きまぐれパラダイス

たどたどしい日常ですが

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施設のこと

2018年03月17日 | 日記

父は脳梗塞で脳の半分が死滅してしまい、右半身に障害を負いました。

脳は、高次脳機能障害になり、父の場合、子供に返ってしまったような感じでした。

障害者として生きることは なかなか理解してもらえないことが多くて大変でした。

見た目は車椅子の普通の老人に見えますし、会話も普通にできるので

脳は重症なのに理解してもらえなくて よく誤解されました。

時折、滅茶苦茶を言い出すので 対処も大変な訳です。


父が脳の手術を終えて 自宅での生活を始めて 最初にお世話になった施設(デイ&ショート利用・地元の特養)では

介護士さん達の理解が得られなくて さんざんお説教をされて追い出されてしまいました。

どんなに理解できたとしても、問題行動は困る訳ですので仕方ありませんが。


例えば、ショートステイ利用中、こんなことがありました。

夜中にベッドから落ちて、かなりの傷と出血、腫れがあったのに

「自分で勝手に落ちました」 と、絆創膏1枚と報告だけでした。


ベッドから落ちたのは 手元にナースコールがなかったからだと 父は言いました。

ナースコールがないので探すと、離れた所にあったので、それを取ろうと思ったのだそうです。

父は とんちんかんをやらかしますが、決して嘘はつかない人です。

それは 自分に不利なことも 正直に言ってしまうほどです。

けれど、施設側は 「そのような事実はありません」 の一点張りです。

父の勘違い で処理されてしまいました。


ケアマネさんに訴えても無駄でした。両方、町の職員だからです。

もしナースコールがなかったと認めてしまうと それはヤバいことのようです。

(ナースコールは必ず手元に置いておく決まりのようです。)

けれど父は たいした用もないのに鳴らしてしまう訳で

夜勤で人数が少ない所に これをやられると 本当に頭に来ると思います。

なので、手の届かない所に置かれてしまった可能性があるわけです。

もしもそうだとしても、私達家族は職員さんの気持ちは よくわかるのです。

ずっと見てきているので 充分理解できるのです。


私達の見解も 被害妄想の可能性は十分考えられますが

いくら勝手に落ちたとはいえ 少しもお詫びの姿勢が見られませんでした。

以来、「空きがない」と断られ続けたので、別の施設にお世話になることになったのでした。


次の施設は 最初の施設より感じが良かったです。

けれど やはりここも父の障害を理解しようとはしてもらえませんでした。

立ち起こる問題行動にばかりに振り回され、なぜその行動が起こるのかは考えてはいただけませんでした。


時折、父を連れて外出しましたが、車に乗り込んで出発した後

見送ってくれた職員さんのことを「あの人は感じの良い人ね」と言うと

「あの人は 口うるさいんだよ」 と本当のこと?を教えてくれました(笑)

「ああ見えて 結構キツイんだよ」とか、ちゃんと一人一人の特長をわかっていて

家族に伝えることができました(笑)

私も 決して 鵜呑みにはしませんでしたが、遠巻きに見ても思い当たる節があるので 頷けます。

まさか告げ口されているとはご存じないかと思われますが(笑)


実は、咋年の始めに 父は女性職員殴打事件を起こしてしまったのです。

父が頼んだ事を忙しくてなかなかやってくれなかったようで

頭にきて殴ってしまったとのこと。

当然父は こっぴどく叱られて、家族にも事務方から報告をいただきました。

父は、脳障害で何でも早くしてくれと言ってしまい

待つことが苦手で 家族ともよく揉めましたのでよくわかるのですが

それでも殴られたことは 病気になる前も後も一度もありませんでした。


すぐ、施設に謝罪に行きましたが、被害に遭われた人を教えてはもらえませんでした。

現場の職員さんがこっそり話してくれたことは、

被害に遭われた職員さんは けっこうキツイ物言いをする人だったようです。

職員の間でも問題視されていたようでした。

恐らく父は 早くしてほしいと訴えた際に、頭にくるようなことを言われたようです。

それでカッとなって 思わず手が出てしまったようなのです。

(事務方からは一方的に父が悪いように言われました)


それから外出して車の中で、どの職員さんを殴ったのか聞くと ちゃんと名前が言えました。

日頃から、ちょっとキツそうだなと思っていた人だったので 納得がいきました。

その女性職員に 「あんたのことは 一生忘れない!」 と言われてしまったと言って父は泣き出しました。

悪いことをしたということは よくわかっているのですね。

でもその時は 思わず手が出てしまったのでしょうね。

その女性職員さん、今はどうしているでしょうか。


介護施設の職員さんには 本当に頭が下がります。

厳しい労働条件のうえ安全管理に追われ 現場で余裕が無さすぎに感じます。

少しでも 職員さんも癒され 賃金が上がり 心からの笑顔でお仕事に向かえますように。

医療、介護、保育の、そういった議題が国会で白熱して論議なされますように。


いずれ私達もお世話になる身、これからの大介護時代を向かえ撃つために

私達はどうしたらよいのか 深く考えさせられたのでした。



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父のこと⑫

2018年03月15日 | 日記
とりあえず 父のことシリーズは ひとまず終了させていただきます。

また思い出したら綴らせていただきます。

父の おくりびと?ができて良かったです。

もう2度と会えないと思うとさびしいけれど

また今度生まれ変わって 父と出会った時、

大切な人だったことを思い出すことができますように。

今度はどんな設定になるでしょうか。娘かな、息子かな、それとも親かな、妻は嫌だな(笑)


お彼岸を前に こうして父を思い出すことができて 供養ができた気持ちになりました。

間もなく 桜も咲きそうですしね。あれから一年経つのですね。


父は 地位や名誉や財産は 何一つ残してはくれませんでしたが

父の娘として、介護をはじめ、いろいろな経験をさせていただけた事は 何よりの財産だと思っています。

経験はお金では買えませんからね。


もしご家族が入院されたりした時は、ご自身のことも同じくらいケアしてあげることを忘れないでくださいね。

私も うっかり父を中心に置いてしまい 7月に人生2度目の帯状疱疹になってしまいました。

自分のケアがおろそかになっていますよ、という呼びかけと受け止めて

以来 無理をしないことと、食事等、規則正しい生活習慣を心がけるようにしました。

私が倒れてはどうにもなりませんし、何より父がつらいと思うのです。

自分のケアとの両立こそが一番難しい所だったのかもしれません。

私の場合、母の送迎等、息子が時々協力してくれたので助かりました。

ピンチの時って 家族のありがたさが実感できるチャンスでもあるのですね。


私は 魂は永遠である と信じてきましたが半信半疑でした。けれど

父が亡くなってからの方が 父を身近に感じられるような気がするのです。

会えないさびしさはあっても喪失感はないかな。

子どもとして親を見送るというのは普通のことですものね。


最近知った曲を紹介します。

JUJUの「東京」

こちらは映画(「祈りの幕が下りる時」)の主題歌ですが(見てませんが)

注目すべきは、ミュージックビデオです。

映画本編とは異なる、まるで一本の映画を見ているような MV になっています。

是非ご覧になってください。

なぜ私がこのタイミングでご紹介したのかがわかると思います。

6分なので、歌詞よりも MV を ワンシーンもお見逃しないように!


合わせてご紹介したいのは、同じくJUJUの 「また明日..」

2011年のドラマ「グッドライフ」の主題歌だったそうです(見てませんでした)

こちらは歌詞に注目です!

聴きながら是非読んでみてください。

歌詞の主人公をドラマの主人公(幼な子を残して亡くなる)とリンクさせると

ものすごくせつなくなります。

こんな歌があったなんて知りませんでした。


いずれもティッシュをお忘れなきように。

ではどうぞ!



(張り付けができなくてゴメンなさい~(ToT))




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父のこと⑪

2018年03月14日 | 日記
8月23日 私が行くとベッドの柵につかまろうと身体を起こそうとしていました。

どうしたの?CD 聞きたいの? と聞くと やっと絞り出すような声で

 う ん め い と聞こえたので

やはり「運命の逆転」のCD が聞きたいのだと思って

イヤホンをしてあげて再生ボタンを押しました。

いつものように握手をして握力を確かめると いつも以上にしっかり握ってくる感じがしました。

長く握って離さないのです。

けれど、この頃はすぐ眠ってしまうことが多くなっていたので、

その時も間もなくすると眠ってしまいました。

しばらくベッドサイドにいましたが、帰る時間になってもよく眠っていたので

じゃあね、また明日くるからね とそっと声をかけて退室しました。



翌日、朝10時過ぎ、病院から電話がありました。急変の知らせです。

あいにく仕事中で そんな時に限って すぐ出向けない状況でした。

すぐ出ても30分はかかります。

母にも連絡が行って、すぐ行きたいのに誰にも連絡がつかないと言うので

タクシーで行くように伝えました。

それから私もすぐ病院に向かいましたが、

2度目の電話が来て、もう心臓が止まりそうです!、との事。

運転する車の中で 「待ってて、すぐ行くからね!」 と何度も祈っていました。

信号の待ち時間が とても長く感じられました。

通い慣れた見慣れた景色が いつもと違って見えていました。

あともう少しで着くからね、頼む、間に合ってくれ!


病院に着いて、車を停めて、走っていつもの病棟へ行きました。

ちょうど電話をくれた看護師長さんがいました。


「11時12分、息を引き取りました。眠るようにとっても安らかでした。m(__)m」


あ...ありがとうございました...( TДT)


私は深く頭を下げて師長さんの手を握りました。

なにも言葉が出てきませんでした。


時計を見ると、私の到着するほんの数分前に亡くなったのです。

私より少し早く到着した母も間に合わなかったそうです。

連絡が来てから1時間足らずのことでした。


家族に看取られることなく旅立って行った父。

最後のお別れをすることなく逝ってしまいました。

「とうとう死んじゃった~、間に合わなかったよう~」 と泣く母。

そうだね、残念だね。と娘。


処置をしているので、と しばらく対面まで待たされました。

待っている間にずっと考えていたことは

間に合わなかったということ。

私は親不孝をしたのだろうか。

父は私達が来るのを待っていたのだろうか?

最後、伝えたいことがあったのだろうか?

あの時ああすれば良かったのか?こうすれば良かったのか?

あとちょっとだったのに、どうして?

でももう現実は 間に合わなかった のです。


ぼぅっと考えながらふと思ったのは

私も母も間に合わなかったという事は

父は自分のタイミングで旅立ったのではないかと。

自分に都合の良い妄想かもしれませんが、

もしかしたら、ずっと前からお迎えが来ていたのに

父の覚悟が決まるまで待っていてもらっていたのではないかと。

寂しがりの父は 私達に会ってしまったら 決心が揺らいでしまうから

その前に自分から旅立ちたかったのかもしれない とも思ったのです。

私達にも 強烈な悲しみの印象を持たせないためにも

一人で大丈夫だよと安心させてくれるためにも

さらっと出かけて行ったのかもしれない

フーテンの虎さんのように。

(昔から父は 渥美清さんに似ているとも言われていました)

身勝手な妄想かもしれませんが。。。


それからようやくご対面になりました。

個室に移され、(本日は無料で良いそうです)

顔には白い布をかけられていました。


母は 「こんなのかけられてたら 本当に死んじゃったみたいじゃない!」

と言って外してしまいました。

私は 「だって本当に死んじゃったんだからしょうがないじゃない」

と半べそでツッコミを入れてみたりして。


お化粧が施されて、それが おてもやん みたいで 思わず笑ってしまいました。

まったく イタズラ天使のじいじ らしいではありませんか m(。≧Д≦。)m


「まだその辺にいるんでしょう?返事してちょうだいっ もう~(泣)」


母は、しばらく父に話しかけていました。



昨日は会えたのに、さっきまで息をしていたはずなのに

人生の卒業式は あっという間に訪れるものなんだなと実感させられました。


昨日握った手の感触がありありとよみがえってくるのでした。





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父のこと⑩

2018年03月12日 | 日記
さて、父も末期の療養病棟へ入れていただけるものだと思っていましたら

そこは 自分が末期であることを知っていること が条件なのだそうです。

なので、父はそこへは移れないと言うのです。( ; ゜Д゜)

その代わり、「ここは救急病院なので短期間しか居られないので

別の長期療養型の病院を紹介する」 ことになりました。

その為に きちんとした診断をしないとならず、精密検査をしてくれることになりました。

なんだ、この病院でもできるんじゃん、やってくれるんじゃん!

これで病名に おそらく ということはなくなります。


もう高齢で認知症なので検査はできないと言われましたが

大変おりこうに検査ができたらしいです。


撮れた画像を見ましたら 素人でもわかる惨状でした。

お医者さんが言っていたことはすべて本当だったと よく理解できました。

心臓の持病もあるので、もう いつ何が起こっても不思議はない状態 だと言われました。

ここまできてしまうともはや痛みは我慢する必要がなく、

痛みがあればどんどん痛み止めを入れるべきなのだそうですが

ありがたいことに 父は 「特に痛くはない」 との事でした。


そして、この病院の近くに受け入れ先が見つかり 5月末、そちらに転院となりました。


転院しても悪魔ちゃんは健在です。

仲間 を思いやる気持ちも健在でした。

隣のベッドの人が暴れて怒鳴っていても 

「ずいぶん元気があるなあ」と平気でした。


毎日のように理学療法士さんが来てリハビリをしてくださいました。

父はリハビリを楽しみにしていました。

元気になれると思えたからです。

時々微熱でリハビリをしてもらえない時は残念そうでした。

やはり直接、身体に触れてさすってもらえるというのは 

何よりの癒しになっていたのだと思います。

(手当てと言いますが、まさに手を当てることは重要なのですね。)

私達も行くたびに冷たい脚をさすってあげました。


7月になると さすがに痩せ細ってきて動作も緩慢になってきました。

それでも痛みを訴えることがないので 点滴は痛み止めの入らない普通の点滴でした。


痩せているのにだんだんお腹が膨らんできました。

腹水がどんどんたまってきているようです。

食事はほとんど喉を通らなくなりました。

それでも口から食べたがります。


お小水の出が悪くなってきたので、導尿の管が入りました。

これは痛かったらしく、何度も 取ってくれと言われてしまいました。

数日すると慣れてくれたようです。


この頃は本が読めなくなってきたので私は毎日 CD を聞かせてあげました。

私が来ると 耳栓 と言います。

イヤホンでCD を聞かせてくれと言うわけです。

色んなCDがあるなかで 私は父の大好きな高橋佳子著の「運命の逆転」の朗読CDを聞かせてあげました。

高橋先生本人による朗読なので、声が聞こえると

おお! と目を大きく開けて 動く左手で 親指と人さし指で丸を作って満足そうに聞いていました。

オッケー🆗のサインです。

子守唄を聴くように目をつぶって聞いていました。


7月のおわり頃、月イチで開かれる医者による病状説明の時に

「この夏は越えられないと思われます。親しい人を呼んであげてください」 と言われました。

以前にも 親しい人を呼んであげてくださいと言われていましたので ピンと来ませんでしたが

この夏が越えられない?いよいよ? まだ半信半疑の私でした。


8月になっていよいよ元気がなくなってきました。

この頃になると 毎回言われていた 「来てくれたんか、ありがとう(泣)」

も言えなくなっていました。

あくびばかり出て、どもりもひどく、声量もなく、

せっかく言おうとしていることも聞き取れなくなってきました。


見舞いにきたモト助も もういつ何が起こっても不思議はないねと言っていました。

そ、そうなのだろうか?


8月22日 月イチの説明の日がやってきた。説明を受けて、次回の予約を決めました。

私はひそかに 来月の説明会まで大丈夫、この夏を越えられないという先生の見立ては外れるのでは?と思っていたのでした。



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父のこと⑨

2018年03月11日 | 日記
私の可愛い悪魔ちゃんは いろんなことをやらかしてくれます。

意味のないナースコール ティッシュのお花畑

どんなことがあっても看護師さんは跳んできてくれました。


自分のオムツに手を入れて汚物をつかんでしまい

そこら中汚して 緊急風呂の刑になって

私は強烈な臭いのする 大量の洗濯物を持ち帰るはめになったり。


ひげそり(電気シェーバー)を取ってくれと言うので渡すと

あまりにいつまでもず~っと使っているので

「おもちゃじゃないんだから」と言って 取り上げようとすると

「おれにとっては おもちゃみたいなものだ」 と言う。


私の顔のほくろを指さして、それはなんだと言うので

「ほくろだよ。可愛いでしょ?(^_^;)」 と言ったら 「可愛いくない」 との返事。

「なんで?自分の娘なんだから ほくろだって可愛いでしょう?」と詰め寄ると

「可愛い」 と言ったけど

ふとさっきと違う答えが気になって どうしてか尋ねてみると

「ゴマすり」 (爆)

そんな配慮?がまだできるんだと笑いながら感心してしまいました。


それから、母が父に 「あとどれくらいで治るの?」と尋ねると 父は 

「皆さんの 祈り次第」 

と、すまして答えたので 私達は思わず大笑いしてしまいました。

もはや、たしかにそうなのですが 自分で言っちゃうんかい(笑)


またある時は イタズラ?が見つかったので

「悪いことしてると、もう来てやらないからねっ」 と怒ると

「おおこまり(大困り)」と言う。

なんだそれ、新語か?(笑)


そう、この頃も じいじ(父)は新語を作ったり ことわざのようなものをよく言っていた。

「もうひげそりは 終わりだよ」 と言えば

「おわり(尾張)名古屋は 城でもつ」 とか さらっと言うので

よくそんなこと知ってるな(覚えているな)と 感心させられることがありました。


モト助とモト兄ちゃんがやってきた時は、二人の顔と名前を取り違えて言うので

正しく 俺がモト助だよ、こっちはモト太郎だよ、と何度言っても 

「いや、俺は どうしても そうは 思えない」 と言ってきかないので皆で大笑いしました。

しばらくして正しく思い出しまいましたが

今となっては みんな愉快な思い出です。


この頃はよくおしゃべりができて 同室の付き添いのご家族にも羨ましがられたものです。

こっそり余命僅かと伝えると 皆さん驚かれました。

他の方は、命に別状はないけど 意志の疎通ができないので 

もどかしく辛いとおっしゃっていました。

それもそうだなと。 どちらが幸せとか そういうことを抜いて

いろんなケース いろんな病状 いろんな家族のあり方があるのだなと 本当に勉強になりました。


病院は大部屋で、よく入れ替わりがあって たくさんの方との出会いがありました。

父は病室の人を指さして 仲間 と言っていました。

話のできない患者さんが多いのですが それでも仲間として思っていることに驚きました。


ある時、父の向かいのベッドに新しく入院された方が来ました。

その方は昼間でもカーテンを閉めたまま めったに姿を見せることはありませんでした。

数日経った日 私が到着すると、娘さんと思われる妊婦さんと 

ソーシャルワーカーさんと見られる人が話をされていました。

カーテン越しに聞こえてしまったのですが、どうやら末期で、専用の療養病棟へ入るよう勧められているようです。

男性患者さんの辛そうな泣き声と怒りに似た受け答えが聞こえてきました。

すると父が向かいのベッドを指さして

 「ひと声かけてやってくれ。気分がちがうから」 と言うのです。

父なりに 仲間 の辛い状況を察知して 何か緩和してさしあげたいと思ったのでしょう。

こんな父にも そういう優しい気持ちがあったのですね。

さすがにこの状況で今すぐに入っていくわけにもいかないので

うん、待っててね、と伝えると

しばらくしてまた同じことを 何度も言うのです。

よほど気になっているのでしょう。

父の優しさが垣間見れたエピソードでした。



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