万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

グローバリズムは中小国に不利-‘規模の経済’問題

2018年12月26日 14時21分25秒 | 国際政治
 フランスでは、大革命の申し子とも評されたマクロン大統領に対する大規模な抗議デモが発生し、‘革命’に対する‘革命’という奇妙な構図が出現しています。いわば、フランス革命の欺瞞を今日の‘革命’が暴いているとも言えるのですが、‘近代市民革命’と総称される18世紀に始まる過去を遺物として否定するリベラルな革命がグローバリズムの源流である点に注目しますと、どこに‘誤魔化し’があったのか、おぼろげながら見えてくるようにも思えます。

 市民革命の特徴とは、新興ブルジョワジー、即ち、産業革命の波に乗るかのように台頭してきた金融・商工業者層の要望を受ける形で実現したところにあります。フランス革命には、重税や貧困に喘ぐ怒れる農民や都市下層民が決起してアンシャン・レジーム(旧体制)を崩壊に導いたイメージが染みついていますが、この運動を秘かに組織化し、資金を提供したのは前者であったそうです。ごく少数の経済寡占勢力が計画し、現状に不満を抱く貧困層を焚きつけて実行させるパターンは、ロシア革命といった共産主義革命にも共通しています。

 大航海時代とは、新航路の発見を機に全世界が通商関係を介して線的に繋がり、さらに、面的な支配にまで及ぶに至った時代でもあります。この時代、東インド会社に象徴される金融・産業界が切望したのは、自由な活動を阻害する国境の排除でした。世界が国境で細分化されていたのでは、自らの活動の場となる工業製品の原材料の供給地や市場を広げることができないからです。言い換えますと、‘近代市民革命’とは、愛国心を煽りながらも‘国民’には関心はなく(実行部隊としての利用価値は認めている…)、その眼差しはその先の世界に向けられていたことになります。そして、この側面こそ、グローバリズムの源泉とされる所以なのです。

 ‘近代市民革命’のさらに源流には古代から連綿と続く、ユダヤ商人やイスラム商人といった、古代文明発祥の地でもある中近東地域出身の商人層の活動があるのでしょうが、ヨーロッパ文明が培ってきた知力、組織力、そして近代以降の科学力等と結びつき、抜きんでた軍事力を備えるに至った西欧列強と称される一群の諸国は、経済寡占勢力のバックの下で全世界において権益獲得に乗り出すのです。世界史の教科書では、国家を登場人物とする表に見える動きしか記述していませんが、その背後には、超国家的な経済寡占勢力の思惑が隠されていたことは想像に難くありません。今日のグローバリズムとは、国家の影に身を隠してきた背後勢力が遂に表舞台に登場したに過ぎないかもしれないのです。

 前置きが長くなりましたが、グローバリズムが志向する非境界性は、個人間において‘格差’をもたらす作用の元凶となります。何故ならば、国境の除去とは、市場規模の拡大に他ならず、広域化された市場において最も有利となるのは、それが規模における変化である以上、規模に優る者が勝者となる可能性が極めて高いからです。

例えば、全世界が、A国、B国、C国の3つの国に分かれてり、市場も国境線に沿って分割されているケースを想定してみることにします。この3つの国には人口規模に違いがあり、A国が人口10億、B国が1億、C国が500万人とします。A国の企業群は、人口規模に比例して資金力からして巨大であり、B国やC国の企業とは比較にならない程の規模を誇っています。さて、この状態で、B国とC国の政府が、グローバリズムを歓迎して自国の市場を開放すれば、どのような事態が発生するでしょうか。市場開放にも様々なレベルがありますが、サービス自由化の一環として企業進出にも門戸が開かれるとしますと、まず初めに、C国市場に規模に優るA国とB国に企業が進出してきます。C国の企業は、競争に敗北して市場から撤退するか、B国の企業と組んでA国に対抗するか、A国企業に買収されて消滅するか、の何れかの道しか残されなくなります。第2の道を選択したとしても、それは、B国とC国を合算しても人口規模はA国に適いませんので、一時的な効果しか期待できません。最終的には、C企業の消滅かA企業への吸収となるのですが、この運命は、やがてB国の企業にも及ぶのです。もっとも、A国企業に対して超国家的な経済寡占勢力が融資を行っているとしますと、‘独り勝ち’したのはA国の巨大企業ではなく、同勢力となりましょう。今度は、国家ではなく、巨大企業の背景に同勢力は隠れているのかもしれません。

古典的な比較優位論は、自由化に伴うこうした独占・寡占現象については何も語っていません(自由貿易論の根拠となる二国二財モデル等では企業活動の広域化を想定していない…)。現実には、人口規模のみならず、知的財産、天然資源、国民の教育レベル、物価や賃金水準なども影響しますが、人口規模のみを基準とした単純なこのモデルが示唆するのは、中小国がグローバリズムを標榜することは、勝てない戦に自ら身を投じるに等しいということです。グローバル市場とは、規模の拡大を伴う限り、中小国にとりましては極めて不利なフィールドなのです。この認識なくして自国の市場を開放しますと、日本国を含む中小諸国には、大国巨大企業群による自国経済の事実上の‘植民地化’という受け入れがたい事態が待ち受けることになるのではないでしょうか(その背後に政府や経済寡占勢力が潜んでいればなおさら過酷な‘植民地支配’に…)。この点を考慮しますと、国際社会が取り組むべき課題は、国際レベルでの競争政策の強化、即ち、最低限、全ての諸国の国内経済や国民生活が安定化し、かつ、全面的な企業淘汰が防がれる程度に市場、あるいは、企業の細分化を促す、大胆な方向転換なのではないかと思うのです。

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