日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

七支刀はなぜ教科書の扱いが小さいのか・・・石上神宮訪問記 その1

2015-11-04 23:45:20 | 古墳時代
おとといの記事をアップしてから、アクセスが異常に増えて、驚いています。私、何かまずいことを書いたでしょうか?熱心な宗教関係の方々なのかなと思いますが、ご意見ご感想ももしよければお願いします。キリスト教には内村鑑三の無教会主義というのがあって、教会に行かなくても信仰は持てる、という考え方なのですが、私も天理教の教えには少し関心はあり、教会に行かなくても、どんな本を読むといいのでしょうかね。
それにしても、アクセスが多すぎて気持ち悪いです。私も、このブログをやめた方がいいかなと即断した時には、パッとブログを消滅させますのであしからず。

さて、同じく天理市内にある石上神宮訪問記です。今のPCで、「いそのかみ」とタイプして「石上」と出てこないのがくやしいですね。私は、アマテラスや伊勢神宮の祭祀が定まる以前からいた神様に関心が深いので、この石上神宮についても桜井市の大神神社や出雲の出雲大社などと並んでとても重要な神社として興味を持っていました。

石上神宮がどのような神社であるかは簡単には書き尽くせません。いつか、もう少しここを書き足しておきたいと思いますが、今日は、8月に見てきた印象などを中心に書きたいと思います。

とりあえず、石上神宮の由緒について、ホームページなどを参考にまとめますと、石上神宮は、「日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち」と記載されていて、物部氏と関わりの深い神社であるということがいえます。

『延喜式神名帳』にも載っている式内社です。『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけだそうで、創建が古い神社であることがうかがえます。

祭神についてですが、「韴霊(ふつのみたま)」という神剣(布都御魂剣と書かれたりします)があり、そこに宿っている神様を布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)といいます。
一応ホームページから「布都御魂大神」の解説をそのまま引用させていただきますと、
「韴霊(ふつのみたま)とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣です。
またその後では、神武天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。
神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。」

祭神は他にもいらっしゃって、
「布留御魂大神」(ふるのみたまのおおかみ)については、またホームページを引用させていただきますと、
「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。
天璽十種瑞宝とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟というお力が秘められておりました。
後に饒速日命の御子 宇摩志麻治命がこの神宝を用いられ、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈られました。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになります。その後宮中で韴霊(ふつのみたま)と共にお祀りされていましたが、崇神天皇7年に韴霊と共に現地、石上布留高庭に遷されました。」

「布都斯魂大神」(ふつしみたまのおおかみ)は、これもホームページによると、記紀神話に見える、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するのに用いた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿る神様とのことです。

「当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。」(HPより)

これを読むだけではわかりにくいですが、明治時代に、神宝が埋められているという言い伝えのとおりに、禁足地を掘ってみたら、本当に出てきたというのです。

石上神宮には、有名な国宝の「七支刀」があります。これについても語れば長いし、急いでいて引用元が正確に示せないので、概略だけにします。
一応このブログは「日本史学習の拾遺」ですので日本史学習とからめて書きますと、手元の『日本史B用語集』(山川出版社)には、「369年百済王が倭王のためにつくったといわれる61字の銘文は最古の金石文。」とあります。「最古」とあるけれども山川の教科書『詳説日本史B』では、本文にはこの七支刀は登場せず、巻頭のカラーの口絵に出てくるだけです。

教科書的には、5世紀頃に漢字使用が始まった例として、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣や江田船山古墳の鉄刀に「ワカタケル大王」の文字が見えるという話題が出てきて、試験にもよく出ます。しかし、石上神宮の七支刀は、教科書にも説明が出て来ないので、授業で私も触れて来ませんでした。時代が4世紀と古いのと、日本でつくられたのではなく百済でつくられたという点で稲荷山の鉄剣などとは性格が異なりますから教科書の流れの中では仕方ないのかもしれませんが。

しかし、高校日本史的には「謎の4世紀」といわれることの多い時代の、希少な文化財であるこの七支刀が教科書などで扱いが小さいのは、以前から納得が行っていませんでした。そこに記されている銘文は今回は引用しませんが、そこに書いてあることを認めていないのだろうかと勘繰ったり、物部系の神社の神宝だからとりあげないのか(?)と思ったりしてきました。ふと思ったのは、『日本書紀』に「七枝刀」を百済の使者が持ってきたという記事があるのですが、それは神功皇后の時代(神功52年)で、神功皇后の時代の事蹟については、韓国等との関係もあるし、事実かどうかも難しいので、教科書では書きにくいのかなと思いました。
このあたりの時代は歯にものがはさまったような記述が見受けられます。加耶諸国と「密接な関係」『詳説日本史B 』(p.26)というのも・・・

ちなみに、七支刀の記述のある『日本書紀』神功52年は、いろいろ調整すると372年に該当すると一般に解釈されており、そうであれば、369年に百済王の太子が製作させた七支刀が3年後に百済の使節によって日本にもたらされたということになります。

こういう話は、教科書にはありません。高句麗好太王碑文は391年の出来事を記しているということは教科書に出てきますけれども。
まだ教科書に書けるほど、外交関係などが学術的にも定まっていないということなのでしょうか。

受験勉強の知識の中では取り上げにくいけれども、授業ではもっと取り上げるようにしましょうかね。私も今の学校では日本史Aしかなく、古代の授業はやっていないので、その時が来たら・・・ですね

また長くなってしまいました。8月10日当日のレポートに戻らなければ・・・そういうわけで、前回の続きですが、天理教の本部を後にして、さらに東の山の方へ向かって自転車を走らせていきました。途中、どこから曲がったらいいのか、表示がわかりにくくてちょっとだけ迷いました。ここに来る観光客って少ないのかなあ?と思うくらいのわかりにくさでした。

猛暑の平日だったせいもあるのか、観光客はまばらで、いたとしても私のように自転車で来るのではなくて、自動車の人がちょっといたくらい。かなり急な坂道を登ります。とても静かで、のどかで、観光地として俗化していない所はいいなあと思いました。

今日はもうすでに長くなってしまったので、石上神宮の入口到達の写真までにとどめておきましょう。


古社の趣が感じられる石柱。


「布都御魂大神」の文字が見える鳥居。

ニワトリさんはまだです。また次回。

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へにほんブログ村

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
もしかして (鳥島)
2015-11-05 19:09:46
はじめまして。
昨日、ランダムメニューからこちらに辿り着き、邪馬台国関連の記事が多かったので時間かけて読ませていただきました。回線の調子があまり良くなかったのかきちんと読み込めずリロードしたり、同じ記事に戻って読み直ししたりしましたので、すみません。
それでも100PVくらいと思いますが、いらぬご心配をお掛けしてしまった一因とは思います。まだまだ興味のある記事が多いのでしばらくはPV数増えると思います。
返信する
ご訪問ありがとうございます。 (ツツコワケ)
2015-11-05 23:23:40
このブログに関心を持っていただきコメントもありがとうございました。アクセスが多い件、鳥島さんにご心配いただいて恐縮です。
昨日の記事のフェイスブックのシェアの部分を見ていただくと、300を超えていて、アクセスも通常は40~くらいなのに昨日は999、pvも1600以上と、いつもとケタが違うのです。今までにないことです。この記事だけです。
鳥島さんがご覧くださったのも増えた要因の一つでしょうが、おそらく主に天理教関係の方々が記事をシェアされているのではと思われます。そういった方々もせっかくですので何かお声を聞かせていただきたいように思っています。
邪馬台国等私もこの1、2年俄然興味がわいてきたところです。記事に関連してお考え等あればまたお寄せください。
返信する
Unknown (もりこ)
2015-11-07 15:12:30
フェイスブックのシェアから来ました。
中々天理教ではない方の天理教に関する記事というのが珍しいので多くの天理教信者がシェアしたりいいねしてアクセス数がふえたのではないかと思います。
わたしもその中の1人ですので(*^^*)
天理のまちに住んでいるとこの光景が当たり前になっているので、見たことの無い方の目にどのように映っているのか、怖がられたりしてないだろうか、色々気になるところです。
あたたかい街に見えたなら嬉しいです!
返信する
お待ち申し上げておりました。 (ツツコワケ)
2015-11-08 08:25:58
もりこさん、コメントありがとうございました。大体の様子がわかりました。
天理は山の辺の道の始点・終点でもあり、石上神宮から天理駅まではバスで移動する人が多いのか、天理教本部はじめまちなかをゆっくり観光する人は少ないのかもしれません。
私は詳しいことは知らなくても「陽気ぐらし」の一言だけで天理教に好感を持っていましたのでそういう目で見た結果の記事でした。
陽気ぐらしの街として実際に人々が陽気に暮らしているのを知ったら、信者以外の方も訪れたくなって観光客が増えるかもしれません。
あとは山の辺の道を歩き終えた人がぜひ立ち寄りたくなるような魅力的なカフェなどがあったりしたら、天理の街に足をとめて、天理教に触れる機会も増えるかもしれないですね。
私もまた天理に行くことがあると思います。信者でなくてもあたたかく受け入れてくれる街であってほしいと思います。
返信する
一二三四五六七八九十  (もののはじめのiina)
2019-08-07 09:34:33
いまは、「いそのかみ」と打つと「石上神宮」が変換されますょ。

「若し痛む所有らば、この十の宝を、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのたり)と唱えて振るえ。ゆらゆらと振るえ。此の如くせば、死人も生き反(かえ)らむ。」
これは、魂振で唱える呪術。振り動かして魂を呼び覚まし生命力と活力を与えるそうです。
石上神宮の秘術を物部氏が引き継いだとか・・・。


七支刀の実物を、「大神社展(東京国立博物館)」で 見ることができました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/1f8515228b2c0b2f3791d2f0491c006d

返信する
Unknown (kuragesuke)
2019-08-12 21:03:33
もののはじめのiinaさん、こんばんは。
ツツコワケです。
泊まりがけの仕事が続いていたため、お返事が遅くなりました。すみません。
私も大神社展は見に行き、過去に記事にしてあります。
七支刀は見たのに記憶が今となっては定かでない私も困ったものです。やはりブログその他で記録に残しておくということは大切だと思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。