万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

統合の役割は人では無理なのでは?

2022年09月16日 18時31分10秒 | 統治制度論
今日に見られる君主の役割の統治(権力)の分野から統合(権威)の分野への一般的移行は、民主主義と伝統とを両立させる知恵の一つでもありました。伝統は、時間軸において国家の歴史を継承すると共に、その共有は国民を纏める求心力ともなるからです。たとえ民主主義とは相容れない世襲制ではあっても、伝統が宿す統合力は、国家にとりまして有益であったと言えましょう。

しかしながら、君主の統合力の源泉が伝統にあるとしますと、君主も人である限り、時の経過による変化というものから逃れることはできません。また、永遠に生き続けることもできませんので、代替わりを余儀なくされます。代換わり毎に王統や皇統の血統も凡そ半減し、かつ、妃や王配が育った家の家風や別系統の文化も流入するのみならず、マスメディア等を介して時代の変化にも晒されますから、王族も皇族も、伝統の継承者としての存在意義が薄らいでしまうのです。国民一般との差異が限りなく縮小しますので、超越的な権威を頂点とする求心型の構図が崩れ、統合の役割を維持することも難しくなります。

君主の求心力低下を防ぐために、日本国の皇室も含め、世界各国では様々な方法が試みられているようです。国民との距離を縮めるために親しみやすさを演出したり、国民に向けて直接に情報を発信するSNSも利用されています。日本の皇室では検討段階のようですが、英王室では、既にSNSは活用が開始されているのです。また、様々なイベントに積極的に出席するなど、公務に励む姿勢を見せて国民への奉仕をアピールするという方法もありましょう。何れであれ、こうした試みは、垂直型となる求心型の統合を半ば諦め、国民の中に自ら入ってゆくことで、国民との連帯意識に基づく水平的な統合への転換を目指す方向性として理解されましょう。

しかしながら、水平型の統合は位階制とは相容れませんので、完全に水平型に移行させますと、誰もが君主の権威を認めなくなり、自己否定となっていまいます。そこで、垂直と水平を両立させるという殆ど不可能な命題に取り組まなければならなくなるのですが、これは、簡単なことではありません。

例えば、国民と親しく接する機会を増やすために様々なイベントや行事に頻繁に臨席したとしても、一般国民の側からすれば、逆に垂直的な上下関係を否が応でも意識する機会が増えるに過ぎなくなります。言葉遣いや振る舞いに神経を使わざるをえず、熱心な王室・皇室支持者ではない限り、むしろ屈辱感が増長されてしまうからです。また、SNSの発信にしても、世間一般におけるお友達関係のコミュニケーションというわけにはいかないことでしょう(おそらく、有名人と大多数のフォロワーの関係となるのでは・・・)。結局、この取り組みは、‘垂直は水平なり’という二重思考を国民に強いる結果を招き、国民に心理的な圧迫感を与えかねないのです。そして、この構図における王族・皇族は、どこか、人民の一人を自認し、国民と同等ぶりを見せながら、自らが国民と同列であることは絶対に認めない共産主義国における独裁者の姿とも重なるのです。

こうした状態は、国民の精神に対して善い作用を及ぼすとは思えません。熱心な支持者も少なくないかもしれませんが、常に、外部から自己欺瞞を強いられますし、自らの心に正直であることが許されないからです。言い換えますと、表面的には国民と同じ目線を演じながら、実際には、国民の心理的犠牲、あるいは、‘内面の不自由’の下で求心型の統合が維持されるのであり、この統合の構図は、少なくない国民が内なる不満や疑問を抱えている以上、砂上の楼閣となるリスクが認められるのです。

君主を求心力とする統合体制が国民に苦痛、あるいは、卑屈な精神を強いるならば、君主と国民の双方にとりまして不幸であると共に、人々の理性、知性、そして伸びやかな心の持ちようをねじ曲げる要因ともなりましょう。また、君主も人ですので、個人的な好悪の感情によって国民の一部を贔屓したり、あるいは、逆に嫌悪の情にかられて迫害するかもしれません。さらには、英王室においては、目下、非英国系のメーガン夫人との婚姻を機に様々な騒動や闘争が起きていますが、世界平和統一家庭連合の韓国人教祖も日本の皇族との婚姻を本気で熱望していました(自民党との関係からしますと、不可能とは言えないのでは・・・)。今日では、皇族といえども個人の自由は尊重されるべきとされますので、王族や皇族の行動や選択次第では、統合どころか分裂や対立要因となりかねないのです。この流れからしますと、近い将来、国家全体のパーソナル・カルト化のみならず、国家としての独立性をも危うくする事態も予測されるのです。

長期的に見れば、特定の個人、あるいは、一家族に統合の役割を期待するには無理があり、統合の機能は、固有の人格を持つ人ではなく、他の非人格的な存在に求めるべきように思えます(非人格的なものであれば、利権も生じなければ、腐敗することも堕落することもない・・・)。例えば、日本国であれば三種の神器も候補となりましょうし、ハンガリーのように空位の王冠を象徴としている国もあります。非人格的な存在であれば、国民に精神的な苦痛や圧迫感を与えることはありませんし、個人的な気まぐれによって不利益を被ることもありません。また、人のように時間が経過するにつれて本質的な変化に直面させられることもないのです(血統のように婚姻によって希釈されることもない・・・)。

国家とは、国民あってのものなのですから、現代という時代では、国民の自由こそ最大限に尊重されるべきと言えましょう。知性や理性に堪えない制度については、将来に向けて見直しをはかるべきではないかと思うのです。未来の国民のために。
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