万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

集団的自衛権の神髄は侵略に対する抑止力にある

2014年07月02日 15時39分36秒 | 日本政治
集団的自衛権閣議決定 行使へ法整備急ピッチ(産経新聞) - goo ニュース
 81年の内閣法制局による解釈が変更され、閣議決定により集団的自衛権の行使が認められたことで、左翼勢力を中心に反対の声が上がっております。日本国は、戦争ができる国になると…。

 しかしながら、集団的自衛権の神髄は、侵略に対する抑止力にあることを考えますと、反対派の意見には、説得力がありません。戦争=絶対悪の構図が反対派の人々の頭に刷り込まれているのでしょうが、戦争では、必ず攻撃側と防御側の両者が存在しています。国際法上の違反行為である侵略は、攻撃側の行為ですが、防御側が戦争の片面である防衛戦争までをも否定しますと、自国、並びに、自国民は、攻撃側の武力行使のなすがままとなります。正当防衛の権利まで放棄することは、自殺行為に等しいのです。そして、集団的自衛権とは、”自衛”という名が含まれているように、国家の自己保存のための正当な権利であり、一国では、軍事大国に対抗できない場合に採用されます。今日、国際法に違反する侵略を実行する可能性の高い国は、軍事大国化した中国であり、日本国を含む周辺諸国に対する軍事的圧力は日増しに高まっています。仮に、左翼の人々が、集団的自衛権の行使に反対するならば、日本国が一国だけでも自衛できるよう、中国の軍事力に匹敵する軍拡を主張すべきなのです。軍備拡大を主張せずして集団的自衛権の行使を批判することは、平和を語る偽善者に過ぎません。NATOがソ連邦の脅威に対抗するために結成されたように、今日、集団的自衛権の本来の役割から必要とされているのは、中国の侵略行為を防ぐための抑止力としての集団的な包囲網の構築なのです(もっとも、韓国だけは、中国包囲網からは抜けている…)。

 冷戦期にあって東西陣営が直接に干戈を交える第三次世界大戦に至らなかったのも、NATOを中心とした集団的自衛権が働いた結果でもあります。集団的自衛権とは、集団的攻撃権ではないのですから、左翼の人々は、反対一辺倒ではなく、集団的自衛権の役割を正当、かつ、公平に評価すべきと思うのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。


にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村



 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ローマ法王から韓国は諭され... | トップ | 封建制の歴史の有無が日韓の... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ねむ太)
2014-07-02 20:46:19
こんばんは。集団的自衛権だけでなく、憲法改正・自衛隊を軍隊にする事に反対する人は、言霊教の信者なのです。
誰かが「明日は雨が降る」と言えば、必ず雨は降ると信じるのが言霊教徒の特徴です。
これは我が国によく見られる特徴です。
湾岸戦争前夜のような切迫した事態で外国のマスコミは「戦争が近い」と報道しても、我が国では「和平の道もあり得る」と報道します。
一触即発の状態で、武力衝突が避けられない状態とわかっていて「戦争は避けられない」と報道すれば、その記者は平和の敵・戦争を望むトンデモない人間だと袋叩きにする、これが言霊信者の特徴です。
東京裁判でA級戦犯とされた方々の名誉は回復されているのですが「名誉は回復され戦犯など存在しない」と主張する人々を極右と呼び軍国主義の復活を画策している、と批判するのも首相の靖国参拝を徹底攻撃するのも、言霊のなせる事なのです。
反対に、諸国民の公正と信義を信じて・国の交戦権はこれを認めない・陸海空、その他の戦力は、これを一切保持しない、これは自衛権の放棄に他ならないのですが大喜びして「世界遺産に」「ノーベル平和賞を」などと言うのも言霊教の信者だからです。
「災害が起きるかもしれないから備えておこう」と発言したとします。
言霊信者にとって、これは犯罪と同じ事なのです。
「災害が起きるかもしれない」こいつは災害を望む大悪人だと考えるのが言霊教徒なのです。
反対に「人間は皆、平和を望むものであり、公正と信義に基づいた正義を希求している」と言えば、それがチベットや東トルキスタンを侵略して弾圧・虐殺をしている中国人の言葉であっても、中国人は平和や正義を愛する崇高な精神をもった立派な人々である、こうなってしまうのが言霊なのです。
口にした言葉は必ず現実に反映される・・これこそが日本人の特徴なのです。
大和朝廷が成立し古事記の編纂が行われる前は、文字を持たず言葉を何より大切にしていたのですから。
大陸から文字が伝えられても六百年もの時間をかけ言葉の意味を壊さぬよう慎重に文字を当てはめた歴史があります。
現在は、少しずつですが、言葉、即現実にはならないと、言霊の縛りから自由になってきているようですが、まだまだ言霊の影響は簡単に払拭は出来ないようです。
その為に集団的自衛権も他国の軍隊と連携する事が基本になりますので、軍隊や侵略・戦争などの文言に過敏に反応し、平和・信頼・反戦という言葉が平和を望む象徴であり、共同軍事行動や攻撃を受けた時などの言葉は戦争が起きる事を望むものだとして過激な反対運動を起こしているのです。
ねむ太さま (kuranishi masako)
2014-07-02 21:42:11
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。
 元寇や幕末の動乱期に起きましては、我が国は、直面する危機に果敢に立ち向かい、議論を尽くした上で生き残る道を模索しました。戦国時代などを考えましても、存亡の危機の連続であったのですから、”言霊信仰”は、案外、最近のことなのかもしれません。確かに、日本人は、言葉を慎む傾向にありますが、危機に際して沈黙をよしとするほど、非合理的な民族ではなかったはずです。宣教師の人々も、日本人は合理的、かつ、現実的な精神の持ち主であると見なしていたようです。むしろ、”言霊信仰”、あるいは、言葉と現実との境がない精神構造は、朝鮮半島の方が強いのではないでしょうか。”慰安婦はいる”と言い張れば、それが、現実に存在することになると考えているようですので…。何れにいたしましても、日本人は、本来の合理性を取り戻すべきと思うのです。

日本政治」カテゴリの最新記事