高橋由一、たかはしゆいち。
恥ずかしながら、その名前をしかと意識したのは数年前。県立美術館が館の40周年を記念して、由一の「驟雨図」を購入したというニュースだった。
記事を読んではじめて、ああたしか教科書に載ってたあの「鮭」の人か、と気がついた。
これです。→ 明治10(1877) 東京芸大所蔵
知っていたとはいえ、だいたい、あんな吊るされただけの鮭の油絵の何がすごいのか、若い頃の僕には解せなかったのだった。
そしていま、県立美術館で開催中の「日本近代洋画への道 山岡コレクションと高橋由一の名品を中心に」 で、
世にある3匹の・・、もとい、3枚の「鮭」の絵のうち、上の1枚を除く2枚が仲良く並んで展示されているのです。
(バーチャルツアーで雰囲気が楽しめます)。
そも、高橋由一とはどのような人物か。
由一は、江戸も末期に近づきつつある文政11(1828)、下野国佐野藩で剣術師範だった高橋家の嫡子として産まれた。
幼い頃より絵が上手で、2歳の時には筆をとって人の顔を描いたという。
9歳で、藩主・堀田正衡の近習を勤めるようになり、のちに近習長にまでなったというのだから、非凡であった。
病弱だった由一は、家業を継がず絵の道に進むことを許されたものの、藩士としての勤務は続き、幕府の洋書調所の画学局に入局したのは30歳代も半ばのこと。
武術から芸術へ転身したとはいえ、厳格な家で育った生真面目な性格はそのままだったようで、画学局では教師相手でも正論を通し、「大邪魔者」扱いされたという。
その気質は、丁髷姿の自画像によく表れている。
慶応2(1866)頃 (笠間日動美術館所蔵)
視線を合わせたら絶対に外さなそうな目、嘘は嫌いですと言ったあとのようなキュッとしまった口元、浅黒くて引き締まった薄い皮膚。
容貌からも、スッポンのようなしつこさがにじんでいる。いや、実際スッポンによく似ている。
たぶん、意見が合わない人間にとってはめんどくさい人だったような気がする。
逆に、その頑固さは仕事の上では、この上ない信頼感になる。
ストイックなアスリートを思わせるその容貌は、まあ妥協の「だ」の字も存在しないのだろう。
その一例が、かの「花魁」の絵だ。
明治5(1872) (東京芸大所蔵。ただし、今回は展示なし)
西洋化がすすむ時代、江戸の風俗を後世に残そうとして、その写実性を買われて依頼を受けたのだろうか。
モデルは、鼈甲の簪をいくつも挿して豪華な衣装で着飾った、花魁の小稲。
おそらくこんな顔だったのだろう。間違いなく、よく描けているはずだ。
だけど、当時の人が見慣れていた浮世絵の美人画といえば、いまでは扁平なイラストにしか見えないものだったのだが、当時はあれが良しとされていた。
そんな江戸の人が、この絵をはじめて目にしたとき、どれほどびっくりしたのだろうと想像してしまう。
当の本人・小稲も、のっぺりした美人画の完成を期待していたはず。新しい技術なのだから、さらに「美人」に描いてくれるものと。
それがこの絵だ。「あちきはこんな顔じゃござんせん!」と、泣いて怒ったという。
写実、というよりもデフォルメされているように感じたのだろう。なにせ、どこか薄気味悪く、まるで絵金の描く絵のような暗さなのだから。
ともかく、その後。
画学局にいたところで満足な上達もできず、直接西洋人に教えを請いたいと願っていた由一が出会ったのが、イギリス人のワーグマンだった。
ワーグマンは、『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の外国特派員として中国経由で来日してきた、いわば報道画家だった。
由一は、ワーグマンの絵を見て感動し、その後、江戸から横浜まで歩いて通ったという。
ワーグマンいてこその、その後の由一、その後の日本洋画界といえよう。
しかし当時は、イギリス公使館のあった東禅寺(品川)が襲撃されたり、薩摩藩士がイギリス人を殺害した生麦事件があったり、過激な尊攘志士がはびこる世情であった。
しかも彼は、その東禅寺襲撃のその夜に現場に居合わせている。とっさに縁の下に身を隠し、事件の一部始終を描きとめて本国に送っている。
ワーグマン「東禅寺浪士乱入の図」 文久1(1961) (日動美術館所蔵)
どこいかなる場所でさえ、外国人排除に気負った志士が剥き見の刀を振り回そうが不思議でない、当時の日本。
身の安全の保障がおぼつかないのは、昨今の中東情勢と変わりがないくらいだと思う。
そんな時代の日本に身を置いたワーグマンのモチベーションは、ジャーナリストの使命感だったのだろうか。
それとも、極東の歴史の転換期に遭遇している好奇心だったのだろうか。
ただ彼は、日本という国に惹かれたであろうことは間違いがなさそうだ。日本人女性を妻に迎え、日本語を話し、日本で生涯を閉じているだから。享年58歳。
ちなみに、僕が愛用しているスケッチブックは「ワーグマン」。勝手にうれしく思っている。
ほかに、しばし見惚れた絵といえば、
五姓田芳柳の「上杉景勝一笑図」 (明治23)
戦国武将・上杉景勝。
一般には、先代・謙信や、家老・直江兼続のほうが有名だけど、上杉家という大ブランドを統率し、徳川を敵にしながら戦国を生き抜けた才覚はボンクラではない。
あの時代に生きながら、生涯、厳格で無口だったという彼の生き方を思うにつけ、よほど自分にも厳しかった人だったと感じる。
その景勝が、唯一笑ったときがこの絵の場面なのだという。
景勝が脱いだ烏帽子を、飼っていた猿がかぶって真似をしたらしい。その様子を見た景勝は、つい頬をほころばせてしまった。
けして人には見せることのない笑顔を、愛らしい動物相手に許してしまったのかと、そう思うとちょっと胸につまるものがある。
渡部審也 「供待図」 (明治42)
説明がないので推測になるが、姿格好からして神官のようにも見えるし、お公家のお供か、どうか。
「供待ち」とは、お屋敷の門の脇にある、お供についてきた者の待合所らしい。
付いてきたであろうお供の、歩き疲れたかのような様子が、なんとも言えずいい。
この一場面から、いろんな想像を働かせてしまう。
川村清雄は、「双鶏の図」「パルスレイケン像」など。 (悔しいが、画像見当たらず)
たまらなく、うまい。どう表現していいか、言葉がでてこない自分を歯がゆく思わせるくらいにうまい。
ほかに、趣味人・徳川慶喜も「池畔風景」という油絵を描いていた。
狩猟を好んだ慶喜らしく、ダルメシアンとおぼしき猟犬も描かれている。鑑賞に堪えうる、素人の絵で終わってはいないところが、慶喜らしい。
結局、政治も芸術も、何をやらせてみたところで、この人は人並以上の才を見せるのだ。
などなど、ほかにも期待以上に見応えのある数々だった。
とにかく、明治になって入ってきた西洋画の技術を、これほど成熟して表現してみせた当時の先達たち。
その思いを込めて、もう一度振り返って、鮭の絵を見直してみる。
今回展示の一枚。
膨らみが伝わってくる肉質感、鱗や札紙など細部にわたる緻密さと陰影、板の木目の鮮やかさ。
まさにそこに、鮭があるという錯覚を起こさせるほどの写実。
当時の人々が、この鮭の絵を目の当たりにして、間違いなく、なんて本物そっくりなんだと感嘆したはずだ。
TVに映ったミニスカートの美女を画面の下から覗き込むような輩と同じように、たぶん、絵を下からや横からもながめて、半身の後ろ側が見えるのじゃないかと探った人もいたと思う。
はたまた、本物を押し潰したものじゃないかとか疑った人もいたと思う。
そして、ようやくこれが西洋画というものなのかと確信したとき、つぎにやってくる感想は、涎をたらしながらの「美味そうだ」の一言であったのは間違いないだろう。
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