2016.1.15 紫天の独唱によせて詠める歌一首。

エルサレム
鷹舞いあがる大空の群青の果て
我も行くなり。

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h。28.3.25

2016-03-25 20:11:16 | メモ
存在としての現存在は生きかつ死ぬが、実存は死を知らず、みずからの存在に対して高揚か没落かという仕方で関わっている。現存在は経験的に現存し、実存はただ自由としてのみ現存する。現存在は全く時間的であり、実存は時間のうちにあって時間より以上である。私の現存在は、現存在のすべてでないかぎり、有限であるが、しかしそれ自身で自己完結する。実存も独立に存在せず、すべてではない。なぜなら実存は他の実存と関係し、超越者と関係するときにのみ存在するからであり、絶対他者としての超越者を前にして、自己自身のみによって存在しているのではないことを自覚するからである。だが現存在が際限のないものの相対的な完結として無限なるものと呼ばれうるのに対して、実存の無限性は開かれた可能性として完結のないものである。
(上記の青はキルケゴールと同じ思想である。)
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h.28.3.15

2016-03-15 20:07:30 | メモ
実存は主観性と客観性との両極のうちに現存在として現象するものである。しかし実存は、対象としてどこかに与えられていたり、観察のために基礎的なものとして推論されたりするような或るものの現象ではない。実存はただ実存自身と他の実存にとってのみの現象である。
したがって私の現存在が実存であるのではなく、人間現存在において可能的実存である。現存在は現存するか現存しないかのいずれかであるが、実存は可能的なものであるがゆえに、選択と決断を通して、みずからの存在に向かって進むか、それともその存在からそれて無のうちに退くかのいずれかである。私の現存在と他の現存在の間には世界存在の狭さと広さという範囲の相違があるが、しかし実存はみずからの自由の根拠に基ずいて他の実存とは本質的に相違する。
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h.28.3.10

2016-03-10 20:20:12 | メモ
実存の可能性から私は生きる。実存の実現においてのみ私は私自身である。私が実存を把握しようとすれば、実存は私から消え失せる。実存は心理学的な主観ではないからである。私がみずからを客観化して自己を素質や特質として理解する場合よりもむしろ実存の可能性のうちにある場合に、自己がより深く根差していることを私は感ずる。

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h28.3.1

2016-03-01 20:11:39 | メモ
それらのものはたとえ知られなくてもけっして無なるものではなく、認識されなくても思惟されうるものではあるだろう。
このことから、ことごとくの世界存在に対立して何が存在するか、という問いに対する哲学的な根本決定が生ずる。
それは、――現存在の現象のうちには――存在しないが、しかし存在しうるしかつ存在すべき存在であり、それゆえ、それが永遠的であるかどうかを時間的に決断する存在である。
この存在は実存としての私自身である。私が私自身に対して客体とならないかぎり、私は実存である。私が私自身と呼ぶものを見ることはできないが、私は実存において自身が他に依存しないことを知っている。
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