万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

非暴力主義の無情―ガンジー暗殺から70年

2018-02-04 16:08:50 | 国際政治
 インドは、先月30日に、独立の父とされるマハトマ・ガンジーが暗殺された日から70年を迎えたそうです。日本国内でも追悼式典が催されましたが、非暴力主義という崇高な理想を掲げたガンジーその人が凶弾、即ち暴力に倒れたことは、この理想に内在する問題をも問いかけているように思えます。

 暴力というものが物理的な強制力である限り、それを言葉で抑止することは至難の業です。抑止が可能となるには、相手方がその言葉を十分に理解し、理があることを認める必要があるからです。インド独立に際して、独立運動を弾圧してきたイギリスが折れた背景には、植民地支配のコスト増大や国際社会における民族自決=反植民地主義のうねり等がありました。ガンジーの理想は、曲がりなりにもイギリスが相手国であり、かつ、独立承認が同国の国益にも適っていたからこそ、幸運にもインド独立という実を結んだとも言えます。

 しかしながら、非暴力主義が、極めて狭い条件下でしか実現しないとしますと、この主義主張を、条件が揃っていない他のケースにおいて試みるのは極めて危険な行為です。否、非暴力主義が悲劇的な結末をもたらすことも稀ではありません。ガンジー自身が暴力を以って命を奪われたように…。また、チベットは、チベット仏教の思想において非暴力主義を以って中国の侵略に対峙しましたが、人民解放軍の進駐により国土はあえなく占領され、チベット人の多くがジェノサイドを受けると共に、今でもその過酷な迫害と弾圧は続いています。この一例を見ても、北朝鮮問題をめぐっては、話し合い解決を強固に主張しながら、中国という国は、自らの利益のためには被害国の声に耳を傾ける気などさらさらないことが分かります。暴力に訴えてでも、自らの主義主張を貫きたい、あるいは、利益を得たいと決意している者の前では、非暴力主義は無力となるのです。

 こうした条件の限定性に加えて、非暴力主義には、見殺しの罪やそれに伴う奴隷の平和という問題もあります。日本国内でも、憲法第9条に依拠して、仮に外国から侵略を受けても、非暴力主義に徹するべし、とする意見が聞かれます。こうした人々は、仮に、家族、友人、隣人、そして、他の日本国民が外国の軍隊やテロリストによって踏みにじられても、“平和のためには武器をとるな”と諭すのでしょうか。援けを求める人々の声に耳を塞ぎ、無情にもその手を振り払い、見殺しにするのでしょうか。喩え命を失わなくとも、無抵抗のままに被征服民として劣位な地位に甘んじるとしますと、それは、“奴隷の平和”というものです。

 ガンジー自身は、「インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる…」とも述べたと伝わり、無条件に武力を否定する絶対的な非暴力主義者ではなかったようです。おそらく、ガンジー自身も認めた不徹底さは、非暴力主義の限界を示すものであると共に、正邪の区別なく全ての力の行使を“暴力”として否定的に理解したところに起因するのかもしれません。ガンジーの崇高なる精神を尊重しつつも、それが内在するリスクを回避するためには、非暴力主義の限界を慎重に見極めるべきではないかと思うのです。

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