栗太郎のブログ

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弥生人の祈り ―東国の再葬墓― @県立博物館

2013-11-17 00:20:43 | 見聞記 栃木編

先日。発掘調査に携わる知人から、一枚の招待券をいただいた。
それは、県立博物館でやっている「弥生人の祈り -東国の再葬墓-」。






まず、そのタイトルにある「再葬墓(さいそうぼ)」とは、なにか。
「遺体を白骨化させたあと、その骨を土器などに入れて埋納する葬法」という。
もう少し言い直すと、土葬、鳥葬などで一度葬った遺体が骨になってから、焼いて、その一部を土器などに入れてあらためて埋葬すること。

では、なぜそんな二度手間をしたのか。
理由は二つ考えられるようで、ひとつは、先祖の仲間入りする通過儀礼ではないかという見方。
縄文人が生活していくなかでも、成人への儀式として入れ墨をしたり、抜歯をしたりする習慣をもつ集団はほかにある。
おなじように、死んだあとの儀式として再葬をするのではないかという推理らしい。
もうひとつは、近所の集落同士の関係維持のためではないかという見方。
もともと集落というものは大人数では運営しきれないので、人口が増えるに従い、だんだんと分派していく。
それは三内丸山遺跡で僕も知った。あそこは、集落の運営人口のマックスが500人だった。
それ以上ふえると、集落近くだけでは食料を調達しきれなくなるのだ。
だから、分かれて(たぶん、次男坊とか三男坊とかが寄り合って)別の場所に集落を形成していく。
つまり、近所の集落は同じ先祖をルーツの持つ同族、というわけだ。
その分かれた近所同士の集落が、同族意識を確認する行為として、共同埋葬をしているのではと考えられるらしい。

なるほど、と思いながら、勝手に個人的な憶測を膨らませると、
まず、当時の火力では、水分を多く含んだ遺体を焼ききれるほどの焼成能力がなかったので、白骨化して燃やしやすくなってから、処理したのではないかと想像する。
そうすれば、遺体も小さくなって場所をとらない。
縄文後期晩期には、この葬法がかなり行われていたという。つまり、人口が増えてしまったために、お墓(遺体の処理)に困ったのだろう。
また、骨を入れた壺には、人面などのデザインが施されているものもある。「人面付土器」と呼ばれるものだ。
そういう装飾された土器をつくるようになった背景は、集落生活が熟成されてきた証拠じゃないだろうか。
つまり、生きていくことがやっとの時代が過ぎ、生活にゆとりがうまれてくるようになると、人は、芸術を楽しむ時間を持つようになる。
それが、この埋葬に使われる壺をつくる状況においても、装飾をするという工夫へとつながったのではないかと勝手に想像してみる。
もともとこの人面付土器のような、土器に顔をつける習慣は、縄文中期、山梨・長野などの中部高地周辺で発達したらしい。
縄文後期・晩期の東北や関東になると、注口土器(チュウコウドキ)や深鉢形土器(フカバチカタドキ)に顔をつけたものがみられるようだ。
これらは、弥生時代になって再葬墓が広まるにしたがい、同地域に発達していくが、弥生中期末期までにはほとんど姿を消している。
その背景として、この時期は青銅器をはじめ、方形墓や環濠集落といった新たな文化が西日本から東日本に急速に伝播したことが考えられるらしい。
新進の異文化に取って代わられた生活習慣、といったところか。明治はじめや昭和の戦後に西洋化が進んだ日本と、おなじようなものだろうか。

図録のプロローグには、弥生時代にはいっていく日本を、
「生活様式が、~水田稲作を基盤としたものに変わっていった時代、~最終的には北海道と沖縄を除く地域までに広まりました。」とある。
裏返せば、北海道と沖縄は、依然、縄文時代のままだということ。
たぶん、水田稲作文化がそこまで伝播しなかったのではなく、水稲耕作文化を受け入れなかった縄文人が、半島や大陸からやってきた渡来人(弥生人)に追いやられ、
海を渡って、ようやく北海道と沖縄だけを住処として暮らしたということ。 
完全に個人的憶測かもしれないけれど、僕はそう信じている。その思いを強くしながら会場をあとにした。



ロビーには、昨年鬼怒川で見つかったクジラの化石のレプリカが展示されていた。







玄関前には、化石をクリーニングする小さな工房がある。
ここに来た子供たちの中から、こういう作業を眺めてときめいて、化石好きが育つんだろうなあ。




工房入り口のパネルを見ると、当時の日本の海岸線は、現在の日本列島の形状とはほど遠い。
そして当時の栃木といえば海のまっただ中だった。
そりゃあ、鬼怒川でクジラの化石が発見されたって不思議ではないのだな。



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