2016.1.15 紫天の独唱によせて詠める歌一首。

エルサレム
鷹舞いあがる大空の群青の果て
我も行くなり。

h.28.4.15

2016-04-15 20:08:33 | メモ
慈悲深くもなく無慈悲でもなく無感動であり、法則性に隷属したり偶然性によろめいたりして、世界はそれみずからについては何も知らない。世界はとらえられない。けだし世界は非人格的に私にあい対し、部分的には説明されうるが全体としてはけっして了解されないものだからである。
それにもかかわらず、私は世界を別の仕方では知っている。そのときの世界は私に身近かであり、私はそのなかに住まっており、そこで安らってさえいる。その世界の法則性は私の理性の法則性である。すなわち私は私を世界に順応させ、私の道具を作り、世界を認識することによって安らっている。世界は私に語りかけ、世界のうちには、私の関与する一つの生命が息吹いている。私は世界に身をゆだね、世界のうちにいるときに全くくつろいでいる。世界はその小さなものや現前するものにおいて私にとって居心地のよいものであり、その巨大なものにおいて魅惑的であり、また身近なものにおいて無邪気なものであり、また遠方にあるものとしては私をそちらの方へと連れ去ってゆこうとする。世界は私の期待どうりの道を進まないが、しかし予想もしなかった実現や不可解な拒絶によって世界が私を驚かすときでさえも、私自身は没落のうちにありつつもなお世界に対する信頼を抱いている。

h.28.4.5

2016-04-05 20:04:38 | メモ
現存在の充実が世界存在である。可能的実存は、それみずからが現象する領域としての世界のうちにある。
知られたものとしての世界は疎遠なものである。私は世界に距離をもって立っている。悟性にとって知られうるものや経験的に学び知られうる物は、単にそのようなものとしては私を突き放す。つまり、それらのものは私にとって他者である。私はそれらに無関心であり、それらの現実的なものにおいては優勢な因果律にゆだねられ、妥当的なものにおいては論理的強制にゆだねられることになる。私はそれらのもののうちでは安全にされていない。なぜなら私はそこに私と親近なるものの言葉を聞かないからである。私がより決定的に世界を把握しようとすればするほど、他者として、ただそれだけのものとして何の慰めもない世界のなかで、私はますます故郷を喪失したように感ずるようになる。

h.28.4.1

2016-04-01 20:21:53 | メモ
現存在にとって可能的実存に基ずく行為は疑問である。なぜなら、時間のうちで己れの存立を保つための現存在の配慮は無制約者に逆らわねばならないからであり、この無制約者への道は現存在に損失をもたらし破壊に導くかもしれないから、現存在の配慮にとってはおぼつかないからである。その配慮は実存的行為を現存在みずからの存立のための諸条件のもとに置こうとしたがる。しかし可能的実存にとっては、現存在のそのような無制約な利用と享受は既に没落である。なぜなら、可能的実存はそれみずからの現存在の現実を、みずからが無制約的なものとして把握されるところの条件のもとに置くからである。それに対して、無制約的な単なる現存在の意志は、それの現存在が徹底的な挫折の現実としてそれ自らに明らかになるとき、絶望せざるをえないのである。

h。28.3.25

2016-03-25 20:11:16 | メモ
存在としての現存在は生きかつ死ぬが、実存は死を知らず、みずからの存在に対して高揚か没落かという仕方で関わっている。現存在は経験的に現存し、実存はただ自由としてのみ現存する。現存在は全く時間的であり、実存は時間のうちにあって時間より以上である。私の現存在は、現存在のすべてでないかぎり、有限であるが、しかしそれ自身で自己完結する。実存も独立に存在せず、すべてではない。なぜなら実存は他の実存と関係し、超越者と関係するときにのみ存在するからであり、絶対他者としての超越者を前にして、自己自身のみによって存在しているのではないことを自覚するからである。だが現存在が際限のないものの相対的な完結として無限なるものと呼ばれうるのに対して、実存の無限性は開かれた可能性として完結のないものである。
(上記の青はキルケゴールと同じ思想である。)

h.28.3.15

2016-03-15 20:07:30 | メモ
実存は主観性と客観性との両極のうちに現存在として現象するものである。しかし実存は、対象としてどこかに与えられていたり、観察のために基礎的なものとして推論されたりするような或るものの現象ではない。実存はただ実存自身と他の実存にとってのみの現象である。
したがって私の現存在が実存であるのではなく、人間現存在において可能的実存である。現存在は現存するか現存しないかのいずれかであるが、実存は可能的なものであるがゆえに、選択と決断を通して、みずからの存在に向かって進むか、それともその存在からそれて無のうちに退くかのいずれかである。私の現存在と他の現存在の間には世界存在の狭さと広さという範囲の相違があるが、しかし実存はみずからの自由の根拠に基ずいて他の実存とは本質的に相違する。