日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

60年ぶり大遷宮 出雲大社 高層神殿の証拠

2013-12-22 21:39:18 | 旅行
10月に、神庭荒神谷遺跡訪問記を書きましたが、同時に訪れた出雲大社についても書かねば年が越せません。
そもそも、なぜ10月にあわただしく1泊で出雲に行ったのかというと、今年は出雲大社で60年ぶりの大遷宮の年であり、それを記念して、出雲国風土記「高層神殿」追体験事業「御柱建立」というものが行われることを知り、それを見てみようか、と思い立ったためです。

唯一完本として残っている『出雲国風土記』で、神門郡にある吉栗山についての説明に、
「天(あめ)の下つくらしし大神(すなわちオオクニヌシ)の宮材(みやき)造る山也」
とあり、つまりはオオクニヌシをまつる出雲大社を造営するための材木を切り出す山である、とあります。
そこで、この事業では、この記録にのっとって、吉栗山から長さ17m、直径80cmの杉の巨木を3本切り出して、9月に神戸川でいかだ流しをして運び、10月6日に出雲大社前の通りで「里曳き」を行い、11月10日にその3本を束ねて建てる、ということをして古代を追体験しようとしたのですね。
その一連の事業の中で、10月6日がどうにか都合がつくので、行って見てきたわけです。

まず、60年ぶりに、屋根のふきかえを中心として、建物の全体的な修造を行った出雲大社本殿の写真を見てください。2008年に神様(大國主大神とHPには書いてあります)を仮の神殿に移し、修造を行ってきて、この5月に元の本殿に戻したので、今年が「平成の大遷宮」と言われています。修造は、平成2016年まで続くそうです。
 2005年
 2013年
上の写真は、私が2005年に行った時のもの。その時は、かなり屋根がいたんでいて、気の毒な状態でした。しかし、下の今年の写真・新しくふきかえられた屋根は、見事に美しく復活していました。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根は、ものすごい厚みです。1mもあるとか。この本殿の高さは24mあり、神社建築としては一番大きなものです。

同じく今年20年に一度の式年遷宮を行った伊勢神宮は、20年ごとにすべての建物を隣の敷地に全く新しく建て替えるという形で行われます。持統天皇の時代から、1300年以上、20年間営々と建て替えを繰り返してきたわけです。
出雲大社の場合は、本殿は建て替えず、屋根のふき替えや部材の修理だけを行っています。今の建物は、江戸時代(1744年)のものです。

この出雲大社は、かつてはおそろしく高層の建築だったといわれています。
平安時代(950年頃)の『口遊(くちずさみ)』という本に、「雲太、和二、京三」と、当時の巨大建築物の順番が記されています。それによると、「雲太」とは出雲大社のこと、「和二」は奈良(大和)の東大寺大仏殿、「京三」は京都御所の大極殿で、これによれば、出雲大社が一番大きかった(高かった)と考えられています。
本殿の高さは、現在では8丈(24m)ですが、往時は東大寺の大仏殿の15丈をこえる16丈(約48m)あったのではないかということです。32丈(約100m)あったのではという考え方もありますが、16丈説が有力です。東大寺大仏殿より高いというのは、相当なものですよ。そんな巨大な神社が、なぜこの出雲に・・・?というのが、私にとって疑問の一つです。

2000年に、出雲大社の拝殿と八足門の間の地下0.5~1.5mから平安時代末と考えられる巨大な本殿跡の一部が確認されました。その際、杉の木3本を1本に束ねた、直径約3mの柱の根本部分が3ヵ所で発見されました。
出雲大社は、平安時代末頃の平面図が残っていて、その図でも、3本柱を金輪で縛った柱が描かれており(金輪造営図)、本居宣長が江戸時代にこれを紹介しました。この図は本当だったことが、2000年の発見で証明されたわけです。これは宇豆柱とよばれており、2,3年前に上野の国立博物館に来た時に私も見ました。今回も出雲大社の隣の古代出雲歴史博物館に展示してあったのを見ました。こんな太い木を3本たばねて柱にするとは、どれだけ巨大な神殿だったのだろうと、想像を絶します。古代出雲歴史博物館のリンクを貼っておきます。
http://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=96

その柱の大きさをイメージするためでしょうか、拝殿前のスペースの石畳に、三本柱の○が表示してありました。大きいです。


復元した模型も作られていますが、妙に足が長くて不安定な感じです。本当にこんなだったのかなあ?と疑問を持ちますが、なんと、弥生時代の壺に、これと似たような高層建物が描かれたものがあるのです。しかもその出土は島根県の隣の鳥取県。その絵がわかりやすいサイトのリンクを貼っておきます。稲吉角田(いなよしすみた)遺跡(弥生中期)といいます。
http://www.geocities.jp/yamauo1945/yayoikaiga.html

この壺は、上にも書いた古代出雲歴史博物館に展示されています。ゆっくり回っていて、ぐるりと絵が見られるようになっています。しかし、解説が控え目なので、出雲大社と似た高層神殿が描かれている、ということに注目して見ている一般客は、その時はいませんでした。

この博物館には、卑弥呼が魏に使いを送った「景初3年」銘のある三角縁神獣鏡も展示されているのですが、これも解説が控え目なので、お客さん達は素通りしていきがちです。「景初3年」銘の鏡は、全国で2枚しかありません。このうちの1枚が、島根県の神原神社古墳で見つかっています。本当に卑弥呼がもらってきた鏡なのかは謎ですが、いろいろと考えながら見たい鏡です。しかし、お客さんは気付きません。ちょっと残念でした。すばらしいお宝がたくさんある博物館なのですが、展示方法に工夫があってもいいかなと思いました。

さらに、この博物館には、あの神庭荒神谷遺跡で発掘された銅剣たち358本すべてが、一挙に展示されています。それはそれは圧巻です!広い壁一面全部を埋め尽くしています。改めてすごい数だと圧倒されます。加茂岩倉遺跡の×印のある銅鐸も展示されています。
ここも、写真撮影禁止なのかはっきり表示がなく、写真を撮っているような人がいて、近くのお客さんが、写真を撮っていいのか悪いのかちゃんと書いておかないとだめなんじゃないの?と係員に言っていました。そうなんですよね。私も、撮っていいのかな?とちょっと迷っていました。
とにかくものすごいお宝、名実ともに国宝です。大事に保管し、適切に公開してほしいです。

今日はここまでとします。