそも助命の一件以外は歴史の表舞台から消えている。ために真偽のほどは不明。
のちの時代に、家康が源氏を名乗り、信長が平氏を名乗ったように、おそらく、「平姓を名乗った同名の他人」なんじゃないのかなと想像するのだが。

その後、記録があるのは室町時代の永和4(1378)。
益子氏の一族、村上新助良藤によって築城とある。村上氏3代、50年にわたり居住した。
益子氏は芳賀氏とともに、「坂東一の弓取り」とうたわれた宇都宮氏の重臣である。
その祖を紀氏にさかのぼる益子氏と、清原氏を祖にする芳賀氏は、ニ家あわせて紀清両党とよばれていた。
彼らは、『戦場で命を捨てること塵芥よりもなお軽』いほどの剛勇さで恐れられていたといわれる。
つまりこの頃、日本一の怖いもの知らずで戦上手の猛者どもがこの一帯に住んでいたのであった。
裏返せば、多くの猛者が育つほど、それだけ激しい紛争地域だったということだろうか。

江戸初期にもなると、慶長10(1605)には、領主・千本義貞が修復した記録がある。
千本氏は、かつての那須七騎の一氏。那須与一の兄、為隆にはじまる系譜。
しかしその那須一族は、一ノ谷合戦の与一のさわやかなイメージとは裏腹に、一族内の抗争に明け暮れた。
その傍流千本氏は、謀略を尽くしたすえに戦国時代をも生き抜き、徳川幕府の旗本として明治維新を迎えることになる。



さて。
こちらが、観音堂です。






ご本尊の手に結ばれた紅白の紐が、柱まで繋がっていた。
柱に触れることで、ご本尊に触れたことになる、ということでしょう。
午前中にあらかたの行事は済んでしまい、僕が行った時刻は片付けが始まった頃でした。
おかげで、のんびり参拝ができて好都合だった。

この、唯一江戸時代から今に残る観音堂は、元禄年間、千本大工として名高い12代長野万衛門知重が建立したと伝えられている。
万衛門の住まう田野辺村は、観音山を越えた北側の盆地。ごくごく近い。
万衛門宅は、その中心部に坐してあり、さながら村の長の印象を受ける。
もし、その盆地を平城に例えれば、観音山を含む峠は大手門に当たり、万衛門宅は本丸のよう。
ついでに言えば、その鬼門には慈眼寺がある。昨年末の日記に書いた、ご先祖様の菩提寺である。
こうしてみると、かつて強い結びつきでまとまった、いち集落の景観がうかがえる。



正面の厨子に収まるのがご本尊。 左脇には、お前立の観音さま。






今回ご開帳されたのが、ご本尊の千手観音さま。県の有形文化財指定である。
ご開帳案内のチラシによれば、高さ172cm、肩幅43cm、ヒノキ材、彫眼、素地像。
その作風からして平安時代中期頃の行基の作といわれている。
ちなみに行基は、東大寺大仏の建立にも尽力した奈良時代の高僧である。

・・・あらま?

ここで、時代的に矛盾がないかな?
奈良時代の行基さんの作った仏さまが、どうして平安時代のものなのだろう?
だいいち、ほんとに行基自身がこんな大きな仏さまを彫ったのか?
そもそも、本人が東国にきたことはあるのか?
たぶん、「東国の行基」と呼ばれた徳一の、『行基』の部分だけ口伝で残ったのではあるまいか。

明治に入ると、廃仏毀釈の時流には抗えず。観音様のお姿は荒れて、腕は欠け、身は傾き、無残な姿で放置された。
時代に取り残された悲しげなモニュメントと化していたのだろう。
長い間、損傷が激しく朽ちるがままままだったご本尊は、当時の町長さんの尽力により、平成3(1991)東京芸大で修復してもらった。
おかげで、今回のご開帳で拝見させていただいた観音さまは、とても美しいお姿に生まれ変わっていた。
もっとも、過去に残る写真と比べると、綺麗になりすぎた感がしないでもないのだけども。
まあ、そこはいいとしましょう。

ふだんでもお目にかかれる御前立の千手観音様は、鎌倉時代中期のもの。
高さ177cm、肩幅48cm。こちらだってじゅうぶんご立派な仏さまである。
こちらも、平成4(1992)東京芸大にて修復してもらった。


あらためて、お前立(左)と、ご本尊(右)。                

  



いちおう、お約束のスケッチも。



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