横浜駅の構内を歩いていると、スピーカーから長々と中国語による案内が響いてきます。プラットフォームでは、今流行のファッションに身を包み、スマートフォンを片手に日本語でしゃべっていた若い女性が、通話の相手を変えたのか、やおら中国語でまくしたてています。一体、ここは、何処なのでしょうか。
横浜には戦前より中華街があるため、中華化現象は全国的ではないと信じつつも、中国からの観光客激増に応えるかのように、近年、駅での表示板や案内板では日本語に加えて中国語とハングルが並ぶようにもなりました。日本国でありながら異国のような空間の出現に、どこかで何かが違っていると漠然と感じる国民も少なくないはずです。国土交通大臣のポストが公明党議員によって占められていることも影響しているのでしょうが、事実上の移民政策を前にして、日本国政府は、外国人の受け入れ態勢の整備に動いていますので、日本語教育の充実を謳いながらも、今後、このような事例は増えてゆくかもしれません。
それでは、一般の国民が抱く多言語空間化に対する違和感、あるいは、不条理感はどこから来るのでしょうか。この問題を考えるに当たって確認すべきは、時間と空間は有限であると言うことです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、殊、政治や社会の枠組について考える場合には、この有限性は重要な意味を持ちます。何故ならば、今日の国民国家体系の基本原則となる民族自決、並びに、一民族一国家の原則は、民族的纏まりに一つの国家を有する正当な権利を与えており、そして、言語こそ、民族の枠組を識別する最大の決定要因とされているからです。つまり、コミュニケーション手段である言語の共有こそ、その集団が長きにわたる歴史を経て一つの社会を形成していた証であり、独立した国家を有する政治的権利の根源とも言えるのです。言い換えますと、国民が自らの国家領域おいて自国の言語を誰憚ることなく使えるのは、今日の国際体系である国民国家体系が、有史来の人類の民族別分散定住を前提とし、多様化した民族集団の其々に自らの領域とそこで経過する時間に対する使用の排他的権利を与えているからに他ならないのです。
このように考えますと、何故、多言語空間化に不快な感情を抱くのか、その理由も見えてきます。時間と空間の使用には国家領域に限定された有限性があり、その国の国民の正当な権利であるならば、他の言語の使用は、この権利の他民族への譲渡ともなりかねないからです。例えば、上記の駅の構内放送の場合、同一の内容を中国語で放送するには、日本語とおよそ同程度の時間を要します。つまり、一般の日本国民が圧倒的多数であったとしても、時間と空間の使用時間については日中同等となり、中国語が放送されている時間にあっては、放送が届く範囲内における言語空間が中国化してしまうのです。
今後、外国人労働者や事実上の移民が増加するにつれ、中国語やハングルのみならず、他の言語についても、平等原則を徹底すれば同様の扱いをせざるを得なくなるかもしれません。先日も、外国人生徒の多い小学校では、運動会において多言語放送が実施されたことが、新たな試みとしてTVで好意的に紹介されておりましたものの、多言語放送ですと、一つの事を伝えるのに、言語の数だけ時間を費やさざるを得ません。国民国家とは、この意味においても、本来、最も効率の良い国家形態なのです。日本国政府は、外国人観光客や移民の受け入れについてプラス面ばかりを強調しておりますが、日本国民の空間が狭まり、異空間が広がるのでは、不満や不安ばかりが募るのではないでしょうか。
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横浜には戦前より中華街があるため、中華化現象は全国的ではないと信じつつも、中国からの観光客激増に応えるかのように、近年、駅での表示板や案内板では日本語に加えて中国語とハングルが並ぶようにもなりました。日本国でありながら異国のような空間の出現に、どこかで何かが違っていると漠然と感じる国民も少なくないはずです。国土交通大臣のポストが公明党議員によって占められていることも影響しているのでしょうが、事実上の移民政策を前にして、日本国政府は、外国人の受け入れ態勢の整備に動いていますので、日本語教育の充実を謳いながらも、今後、このような事例は増えてゆくかもしれません。
それでは、一般の国民が抱く多言語空間化に対する違和感、あるいは、不条理感はどこから来るのでしょうか。この問題を考えるに当たって確認すべきは、時間と空間は有限であると言うことです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、殊、政治や社会の枠組について考える場合には、この有限性は重要な意味を持ちます。何故ならば、今日の国民国家体系の基本原則となる民族自決、並びに、一民族一国家の原則は、民族的纏まりに一つの国家を有する正当な権利を与えており、そして、言語こそ、民族の枠組を識別する最大の決定要因とされているからです。つまり、コミュニケーション手段である言語の共有こそ、その集団が長きにわたる歴史を経て一つの社会を形成していた証であり、独立した国家を有する政治的権利の根源とも言えるのです。言い換えますと、国民が自らの国家領域おいて自国の言語を誰憚ることなく使えるのは、今日の国際体系である国民国家体系が、有史来の人類の民族別分散定住を前提とし、多様化した民族集団の其々に自らの領域とそこで経過する時間に対する使用の排他的権利を与えているからに他ならないのです。
このように考えますと、何故、多言語空間化に不快な感情を抱くのか、その理由も見えてきます。時間と空間の使用には国家領域に限定された有限性があり、その国の国民の正当な権利であるならば、他の言語の使用は、この権利の他民族への譲渡ともなりかねないからです。例えば、上記の駅の構内放送の場合、同一の内容を中国語で放送するには、日本語とおよそ同程度の時間を要します。つまり、一般の日本国民が圧倒的多数であったとしても、時間と空間の使用時間については日中同等となり、中国語が放送されている時間にあっては、放送が届く範囲内における言語空間が中国化してしまうのです。
今後、外国人労働者や事実上の移民が増加するにつれ、中国語やハングルのみならず、他の言語についても、平等原則を徹底すれば同様の扱いをせざるを得なくなるかもしれません。先日も、外国人生徒の多い小学校では、運動会において多言語放送が実施されたことが、新たな試みとしてTVで好意的に紹介されておりましたものの、多言語放送ですと、一つの事を伝えるのに、言語の数だけ時間を費やさざるを得ません。国民国家とは、この意味においても、本来、最も効率の良い国家形態なのです。日本国政府は、外国人観光客や移民の受け入れについてプラス面ばかりを強調しておりますが、日本国民の空間が狭まり、異空間が広がるのでは、不満や不安ばかりが募るのではないでしょうか。
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私が感じておりましたことを、ずばりおっしゃってくださり、
『我が意を得たり』と思いますとともに、激しい危惧の念を感じます。
私も、大阪府の北東部に住んでおり、頻繁に近くの京都や奈良の神社仏閣・名所旧蹟を探訪しますが、どこへ言っても外国人観光客ばかりで、けたたましいチャイナ語などを聞くと、強い違和感を感じずにはいられません。
もちろん、私は、外国人観光客を排斥するつもりはありません。親日的な外国のかたに、日本の旅を楽しんでいただくことは、良いことです。
しかし、観光政策にも均衡と節度は必要だと思います。なんでもなんでも、外国人観光客が増えたら良い訳ではありますまい
たとえば、スイスは「観光王国」ですが、外国人観光客に卑屈なお世辞笑いをすることは、決してしないでしょう。
今の日本の観光客受け入れの無原則ぶりは、本当におかしいです。
駅の切符販売機には、かなり以前からチャイナ語と韓国のハングル文字が併記されてますが、私には、ある種の不快感を覚えます。チャイナ語でも、古い伝統的な漢字で書いてあればまだいいのですが、あの‘’中華人民軍共和国の略式文字‘’には気分が悪くなります。
ましてや、韓国語は、日本の公共施設には、表示する必要は全くないはずです。(韓国朝鮮語は、国際的公用語には指定されては、おりません。もちろん、アジア地域の範囲だけでも多国籍語ではありません。)
いつから、こんなことになったのか知りませんが、本当におかしいです。
さらに、もっと、警戒せざるを得ないのは、『外国人労働者』の受け入れ拡大政策です。私は、カジノ推進政策や水道民営化とともに、外国人労働者受け入れ拡大には、断じて反対します。!!
これほど、日本人の民族国家に対する背信行為はありません!!!
安倍総理大臣は、何年か前に、関西の政治討論番組(そこまで言って委員会)で、『私は、移民政策はいたしません』と、おっしゃってたそうです。、、、あのご発言は、何だったの??と、言いたいです。
もちろん、私は、安倍総理が不誠実なかただとは、思いたくありません。
たぶん、財界実業家や自民党内の‘’汎アジア主義者‘’や、そのほかの各種団体の要請や圧力が有るのでしょう?!
私は、安倍総理には、もっと、しっかりしていただきたいです。!!
総理が政界にデビューしたときの『美しい日本』の標語は、よもや、お忘れでは?と申し上げたいです。
◎ところで、ドイツの大哲学者カントは、当時の日本の「鎖国政策」を、たいへん高く評価しておられたそうです。
「民族国家の完全な独立と平和は、日本の鎖国政策のように、異邦人の入国制限によって実現出来る」
と言う御主旨のことを、おっしゃってたそうです。
さすがに、カント先生は、民族と言語社会の尊厳の何たるかの核心を、理解しておられたようですね。
おそらく、多くの日本国民が同じように感じているのではないかと推察いたします。しかも、以前の記事にも書いたのですが、中国は、ウイグル自治区に対しまして観光地化政策を推進しております。今年で既に2000万人とされる中国人観光客の数は不自然であり、中国が、国策として日本国に送り込み、それに呼応する形で、内部から日本国の中華化に協力している勢力の存在も懸念されます。日本国政府も国民も、警戒を強めてもよいのではないかと考えております。
広く一般の方たちの応援や参加も呼び掛けています。
私も近くのエリアで応援したいと思います。
中国共産党によるウイグル人の臓器売買に対する国連や諸外国、トランプ大統領による非難が高まっていますが日本ももっとハッキリ声を挙げるべきです。
ウイグル人の臓器売買ビジネスは年商一兆円とも言われています。
そんなナチスよりも残虐な中国共産党に、日中通貨スワップで日本は3兆円も拠出するかも知れないそうなので、それも解せません。
政財界が支那朝鮮に乗っ取られているのではないでしょうか。
国民がもっと積極的に声を挙げるべきですよね。
大人しくしていては、彼らの好き放題にされて仕舞います。
櫻井氏につきましては、保守層を国家社会主義に誘導するための仕掛けである可能性もあり、いささか警戒感を以って観察しております。もっとも、一般の国民が移民政策に反対の声を挙げることは大事な事であると思います。今でさえ、日本国の中華化が進んでいますのに、これ以上、中国出身者が増加するとなりますと、日本国が形骸化し、失われてしまうのではないかと懸念しております。
多文化共生主義では、100人の内1人が外国人であれば、同じだけの時間や空間を割かなければならなくなります。時間と空間は限られていますので、この状況は、外国人優遇政策ともなりかねません。しかも、日本国政府は、何故か、中国のみを特別扱いしているのです。英語については、今日、国際共通語として機能し、大半の国で義務教育課程で教えられていますので、それ程の問題はないのかもしれませんが、特定の国の言語、しかも、極めて危険な国の言語の使用は、外国による支配的意図が見え隠れしているように思えるのです。
中国人観光客、並びに、韓国人観光客の数は、不自然と思えるほどの数を数えております。その背景には、日本攻略、あるいは、侵略の意図が隠されている可能性は十分にあり、それを裏付けるかのように、親中派の公明党出身の国土交通相が、交通機関等での率先して中国語やハングルの併記を推進しているように思えます。掛けまくも畏しさまのおっしゃる通り、政府は、「観光亡国」に向けてひた走っているかのように見ます。その背後には、個別の国ではなく、国際組織の暗躍も推測されるのですが、日本国民の多くも、これらの現象に対して違和感を感じていることでしょう。日本国政府には、大量の観光客を送り出している諸国の隠された意図を直視し、観光依存からの脱皮を志すべきではないかと考えております。