万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

特攻隊の遺書と自衛隊の覚悟

2014年05月16日 11時13分13秒 | 日本政治
自衛隊員「戦争で死ぬのは任務」「殺さない軍隊でいい」(朝日新聞) - goo ニュース
 先日、ユネスコの世界記録遺産に、特攻隊員の遺書が登録候補となったことを受けて、ネット上では賛否両論の声が上がっていました。批判派の意見の大半は、”特攻隊員は強制的に志願させられた”、あるいは、”本心では死にたくなかった”とするものです。

 果たして、こうした批判は当たっているのでしょうか。批判者の思考からしますと、”自分の命が全てに優先して最も大事なのだから、自発的に命を捨てる行為は愚かしく、合理的な精神からは理解できない”ということなのでしょう。批判者の言葉の端端には、どこかで特攻隊を貶めたい心情、あるいは、上から目線を感じ取ることができます。こうした決死の作戦はせずに済めばそれに越したことはなく、また、当時の責任者の中には若者の命を軽く見た人々もいたかもしれず、全面的に肯定することにも慎重にならざるを得ないのですが、それでも、批判者は、重大な視点を見落としている思うのです。逆の状況を想定してみると、この重大な視点の輪郭がはっきりしてきます。仮に、批判者が勧めるように、全ての人が自分の命を最優先と考えた結果、命を捨ててまで職務を全うする人がいなくなったとしたらどうなるのでしょうか。この結末は、船長が真っ先に逃げ出した韓国の旅客船沈没事故がはっきりと示しています。命がけで国民を護るべき職務の人が皆無となれば、当然に、全国民が無残にも命を失うことになりかねないのです。特攻隊に志願した人々が、神風となって散華することを覚悟してまで守ろうとしたものは、この国であり国民であったことは疑いえないことです。東日本大震災に際しても、警察官や消防士の方々の多くが、住民の命を護ろうとして殉職されております。また、福島第一原発事故に際しても、民間人でありながら、事故収拾のための”決死隊”に志願された方々もおられたと聞きます。誰もが死を恐れ、自分の命を大切に思うからこそ、死をも恐れず、あるいは、克服し、かけがえのない自らの命を捧げた人々の自己犠牲の精神が、尊いものとして人々の心を打つのではないでしょうか。

 批判者は、特攻隊は非人道的、かつ、非合理主義の権化の如くに見なしていますが、米国軍人の行動規範1は「私は、米国の軍人である。私はわが国及び我々の生活を守る軍において奉仕する。私はそれらのものを防衛するためには命を捧げる覚悟がある。」というものです。命をかけて国と国民を護ろうとする精神は、人類において共通しております。集団的自衛権の行使容認に関連して、自衛隊員の方の「戦争で死ぬのは任務」とする発言が報じられておりますが、批判者の人々こそ、己の生死という極限の運命を背負った職務にある人々について、そら寒いほど無理解であり、冷酷な恩知らずであると思うのです。

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コメント (2)
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