酒屋さんであるお店の宣伝を兼ねて昭和51年から出されていた
新聞「ざとちもと」があります
酒屋の二代目として地元にもよそから見えるお客さんにも
親しまれて見えました
道が変わってもわざわざよってお酒を買っていかれるお客さんもあったと聞きます
独特の語り口飛騨弁丸出しが親しまれるのでしょう
その後長い闘病の末先日亡くなられました
ご葬儀には慕う方々で会場はいっぱいになりました
今回奥様のお言葉で最後の号が出されました
愉快なことが書かれていて
読むのが楽しみでしたファンはいっぱいだったと聞きます
一口に36年間といっても毎月とは大変なことだと思います
私にとってはバスケ部の先輩でした
安らかに眠ってくださいね
今頃はあちらでいっぱいやって見えるでしょうか
お写真では、まだお若そうに見えますけど、ご病気だったんですね。
ぐりさんのバスケ部の先輩だったと聞いて意外でした。
ぐりさんは、新聞部とか書道部とか文化部のイメージを持っていました。
そうですか・・・バスケ部でしたかφ(◎。◎‐)フムフム(笑)
すごいですねー。
ひだっちブログも覗いてみました。(9月まで。最後のお写真は赤福を食べているのでした)
ユニーク、でも真面目なお人柄のようですね。
もう新聞が読めないのは残念ですね~゜・_・゜~
わたしは、中学の時、代議員会で、議長などで活躍しておられたり
そろばん塾で一緒だったりした、ふたつ年上の先輩でした
いい人でしたね・・・・頭がきれ、ひとがらもよく
お宅とは、奥さんのほうの関係で、関係が深いよね
知ってる 知ってる あの新聞・・・・・・わたしも寄って
もらったことがありました
ほんと残念です。町にとっても、これから、もっともっと活躍して
ほしいひとでしたね。 ご冥福をお祈りいたします
はいまだお若いんですよ
でも長いこと闘病で頑張られました
お店のためとはいえ長いこと続けることは大変ですよね
毎月楽しみにしている人も多かったです
だいちゃん私は書道部は全然ダメです書くこと苦手ですもの
若いころは意外に(?)スポーツ好きでした
奥様に了解を取る電話した時
ご自分でもブログをやって見えたと聞きました
ひダッチのブログだったのですね
そうですユニークでまじめな人でした
新聞が読めないことはさみしいですね
そうそう生徒会の役などもして見えましたね
弁もたったし有能な人だったと思います
陸上などにも一緒でしたよね
私は高校でも先輩でした
これからもっと活躍してほしい人でしたね
今年はなくなる人が多かったような気がします
家は家族みんなお参りしました