東風(こち)は、春の季語という。
さわやかに新緑の香りを運んでくれる春の風がよく似合うところと言えば、福岡の大宰府だろう。
だからJ君が、5月、どこ行こう?と聞いてきたとき、「福岡!」と即答した。
昨年すでに弾丸日帰り鹿児島体験を済ませているせいか、もう、遠出の日帰りを躊躇するような僕ではなかった。
それは、もうひと月以上も前の5月21日のこと。
いつもの3人で夜中の3時に家を出て、黄土色の満月を横目に成田へ向かった。
6時のフライト、福岡には8時。
飛行機嫌いの僕とJ君だが、窓の外さえ見なければ、僕はもう恐さは随分と減ってきている。
だけど飛行機を降りたJ君は、相変わらず手のひらをべっとりとさせていた。ヘタレだ。
まだまだ朝のうちと言っていい9時前にはもう、僕らは大宰府に着いていた。
かつて朱雀門があったとされる場所に、門の礎石が移設されている。重さなんと7.5tもあるという。
手前は、筑紫の国に赴任してきた柿本人麻呂が、海路において作った歌。
「大君の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ゆ」(万葉集巻第三・304番)
(大君の遠く離れた政庁として通い続ける海峡を見ると神代の昔かと思われる)
人麻呂の時代でさえ、神代の時代は遠い遠い昔話なのだな。
朱雀門だけに、ここは政庁の南。当然、ここから北、大宰府政庁は正面にある。
その向こうにあるのが、大野城のあった四王寺山。
政庁跡に立ち寄ると、すでに、社会科見学のような中学生くらいの集団と、これから一仕事だと張り切っている観光ボランティアの人たちがいた。
今は何もないこの場所に、かつて「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、西日本随一の繁栄を誇った都があったのだ。
ただただ広い。空が大きい。
昼下がりにでもなれば、大勢の家族連れでにぎわうのだろうか。
シートを敷いてお弁当を食べたり、キャッチボールそしている風景がよく似合いそうだ。
なんならここで野外ライブでもできるんじゃないか?・・・と思った瞬間、思い出した。
ああ、ここだ!、ももクロが男限定のライブをしようとして物議を醸したのは!
個人的には、男だけっていうのもいいじゃないか、と思う。
他のアーティストだってやってるし。それに文句があるのなら、あとから、女だけってのもやればいい。
史跡でやるなんて、っていう反対意見もあるが、とっくに必要な発掘調査は終わってるのだし、建売住宅の分譲にするわけでないし、終われば現状復帰するんだし、これだけ広々とした平地は有効利用すべきだと思う。
それをきっかけに、ここってなにがあったの?って興味を持つ入口になれば万々歳だと思うだが。
正面の低い石段を登った場所には、政庁の南門があった。
基壇の石の大きさを見てもわかるように、ここにあった南門は威容を誇っていたようで、高さ18.2m、正門5間(21m)、奥行き2間(8.2m)の大きさだったらしい。
二階建ての入母屋造りの屋根をのせ、正面入り口には3カ所の扉があったと推定される。
振り返って、朱雀門方向を望んでみた。
この位置からだと、たぶん、南門の開かれた扉ごしに、左右に並ぶ官舎か官僚の邸宅のような建物が整然と並んでいたのだろう。
そう想像しながら、頭の中でCG処理をしながら、その風景を脳内補完していた。
もともと、大宰府の整備がはじめられたのは、天智2(663)、白村江の戦いのあと。
同盟国の百済を助けるべく兵を出した日本は、唐・新羅連合軍に散々に負けて帰ってきた。
唐と新羅が勢いに乗って日本に押し寄せてくることを恐れた天智天皇は、この周辺に防衛施設を次々と作って防御を固め、敵国の進出に備えた。
もともと僕はずっと、日本政府の出先機関である大宰府が何で内陸になるのか不思議だった。
海岸線ちかくにあったほうが、便がいいはずだろうにと思っていた。
事実、6世紀のころまでは、倭国の玄関口は那の津(福岡市内、那珂川の河口付近らしい)であった。
だから僕は勝手な想像を膨らませ、海岸線は災害が多いからだとか、もしくはかつてはもっと内陸寄りに海岸線があったが海面が下がり沖に向かって海岸線が移ったのだとか、そんなことを考えていたのだった。
なるほど、大宰府はそうしてできたのか。ちょっと僕には意外な事実であった。
たしかに、異国と緊張状態にある場合、海の近くに政府機関があったのでは無防備に生肌を晒しているようなものだ。
いわば、危機管理上の理由で、天智天皇は飛鳥にあった都を近江に遷したのと同じ心理で大宰府を整備したのだ。
異国の脅威はいつまでも続くわけではなく、奈良や平安の時代にもなれば、東アジアの玄関口として、軍事はもとより、貿易、外交の拠点として大宰府は栄えることとなる。
ただ、貿易品の荷受港は、やはり博多津にあり、そこは鴻臚館(こうろかん)と呼ばれ、迎賓館の役割も果たしていたようだ。
『泣くな道真』の中では、大宰府の出先機関として関税機能を持った役所のような役割で描かれていた。
そして、この周辺に街を成し、唐や宋の商人と日本の上人の私的交易の市場のような賑わいを見せていた。
おそらく、当時の実態も、おおかたその通りであっただろう。
大宰府の長官を、帥(そち、官位は従三位)という。
ちなみに、藤原時平との政争にやぶれ左遷させられてきた菅原道真の役位は、権帥(ごんのそち、副長官)であった。
帥はたいてい遙任(直接赴任しない)で、実務は帥の補佐役である大弐(だいに、官位は従五位の上)が行っていた。
若き平清盛も、この役職で赴任している。このときの清盛にとっては昇進人事であった。
しかも、この役職には旨みがあった。宋との貿易による利益を独占できたからだ。
そして、都までの瀬戸内海の制圧権も得て、地方武士とのつながりを強固にしただろう。
こうして財力と勢力を伸ばしたこの時の清盛の働きが、のちの政権の基盤固めに大いに役立ったわけだ。
現在、政庁跡のすぐ東に、大宰府展示館がある。
発掘時の出土品の展示のほかに、地下遺構がそのまま保存展示されていた。
大宰府を知るには、ここでしか販売していない『目でみる大宰府』(財団法人古都大宰府保存協会、発行)がわかりやすい。
記述内容は、中学生の補助教材のような作りなのだが、地元ならでは的確さを感じ、手元の一冊持っておきたくなって買った。おすすめである。
政庁跡の入り口にあった案内板には、「平安時代の末期にはその役割を終え、田畑と化していた」と書かれていた。
江戸時代ならまだしも、平安末期にはすでに都市としての役目が終わっていた?、と僕は驚いた。
田畑ってことは、廃れてしまっていただけではなく、無法地帯となっていて近所の住民が勝手に作物を植えていたってことだと解釈していいのか?
その疑問が解けるかと、あとから、『目でみる大宰府』で確認してみた。
どうやら、政庁付近が農地化されていたのは本当のようだった。
中央政府の出先の行政機関としての役目を終えた大宰府は、都市の中心が、ここから東寄り、天満宮の方へと移っていったらしい。
だいたい、大宰府政庁が今の状態になったのがいつのころなのか、はっきりともしてないというのだ。
しかし、南北朝時代に南朝の征西府がおかれたのも、室町時代に九州探題がおかれたのも、大宰府だったらしい。
戦国時代になっても、大内義隆が大弐の地位の就任を望んだというのだから、大宰府の権威は生きていたことになる。
ただ、律令国家の時代なら政務を行う役所、政庁が必要だっただろうが、のちの時代になれば、ただ「権威」だけが残ったのだろう。
すぐ近くの観世音寺に。
参道をまっすぐに進むと、講堂に行き当たる。これは江戸時代初期の再建。
観世音寺の創建は、斉明7(661)に筑紫の地で亡くなった母・斉明天皇の菩提を弔うために、天智天皇によって建てられた。
斉明天皇も、百済への出陣の途中のことだった。当時の日本は、それだけ百済とのつながりが深かったのだ。
80年もの歳月をかけて(746)に完成し、方三町(約324㎡)の寺域をもち、講堂、金堂、五重塔などの七堂伽藍を整えた大寺院だった。
天平宝字5(761)には、ここに、僧尼に戒律を授ける「戒壇」が設けられた。
奈良時代、戒を受けなければ正式な僧尼と認められなかった。つまり、国家試験のようなもの。
戒壇院が設けられたのは、都があった奈良、東国は下野薬師寺、そして西には観世音寺、の三カ所だけで、当時、西海道と言われた九州一円の僧尼はここで戒を受けた。
「府の大寺」とまで呼ばれた観世音寺も、その後、幾度もの火災に遭いながらもその都度再建を繰り返しながら、鎌倉時代までは九州を代表する大寺院であった。
本堂前には、天平のてんがい(石うす)と、謡曲「道明寺」ゆかりの木げん樹(もくげんじゅ、げんは木偏に患う)。
この木の種子は、数珠の玉に用いられるという。
五重塔の心礎。そうは言っても、なかなか五重塔のイメージがわかない。
昭和34(1959)の開館された宝蔵で、お宝を見学。入場料500円。
階段で2階にあがると、高い天井のワンフロアになっており、16体の仏像が悠然と並んでいた。すべて重要文化財。
金色の木造仏・不空羂索観音、十一面観音、馬頭観音、どれも5m前後の巨大仏だ。坐像の聖観音も3mを越す。
ほかには、トバツ毘沙門天。中国の商人しか見えない、袋を背負った大黒天の像もあった。
ショーケースの中には、小野道風の書による扁額があった。
道風と言えば、平安時代、「三蹟」とまで謳われた能書家である。
なんの縁があるの?と不思議に思っていたら、なるほど、道風の父・小野葛絃大宰府大弐を務めていたのだ。
ちなみに祖父は、閻魔大王と知り合いだという小野篁だ。
小野妹子を祖にもつというこの一族は、地方任官の役人も多く、また血筋なのか書が達者のようだ。
武人もいて、道風の兄・好古は、藤原純友による承平天慶の乱の追捕使として派遣されて鎮圧した人物だ。
小野小町も同族だといわれるが、これははたしてどうか。
観世音寺の西側に、戒壇院。
天平宝字5(761)、観世音寺に、僧尼に戒律を授ける「戒壇」が設けられた。
本堂の中では、住職さんがお経をあげていた。対峙するのは、盧舎那仏と文殊菩薩・弥勒菩薩。
本堂内戒壇の下には、天竺(インド)、唐(中国)、大和(奈良)三国の土が収められているという。
戒壇院は、中世に廃れ、江戸時代に禅宗の寺として観世音寺から分離独立をしたらしい。
なるほど、だから本堂前には禅寺庭園の趣きがあるのだ。
境内のはずれに五輪塔があったので看板をみると、鑑真和上の供養塔だった。
左の宝篋印塔は、裏に「奉納山崎勝重、天明七年(1787)」とあるが、鑑真和上の隣に並ぶことができるほどの山崎という人物は、だれか?
そっちのほうが気になる僕でした。
(つづく)
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