2016.1.15 紫天の独唱によせて詠める歌一首。

エルサレム
鷹舞いあがる大空の群青の果て
我も行くなり。

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h。28.3.25

2016-03-25 20:11:16 | メモ
存在としての現存在は生きかつ死ぬが、実存は死を知らず、みずからの存在に対して高揚か没落かという仕方で関わっている。現存在は経験的に現存し、実存はただ自由としてのみ現存する。現存在は全く時間的であり、実存は時間のうちにあって時間より以上である。私の現存在は、現存在のすべてでないかぎり、有限であるが、しかしそれ自身で自己完結する。実存も独立に存在せず、すべてではない。なぜなら実存は他の実存と関係し、超越者と関係するときにのみ存在するからであり、絶対他者としての超越者を前にして、自己自身のみによって存在しているのではないことを自覚するからである。だが現存在が際限のないものの相対的な完結として無限なるものと呼ばれうるのに対して、実存の無限性は開かれた可能性として完結のないものである。
(上記の青はキルケゴールと同じ思想である。)
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