言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

隣り人になりますか?

2006-02-05 | 神の葉
昨日の十字架の二本の線の話でふと思い出したことが、またひとつ。去年のセントラルカンファレンス(在米日本人クリスチャンの集まり)で元宣教師だった方がこう言っていました、「私達は世の果てまでも、神様の愛を届ける使命がある。でも、地球をぐるっと一周廻って、今あなたの隣に居る人が、その世の果てかもしれないよ」と。では、横の線をずーっとのばしていくと・・・今日の私の隣り人は、誰なんでしょう?

(ここで、投稿記事を打つ手を止めて、近くにいた大先輩クリスチャンと「隣り人」論をした。)

まず、聖書辞典で“隣り人”を引いてみました。有名なものではマタイ19:19の「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ。」でも、隣り人って誰?もう一つはルカ10:29で、「しかし彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣り人とは、誰のことですか。』」おっと、ここにも私と同じ質問をしている人がいるじゃありませんか!しかも、自分を正当化しようとして、この質問をしているらしい。「でも、その隣り人が誰だかわからなきゃしょうがないでしょ。」とでも言いたげな・・・ そこで、イエスは“よきサマリヤ人”のたとえ話をされたのです。(ルカ10:30-37)強盗に襲われた瀕死のユダヤ人の脇を、3人の人が通り過ぎます。彼を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、彼等に忌み嫌われていたサマリヤ人でした。イエスは先の律法学者に質問を返します。「この3人のなかで誰が、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカ10:36)

「私がこの話を好きなのは、隣り人はただそこに居る人ではなくて、自分が相手に対してなるものだ、と教えてくれるところね」と大先輩。確かに。このたとえ話では3人とも隣り人になることができたはずだけど、自分からなろう!という選択をしなければ、自動的に隣り人になることはないんだな。

てなわけで、この投稿記事を書き始めたときの題は「隣り人は誰ですか?」だったんだけど、「隣り人になりますか?」に変えました。“Who?” じゃなくて “Be!” なんですよね。

“Would you BE the neighbor?”

2006-02-05 | leaves on GOD
Writing on vertical line and horizontal line of the cross yesterday reminded me of something else. I remembered a Japanese ex-missionary in South America who was one of the presenters at last years' Central Conference saying, "It is our mission to share God's love to the end of the world. But if you go all the way around the earth, 'the end of the world' may be someone right next to you." If so, then who would be my "neighbor" today if I stretch the horizontal line all the way?

(Here I paused from posting and had a good discussion on the "neighborism" with a mature Christian friend nearby.)

First of all, I looked up the word "neighbor" in the concordance. The famous text in Matthew 19:19 says, "Love thy neighbor as thyself." But who is the “neighbor”? Another verse was found in Luke 10:29, "But he wanted to justify himself, so he asked Jesus, 'And who is my neighbor?'" Hey, here's someone who had asked the same question! Plus, he was asking this question to "justify himself" as if to say, "I can't do anything about it unless I know who the 'neighbor' is!" Well...

Then Jesus presented the story of Good Samaritan. (Luke 10:30 -37) Three men passed by a dying Jew, a victim of mugger attack. It turns out that the one who ended up helping him was not the fellow Jews but the Samaritan who were despised by the Jews. Then Jesus answered the rabbi's question by another question, "What do you think? Which of the three BECAME a neighbor to the man attacked by robbers?" (Luke 10:36)

So my friend commented, "I like this story because it teaches us that a 'neighbor' is something for us to BECOME, not someone for us to find." Absolutely. In this parable, any of those three men could have been "the neighbor", but unless one makes a choice to BECOME one, it does not turn you into one automatically.

So you see, I changed the title for this posting from "WHO is your neighbor?" to "Would you BE the neighbor?" instead. It’s not "Who?" but "Be," right?

「博士の愛した数式」と十字架

2006-02-04 | 本の葉


いい本を読みたいなぁ、と願っていると本のほうからやって来てくれるものらしい。最近友達になった子も本虫さんらしいので、今まで読んだうちで一番好きな本は何かと聞いたら、即座に「博士の愛した数式」と教えてくれた。すると、昨日「渡したいものがあるんです」といってその本を私にくれたのでびっくり。(Aちゃん、送って下さったNさん、ありがとうございました!)早速、一気に読んでしまった。本の中は独特の世界で、そこでの時間の流れは緩やかで暖かく、それに身を任せるのは心地よかった。いつもは平気でしている斜め読みもおこがましく思え、連なるページを一枚づつ味わなければ勿体無い気持ちになった。私は、プロットに引っ張られる話より、あたかもどこかに実在しているような、でもそこにしかいない登場人物、そこに描かれた情景の雰囲気、言葉の選び方やそのリズムなど要素に惹かれるので、すっかりこの本にハマってしまった。読後、車を運転したのだが、現実の世界に戻ってきたのにまだ体がしっくりとせず、一瞬どっちの車線を走ったらいいのかわからないほどだった。(危ない、危ない。)

それは、80分しか記憶の持たない数学博士と彼の家政婦とその息子の物語。博士は、家政婦に直線を引かせて、こう語る・・・(以下抜粋) 「そうだ。それは直線だ。君は直線の定義を正しく理解している。しかし考えてごらん。君が描いた直線には始まりと終わりがあるね。・・・本来の直線の定義には端がない。無限にどこまでも伸びてゆかなけれればならない。しかし一枚の紙には限りがあるし、君の体力にだって限界があるから、とりあえずの線分を、本物と了解し合っているに過ぎないんだ。更に、どんなに鋭利なナイフで入念に尖らせたとしても、鉛筆の芯には太さがある。よってここにある直線には幅が生じている。面積がある。つまり、現実の紙に、本物の直線を描くことは不可能なのだ。・・・真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない。」博士は自分の胸に手をあてた。・・・「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目にはみえないのだ。」

そういえば私の胸の中にも、まっすぐにのびる二本の直線のイメージが、ここしばらくの間、あるのだ。それは十字に交わり、縦横に無限にのびている・・・ 先週の土曜日にクリスチャンの集まりで、十字架の縦の線は自分と神様との天へ向かうつながりで、横の線は自分と人との地上のつながりを表している、という話を聞いた。現実の生活という紙上に現れている線には限りがあって、それはとぎれとぎれになっているような気さえ、時々する。私の限界によって「とりあえずの線分」になっている。でも、胸の中の線のイメージはすぅーっとまっすぐにどこまでものびているのだ。何にも左右されない真実、それは縦と横にのびる線には切れ目もなく、終わりもない、ということなのだ。博士は私に教えてくれた。「神様の手帳」にはすでに真実が描かれていて、私達はそれを写し取っていくだけなのだ、ということを。

余談になるが、昔TVでこの本の著者の小川洋子さんを見たことがある。確か、爆笑問題の二人が司会する本に関する番組で、「大人の哀しみ」についてのトークをされていて、なかなか興味深かったのを覚えているなぁ。

見えないものが見えちゃう感性

2006-02-01 | 教の葉


先日「目から言の葉」を書いてから、数年前に教育実習をした時に小学校の生徒と交わした会話を思い出しました・・・

アートのクラスで色・形・線・デザインについて教えた後、休み時間になり生徒達は外に遊びに行きました。教室で後片付けをしていると、一人の生徒がまだ机に向かって何か描いています。

「先生、ちょっと来て見て。」

「なになに?」

「これ見て。笑ってるでしょ。」

そこには鉛筆で描かれたスマイルが。 :)

「うん、笑ってるね!」

そこで、彼は口の部分を消して、への字口を書き入れた。 :(

「こうすると悲しい顔になるよ。」

「うん、そうだね。」

内心、(当たり前だろう)と思っていたその矢先。

「おんなじ目なのに、口を変えただけで、目も悲しそうに変わるんだよね。」

「!!!」

白紙に描かれた点々の目。そこにある感情の違いがわかるとは・・・恐るべし子供の感性!

最近のクラスで、「教育の現場における私のAha!moment(目から鱗!エピソード)をシェアする」という宿題があり、迷わずこの話をしました。すると教授は「箱の中の羊が見えた星の王子様と同じね。」とコメント。そうですよね、彼も言っていたものね、「本当に大切なものは目に見えない。」これがわからなくてアートを教えたり、絵を描くことは傲慢なんじゃないかと思わされた出来事でした。また、子供の感性を失わせるような詰め込み教育はしたくないな、と痛感させられました。私達は大事な何かと引き換えに、この世の規律を学んではいないか・・・?って。私もこの生徒に気づかされるまで、:)の目の喜びや:( の目の悲しみが見えなくなっていたから。単なる記号になっていたから。描かれた目にも語る言葉があるんですよね・・・

Seeing the invisible

2006-02-01 | leaves on TEACHING


Since I posted “Speaking eyes” few days ago, I recalled a dialogue I had with my student when I was student teaching....

After teaching about color, shape, line, and design for an art class, kids went out for recess. One student was still drawing something as I was cleaning up.

“Miss M. Come and see this!”

“Whatchu got?”

“Look. It's smiling.”

There was a simple smiley face drawn by a pencil. : )

“I see, it's smiling.”

Then he erased the mouth and drew in a flipped arc. : (

“Now it's a frown.”

“Right.”

As I was thinking, “That's no trick.”

Then he said to me,

“Although these are the same eyes,
they look sad when you change the mouth.”

“ ! ! ! ”

Just two dots on a piece of paper. Seeing the difference of emotion there... That's pretty amazing sensitivity of the child.

Recently, we were asked to share “Aha! Moment” in our teaching experiences for one of the classes. I knew this was the episode. After sharing, the professor said, “It is like the Little Prince seeing the sheep in the box.” So true. He said too, “What is essential is invisible to the eye.” This experience taught me it would be arrogant for me to teach art or to draw if I forget seeing the invisible. I also realized we should not stuff children’s mind so much that they lose such sensitivity. Have we traded our innocence for the game rules to live is this world? I lost the ability to see the joy in : ) and sadness in : ( until my student reminded me that day. They had become mere symbols. Yet, drawn eyes also speaks....