万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

量から質へのシフトこそ人類の転換点では?-規模の時代は続くのか

2018年09月14日 11時19分51秒 | 国際政治
“外国人の労働環境整備”検討会が初会合
グローバリズムとは、イノベーションや創造性と言った言葉と共に到来したため、過去とは違う、何か新たな時代の始まりを予感させるものです。しかしながら、この現象を具に観察しますと、その本質は、むしろ、規模の拡大に価値を置くという意味において、近代以降の思考・行動原則と何らの変わりがないように思えます。つまり、今日もなお、人類は規模の時代を生きているのです。

 古来、戦争の発端の大多数は、利己的な規模の追求にありました。近代以降は、領土拡張や異民族支配の欲望に加え、経済分野における規模志向も加わり、それは、植民地の獲得競争を含む列強間の勢力圏争いにまで発展しました。この時代、その先兵となったのは、西欧列強各国において設立された半官半民とも言うべき東インド会社でしたが、今日では、多国籍化したグローバル企業群が、全世界を自らの市場とし、M&Aを積極的に仕掛けながら規模を追求しています。グローバル化とは、企業が規模を追求するための環境整備であり、世界各国の政府は、この方向性こそ人類の唯一の未来と信じ込んでいるかのように、何らの疑いを挟むことなく自国を気前よく‘開放’しているのです。

 デカルトの懐疑主義が近代合理主義精神の出発点となったことからしますと、現代の人々の方が、迷信的で頑迷な前近代人のメンタリティーに近いのではないか、とさえ疑ってしまうほどなのですが、規模の拡大を第一とする思考や行動は、上述したように、植民地化や古来の共同体の崩壊を帰結し、今日では、移民の増加や雇用不安といった負の問題をもたらしてきました。光もあれば影もあるのです。しかも、現代のクローバリズムは、IT、AI、ロボットといった新たなテクノロジーの開発やプラットフォーム型のビジネスによって、人々のライフスタイルや社会までをも変え、さらには、国民をも融解させる勢いです。

そして、規模を原則とする限り、近い将来、規模に優り、基本技術を抑えるGAFAや中国系巨大企業によって、その他もろもろの企業は巨大企業の世界戦略に組み込まれ、下請けや部材提供者として生き残るしか道は残されていないかもしれません。人々の生き方も一新され、単なる労働力提供者に堕すと共に、一部の保護された観光地を除いて、地球上は、‘何処に行っても同じ風景’という、多様性とは裏腹のモノトーンな世界に変貌することでしょう。

 日本国で深刻視されている少子化問題も、規模に価値を置くからこそ、政府は、移民推進政策で解決しようとするのでしょう。13億の人口を擁する中国でも、既に一人っ子政策を放棄しておりますし、途上国のみならず、先進国でも移民系が牽引役となって人口増に転じる国も少なくありません。しかしながら、人口大国の座を競う中国やインドを含め、あらゆる国が人口増加を目指せば、天然資源には限りがありますので、爆発的に増加した人口を地球が養えるとも思えません。さらに、こうしたグローバル企業の効率性と採算性の追求は、ロボットやAIの導入を加速化させますので、やがては世界規模の人余り状態が生じるとも予測されます。こうした未来像がおぼろげながら浮かび上がるにつれ、グローバリズム初期の‘わくわく感’は、今や未来に対する言い知れない‘不安感’に変わろうとしているのです。

持続可能、かつ、一人一人が豊かな生活を送るようになるためには、そろそろ規模を原則とする競争を止め、質の高さこそ新たな原則に据えるべきなのではないでしょうか。グローバル企業が新たな‘植民地支配’と批判されるのも、それが、旧来の規模追求型であるからに他なりません。質への転換とは、規模の大小に拘わらず、あらゆる企業にチャンスを与えるグローバル市場を一部に留めつつ、歴史や国民性に裏打ちされた各国の固有性を活かした厚みのある経済を実現し(グローバリズムの犠牲に供さない…)、世界各地において、固有のテクノロジーが生まれる余地が残されている真に多様な世界を意味します。人類史に新たな一ページが開かれるとしますと、それは、量の局限化ではなく、量から質への基本原則の転換、即ち、質の時代への移行なのではないかと思うのです。

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コメント (6)
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