イコールの橋 くれはやし・しゅん

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頂吉考

2005年01月28日 | 身辺雑記篇
私の友人に北九州市の小倉区のやつがおる。そいつが、住民票を見せて、私の住んでた(もう、すでに、ダムの底になってしまったが、昔の住民票を記念に後生大事に持っているのである)村の名前を読めますか、とのたまう。
なんや、「頂吉」かいな、「ちょうきち」やろう ? 簡単じゃん、というとニヤリとする。
これは、「かぐめよし」と読むんよ、とのたまう、勝ち誇って・・・。
日葡辞書=にっぽじしょ(戦国から江戸時代くらいの日本の言葉を収集して、まとめたもの)によると、【Cagumuru】(カグムル)<訳>ある物を頭にのせて持つ、持ち運ぶ。カミでは、イタダクという。と、あるので、音韻と意味がこれで一致したのである。頂くは、かぐむことである。カグムはちなみに、他動詞マ行下2段活用である。
元和のころの、「人畜改帳」を見ると、戸数は46戸くらい、人数は、112人である。明治になり、渋谷荒太郎という御仁が、銅山採掘の許可を得て、明治9年くらいから大正9年まで銅鉱があったとのこと。最盛期、1日当たり600斤、年平均21万9000斤を産出したとのこと。

角川版の「日本地名辞典」には、「頂吉(小倉南区)紫川の最上流域、福智山の東側に位置する地名は、頂石といわれる岩の集まりがあることに由来するという。(企救郡史)」とある。

私見を述べさせていただければ、「頂石」(かぐめいし)が、「かぐめよし」となったものか、それよりも、「かぐめいし」と「よしはら」という地名が混合して、「かぐめよし」というものになったように、私には思われるのである。
江戸時代には、福智山は、その東側は豊前小倉藩、西側は筑前領で、重要な要衝であった。その筑前と豊前の境界が「かぐめよし」であったのである。
思い出を語れば、高校時代には、私たちは、つまり筑前領の直方市(大関魁皇の故郷)側から、下駄で、福智山には登っていたものであった。私どもの頃は、そのような旧制中学時代の遺風が残ってもいたのであった。私の近くには、「怒縄田」とか「早米来」とか「駛馬」などの地名があるが、そうそうは読めないはずである。
以前、香月泰男さんの美術館に立ち寄ったとき、途中で標識に、「特牛」と書いてあり、「こっとい」とすらすらと読めたのは、日頃より、地名に興味をもっていたせいでもあるだろうと、一人納得したのであった。
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1 コメント

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Unknown (甚七)
2009-04-20 18:13:29
「頂吉」の検索で参りました。
興味ある記事なので、トラックバックさせていただきました。
よろしくお願いいたします。

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