九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

富士の巻狩り そして 畠山と和田で元宮を再造営

2022-10-26 | 永田氏

 

 

 

まず、24ページ

『征夷大将軍 源頼朝 富士の巻狩りヲナシ』

『保元平時ノ役ニ於ケル 其父等ノ戦功ニヨリ 富士山二十里四方ヲ賜ハリ・・・』

忍ビ来リシ落人‥‥は、三浦源九郎事宮司宮下源太夫義仁・同庄九郎重泰・同治九郎義重・同善九郎義基・柏木忠七郎義政・渡部庄太夫綱重・大森茂二郎治隆・天野源太郎景国・武内兵三郎長貫・長田源二郎忠利等…

 

26ページ 建久六年 畠山重忠と和田義盛が奉行として元宮七社を再造営。

 

27ページ 関守を天野景国と長田忠利に

 

和田義盛は、この富士の元宮周辺に詳しかった可能性があることがわかった。

逃げ込んだ可能性もある!

 

 

 

 

 

 

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源重成が気にかかるが、先に長田源二郎忠利を調べる。

2022-10-26 | 永田氏

源重成、とても気にかかっている。

どの人が該当するのだろうか? 義光の弟義綱の裔という話だが。

 

しかし、本題は【長田氏】なので、こちらの【長田源二郎忠利】から調べていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

【元官社正一位一幣司元官小室浅間神社私考】という本を見つけた。

この中にヒントがありそうなので貼っておこうと思う。

 

【鎌倉殿の13人】のかなり以前の回にあった【富士の巻狩り】が、今頃になってクローズアップされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三浦義明の孫であった三浦(源重成)あらため宮下源大夫義仁と和田義盛

2022-10-24 | 永田氏

前回の【神皇紀】から、関係のありそうな箇所をピックアップ。

(三浦義継のことが義綱なのかもしれない…)

義綱の嫡子義明は三浦平大夫為道の娘を室とし、三浦郡を食み、衣笠城に居る。

久寿二年(1155) 三浦大佐に補任。

義明に六子あり。長男義顕、次男義澄という。

義顕、源為義の娘若櫻姫を室とす。

義顕、保元の乱に敗走、近江佐々木秀義館に匿われる。

平治の役、義朝につき、敗走。熱田大宮司の館に役ず。

三河・遠江を経て,駿河の富士川に至る。

敵に襲われ、大宮に逃げる。

応保元年(1161)に富士山元宮 大宮司 宮下記太夫政仁は、三浦上野守義顕の長子源甚吾重成 事 源九郎を以って養子となし、長女春子に配し、熱田大神宮尾張源國住と譲り、これに太神宮の大宮司を譲る。

名字官名を賜わり、宮下源大夫義仁と称す。

 

そこで、大事な情報が入ってきました。

この義仁と和田義盛の祖父はともに三浦義明。

和田義盛が富士の山に潜んでいたかもしれない‥‥という情報です。

もしも、そうならば嬉しい限り。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=715

 

イヤー面白いデス。

源頼朝は、長田藤資家や、その息 忠利に会いに、行ったのではないでしょうか?

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服常方・服助常親子は長田経方・長田資経親子か? 宮下文書にも登場していた資家!

2022-10-24 | 永田氏

まず、調べやすい【長田資経】周辺から見ていこうと思う。

長田藤七郎資家 というのが源頼朝に附けた人物となる。

 

まだ調査中だが(経方) ー 資経 ー 実経(広経)

                 ー 二男・資家

 

 

また、【服部庄】というキーワードで因幡国を調べていくと、なんと伊福部氏がいた宇倍神社領であり、

因幡国法美郡 服部庄とある。

つまり、富木郷のあった場所と同じ法美郡である。場所は離れて見えるが、服部庄は大きかったのかもしれず、宇倍神社の奥とつながっていた可能性もあるのではないかと思う。

以下に、因幡国のことが詳しく述べられており、助けになった。

 
 

袋川流域風土記

https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/fudoki.pdf

福部村が服部庄とは誰も言及はしていないのかもしれないが、私の想像では広い範囲だったとすると稲葉山の麓の宇倍神社と近い距離。

 

ところで、この因幡国の長田氏(服部・伊福部)若狭国の永田氏がどうも繋がっているような気がする。

なぜならば、因幡国の因幡(稲葉)と長田のコンビが、また若狭国に勢力をもっていた【稲葉氏】(中原)と、長田(永田)のコンビにも見えてくるのである。

 

さらに、突飛にも思えるのだが、若狭国の永田時信の系図に三浦氏が現れてくることから探っていくと、

永田が三浦氏とつながった理由も、実は富士の宮下文書に書かれていることと繋がっているのではないだろうか?

そこに驚くことに、長田藤資家も登場しているのである。

 

宮下文書に関する記事があった【水石の美を求めて】さんより、一部拝借致しました。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-6.html

三浦義明の長子義顕は、保元の乱・平治の乱に破れ、平治2年(1160年)富士阿祖谷に落ち、寒川神社の大宮司・宮下義太夫政仁の計らいで宮伴となり、翌年寒川大明神を元始にもどし富士八幡と改めた。

そして、嫡子源重成を宮下源太夫義仁に改名させ富士七廟(富士高天ヶ原神廟)の大宮司を継承させた。

 

源重成、とは聞いた名前である。(=宮下源大夫義仁)

 

この大宮司継承した重成は

【源義朝】の長男であった源義平

義平の母である【三浦義明娘】

という関係とどこかで重なり合っているのかもしれない。

 

三浦義顕の養子?として源重成を迎えたのだと思う。

日牟礼庄を預かっていた重定の兄であった源重成だろうか?

それとも別人だろうか?

近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」

源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。

wikipediaより ↓

義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の源義隆は死に、朝長も腿を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の源重成平賀義信、家人の鎌田政清・渋谷金王丸の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。

 

確かに、義朝が歿した際には、散り散りになって、何処かに潜み匿われたに違いない。

 

上記の記事の中には「徐福の子孫は必ず名前に徐福の福を付けるとあり、伊福部・服(福)部とどこか通じる?

この徐福がいたといわれている場所は、波多氏が活躍していた場所に近い。

きっとこの辺りでつながりができた事と思われる。

 

 

まだバラバラな情報を集めてきただけだが、きっとココに何かあると思う。

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E7%B4%80/vbHJABPPZxYC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E9%95%B7%E7%94%B0%E8%97%A4%E8%B3%87%E5%AE%B6&pg=PP464&printsec=frontcover

 

最後に【神皇紀】を少々貼っておこうと思う。

 

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相撲と関係のある神社 出雲の野見宿禰神社 長田神社(神戸・大阪) 養父 水谷神社 隠岐 

2022-10-22 | 永田氏

【相撲】の観点から神社をweb情報から拾い集めてみようと思う。

私が知っている神社は数が限られているので、他にもきっとあると思う。

ご存知の方は是非ご一報を!!

 

出雲大社の手前にあった「野見宿禰神社」

近江の多賀町の多賀神社では九月九日、

京都の梅宮神社では、八月二十八日に嵯峨天皇例祭を催して相撲神事を行う

 

上野国神名帳緑野郡正五位下土師明神

下野国藤岡の土師神社

土師神社(群馬県多野郡美水里村本郷)

例祭は陰暦の八月朔日(現在は九月一日)に行われたので、八朔相撲と呼ばれた。

 

能登国羽咋神社の唐戸山相撲場、

 

養父郡 水谷神社 ねってい

隠岐島 奉納相撲

吉田司家の「相撲三神」は、「天照大御神」、「戸隠大神」、「住吉大神」であったといわれています。

 

相撲神社奈良県桜井市にある。

穴師巫兵主神社鳥居の右手場内に拡がる「カタャケシの社」に鎮座する

『師型兵主神社(奈良)の摂社である。「相撲発祥の地」

 

石川羽咋市第垂羽咋神社はくいじんじゃ化財。神事相撲」

 

穴師坐兵主神社

https://genbu.net/data/yamato/hyousu_title.htm

 

日撫神社秋祭(奉納相撲)

https://maibarand.shiga.jp/sumou-odori/

滋賀県米原市の山津照神社(やまつてるじんじゃ)で『奉納角力(ほうのうすもう)』が行なわれる。

 

坂田郡 相撲神社

 

何と奉納相撲行事を行う神社は1147社もあるそうである。

今回調べたところ、中国山東省にも相撲があったそうだ。

 

 

 

 

 

 

長田神社の「長田氏」が「永田氏」となっていたかも。

(信長公記に永田氏の相撲の記事がある。初めは行司役となっていた永田氏が決勝戦に?)

https://kininaruart.com/artist/shincho/n11.html

大方、相撲終り、既に薄暮に及ぶ。 永田刑部少輔阿閉孫五郎 、強力の由、連々聞こし召し及ばれ侯て、両人の働き御覧じたくおぼし召され、右、御奉行衆の相撲、御所望なり。初めには 堀久太郎蒲生忠三郎萬見仙千代布施藤九郎後藤喜三郎 、取られ侯て、後に 刑部少輔阿閉 、暫し手相にて組まれ侯。勿論、 阿閉 が器量 骨柄勝れ侯て、力の強き事、隠れなく侯へども、仕合せ侯か、総別強く侯か、 刑部少輔 勝ち相撲に侯。

 

更に土師氏は大江氏につながっていると言われているために、養父郡の神社を任せて水谷氏となったと思われる大江広元の姉の息子 水谷重清がいる。

 

長田氏・永田氏・大江氏、どちらを向いても「九里氏」とつながりがある。

 

 

 

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服常方 武蔵国の住人 相撲人

2022-10-21 | 永田氏


 

 

この二つの文書で、因幡国(武蔵国の住人とある)の 【服 常方】と【助常】が親子であることがわかり、共に相撲人であることがわかった。

実は、そこは以前からわかっていたのだが、【武蔵国の住人】が判明した。

 

源頼朝に出会う以前から、武蔵国にいた?のかもしれない。

天永二年八月の長秋記により記述である。

 

この【服】は一つは服部氏 もう一つは伊部氏 が考えられる。

服部は機織に従事した部民。服部を統轄したのが服部連氏。服部は武蔵・安房・美濃・越前・佐渡・因幡・隠岐・備中・阿波国に分布し、服部連氏は大和・山城・摂津・和泉・近江・播磨国に分布する。〈参考〉

 

武蔵国都筑郡

 

 

 

以前は因幡国のことを中心に考えていたので、当然伊福部氏であろうと判断してしまったが、武蔵国の住人‥‥という事で、すこし考え直して【服部氏】の可能性も残しておくことにした。

 

伊福部氏も武蔵国に名代として派遣されていたようである。

 

https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/fudoki.pdf

...因幡の国司となった土御門氏(村上源氏)が宇倍神社の伊福部氏を圧迫して自領…

 

 

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永田時信の周辺 再考 (3) 東殿と呼ばれていた

2022-10-17 | 永田氏

前回の「つまり下総局の夫は「原氏」であったのだ。」は怪しいかもしれない。

が、佐々木氏の永田氏の系図の中に永田長綱(原殿)とある。「原殿」

 

そして「下総房」の妻が「下総局」であった、という可能性もある事に気が付いた!

永田時信次男下総房と書かれている本があった(小浜市史)

 

永田時信の妻は小槻氏という。

更に時信は【東殿】と呼ばれていた。

そう呼ばれていたからには東国に居たことがある可能性もある。藻原の近くにも「永田」と云う地名があった。

 

永田時信・妻 小槻氏

時信次男 下総房・妻 下総局 

本郷頼忠・妻 藤原守綱(本郷・重代公文)娘  妻の「本郷」を頼忠が名乗る。

   私のなかでは、この公文職の本郷氏は大江・中原氏であろうと思っている。  

   大江広元の妻は多田氏(山縣氏と多田氏は近い 山縣系図に原頼忠が存在する。)

頼忠娘・夫 三浦家村(道阿)

頼忠娘 山田局・夫 願生房

頼忠娘(真阿) 夫 若狭一宮・二宮 禰宜景継(善真)導師は多田妙観阿闍梨

 

真阿と景継の娘・夫 和田平井実家

 

ここで、平井氏とつながる。

 

神官牟久氏多田氏・和久利氏・木崎氏などの有力国人層と血縁を結び、本郷氏・和田氏などとも婚姻関係をもつなど、つながりは広範囲に及び、また国分寺大別当・多田薬師堂との関係もあった。加えて、一二代景継の妻は太良庄開発にかかわる長田下野守師季の曾孫進士刑部允頼忠の母で(一二宮社務代々系図)、当社神官が若狭国中枢部の在地勢力と融合を図りながら、勢力を拡大していったことが推定される。
   

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-04-04-04.htm

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永田時信周辺 再考(2)

2022-10-16 | 永田氏

仮想なのだが、「下総房」ではなく、「下総局」(富木常忍の母)と仮定しながら進めてみようと思う。

「下総房」(男性かな?)が正しいのかもしれないが、、、、

仮想の実況なので、間違いも多々あると思う。

下総局は、富木蓮忍の妻であったか、蓮忍の妻の姉妹であったかのはずである。

千葉胤綱1198-1228・の妻は佐々木信綱娘だったが…何処とつながるか。)

 

下総の局の父は「永田時信」

(以前は千葉胤正の娘と仮定しつつ進めてたが、今回は永田時信の娘と仮定)

 

(近江中原・九里)蓮忍の妻ならば、息が本郷頼忠(善願)となり、頼忠の妻が藤原守綱の娘となる。

つまり、近江国近江八幡の九里という場所にあった本郷城が、久里城でもあったことの理由ともなるかもしれない。

 

本郷公文藤原守綱 大和興善寺阿弥陀像胎内文書にその名があったようだが、他にはまだ見つかっていない。

 

この本郷氏は一説には「大飯の本郷氏」の従兄弟筋のようである。

本郷美作左近大夫将監隆泰の従父兄弟となる筋と繋がってくるようなのだ。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-03-01-04.htm

 

従兄弟、従父兄弟、という事は、父や母、もしくはその兄弟姉妹の子ども同士。

ということは、やはり近江国近江八幡に美作氏から本郷氏になった周辺の人物がいたのだ。

朝親、有泰、虎王丸・・・・

 

この朝親、以前しらべていた大江(中原)氏であった人物なのではないだろうか?

大江朝親の兄は、僧の親厳であり、小野の隋心院の大僧正であった人物で、その関係か近江八幡の九里の場所は隋心院領だったのである。

父は飛騨守親光(大江中原氏)である。

 

 

頼忠という名前は九里の中では聞いたことがなく、

「清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏が知られる。」というのが一番近い説だろうか?

 

つまり下総局の夫は「原氏」であったのだ。

 

清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏もあるそうだ。
(こちらは良峯姓ではないようなのだが。)
源国政は、系譜上従兄弟にあたる源頼政の養子となっていたとされ、父より美濃国山県郡の所領を継承する一方、都で斎院次官などを務めて従五位下に昇ったとされる(『尊卑分脈』)。
その詳しい動向は不明であるが、以仁王の挙兵で自害した頼政の首は郎党の渡辺省・猪早太らによって国政の美濃の領地内(現在の岐阜県関市蓮華寺)に運ばれ葬られたという伝説が存在する。

四人の子息たちもそれぞれ美濃国内に所領を有し、美濃源氏山県氏族として勢力を持った。

日本通信百科事典によると
「山県国政 : 通称は山県太郎/美濃太郎、「山縣国政」とも呼ばれる。源頼光の玄孫、頼国の曾孫、多田頼綱の孫、国直(山県冠者)の子、能勢国基・敦光の兄、飛騨瀬国成(飛騨瀬氏の祖)・頼清・福島国時・頼兼(清水冠者)の父。山県氏(山縣氏、美濃源氏)の祖となった。同時に従兄の馬場頼政の猶子となった。 」

 

私の以前の記事で恐縮だが、以下とつながってくると思う。
佐竹義重の母が、山縣先生源国政の娘カ…とカがついている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/5601751f14e49e63875d205682a98516

 

この記事を読むと佐竹の関係から、片岡経春(妻:佐竹義政)にも繋がるのだ。

 

《 符合すること 》

 

☆ 平時忠の姉時子が二位局であり、法美郡 岡益の碑(伝:安徳天皇陵)のすぐ近くに冨城郷(この地図では冨来郷)があったこと。

こんな偶然はありえないので、この安徳陵を守っていたのだと思う。

 

☆  近江八幡の 本郷城がイコール久里城であったこと。

 

☆  近江八幡九里 が 隋心院領であったこと。(美作朝親=大江中原朝親=朝親の兄が小野隋心院大僧正の親厳であったこと)

 

☆  永田時信の娘と思われる「下総局」の夫が「原氏」であった可能性があること。(頼忠の父は原氏・清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏と思われる。)ここで、土岐氏とのつながりができるのではないだろうか?しかも母は「宇多源氏佐々木党木村兵部大輔定通女」養父は源頼政

 

☆  佐竹義重の母が源国政の女(娘)で、片岡経春の妻が佐竹義政の娘でもある。

 

完璧すぎるくらい。

此処で思い出すのは、土岐氏が近江の船木庄周辺に隠れ住んだこと。

「頼重三代の後胤舟木兵庫大輔(助)頼夏・志・朝家に篤しと雖も、父祖頼重落城後・本領内江州舟木庄に引籠して、敵色立てず。」

 

 

もう少しこの辺りを詳しく調べてみようと思う。

 

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永田時信周辺 再考 (1)

2022-10-15 | 永田氏

永田時信 周辺の系図

「下総房」ではなく、「下総局」だったのではないだろうか? その疑問を探ろうと思う。

そうすると、息子(もしくは甥)が【本郷進士刑部允頼忠(善願)】となり、後に本郷城が久里城になったとしても自然! この頼忠は常忍の兄弟という事になる。

 

丹生二郎隆清 ↓

隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,

平師季は父師妙と、略奪したり放火したりなのだが、平時忠の従兄弟(この従兄弟は永田にかかっている言葉とみた場合)が永田時信となる。

時忠の母と平時子(二位尼)の母は同じである。

永田時信と従兄弟と云うからには時忠の父平時信の兄弟姉妹の息ということになろうか?

 

富木蓮忍・常忍は因幡国では岡益の碑と安徳天皇陵のすぐ近くに住んでいたこともあり、そこがまず気になる点である。

で、系図の時信の次にある「下総房」が、「下総局」で蓮忍入道の妻か姉妹で、常忍の母親となる人物ではないだろうか?と、今朝思いついた。(もしかすると妻の姉妹かもしれない。)

「房」「局」 

 

図書館のレファレンスに以下の情報があった。

【1093年(寛治7)、出羽国で平師妙(もろたえ)、その子師季(もろすえ)が、出羽守信明(藤原氏か)が上洛しようとした隙をねらい、その館をおそって放火し、財宝をことごとく奪い去るという事件がおこった。

(中略)

かれらは前九年の役に安倍氏の武将として勇戦し、『陸奥話記』に(中略)伝えられた平国妙の子であろう。奥州藤原氏の始祖清衡の実父藤原経清(つねきよ)は、国妙の外甥と『陸奥話記』にあるから、藤原清衡と平師妙とは遠縁にあたる」「賊の首および降人らは前九年の役の先例にしたがって京都におくられ、検非違使に引き渡されたが、その日のありさまを詳しくかきとめた『中右記』によると(後略・引用記載)」との記載あり。・・・】

【『中右記』に、寛治8年(1094)3月に陸奥守源義綱が、出羽守信明の館を襲撃してこれを焼き財宝を奪った賊平師妙・師季父子の首と、一味の降人貞宗・貞房等を捕えて都に入る、という記述がある。(中略)国守の館を襲った平師妙は、前九年の役の際源頼義の武将で「平不負(へいたいふ)といわれた出羽国人平国妙の子ではないかといわれている」との記載あり。】

 

寛治7年(1093年)、平師妙師季親子が出羽守源信明の館を攻め、翌嘉保元年(1094年)、陸奥守源義綱郎党により鎮圧されたが、『中右記』によると、前年の寛治6年(1092年)6月には陸奥守・藤原基家の解文により、経清の子・藤原清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられていることから、両者を関連づけ、この師妙親子を清衡の大伯叔父である国妙の子及び孫ではないかとする見解がある。 】(wikipedia)

 

この平国妙の姉か妹が藤原頼遠の室となる。(藤原秀郷流との接点)

藤原頼遠は「下総住人・五郎太大夫」だそうである。(藤原経清の父)

経清の息はあの奥州藤原の藤原清衡となる。

 

twitter情報では「【平国妙】平安期の出羽国の武将。散位大夫。字は平大夫。武勇の誉れ高く、常勝の武将として「平不負」と称した。天喜五年、源頼義殿に属し黄海合戦に参戦。敵軍の捕虜となるが、外甥藤原経清殿の嘆願により一命を取り留められた。奥州藤原氏の初代清衡殿の大伯叔父。

千葉氏一族のHP(三浦氏)では【頼義の郎党。出羽国人。武勇あふれる人物で善戦し、敗北知らずであった。そのため、俗に平不負、字を平大夫と呼ばれた。しかし、黄海合戦で馬が斃されて捕らえられ虜となった。そのとき、敵将で婿の藤原経清(奥州藤原氏祖)によって助けられた。「武士猶以為耻矣」とされた。】

 

 

拾い集めたヒントは 以下である。

天喜五年1057年 

藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡

景継母ハ本郷重代公文掃部丞藤原守綱二女也。

時信は師季の兄弟の曾孫(ないしは孫)に当たる人で、このころこの国の東郷となにかのかかわりをもっていたとも考えられる。同じ年、若狭国は鳥羽院の分国になって ... 寡婦となった妻小槻氏は、隆清の遠縁にある「東殿」平時信をたより土着した。

和田平井実家

源頼義

平直方

久利氏(清原定隆は石見守・小野吉柯は石見・伊豆守)

大江親広・広時・政広・元顕(寒河江)

 

 

もう一度組み直していこうと思う。

 

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三上祝部

2022-10-10 | 古代からのつながり

「御上」「三上」というワードについて調べていこう。

【近江】の本の第六節に野洲郡の記載があり、そこに出てくるキーワードを調べてみる。

https://www.google.co.jp/books/edition/%E8%BF%91%E6%B1%9F/oFon3fP2VfYC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%B8%89%E4%B8%8A%E6%96%B0%E5%A4%A7%E5%A4%AB&pg=PP362&printsec=frontcover

 

 

 

 

古事記 開化段

又、近淡海(ちかつあふみ)之(の)御上祝(みかみのはふり)を以(もちゐ)て伊都玖(いつく)【此の三字音を以ゐる。】天之御影神(あめのみかげのかみ)之女(むすめ)息長(おきなが)の水依比売(みづよりひめ)を娶せ、
生れましし子(みこ)丹波(たには)の比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)【此の王(みこ)の名、音を以ゐる。】

http://himiko-y.com/scrp1/kojiki-23.html

 

古事記をそのまま読む さんのページに以上のようにあった。

 

息長が神功皇后に至るまでの系図は以下に詳しかった。

ここのページは私が行ってみたいなぁ~と思っている神社や場所が写真で載っているので感謝デス。

https://ameblo.jp/masoho39/entry-12109750267.html

 

memo

宇美八幡宮 品陀和氣命/誉田別命 誕生の場所 応神天皇

当宮に伝わる「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだとされる地に、敏達天皇3年(574年)、応神天皇を祀ったことに始まるとされる。

 

平子氏…記憶が。

平子・仁保氏・石川氏 この仲には経久という名も経季という名も見えた。

しかも仁保は、近江に所領も持っていたような記憶が…ここと三上氏とつながってくるのだろうか?

 

「鎌倉御家人 平子氏の西遷・北遷」の展示会が過去にあったようである。(2003年)

鎌倉時代になると、関東武士の中には、守護・地頭として全国各地に赴くものが出てきます。彼らを西遷・北遷武士などと呼んでいます。平子氏もその一つで、武蔵国久良岐郡平子郷(横浜市中・南・磯子区付近)を本拠地とし、周防国(山口県)越後国(新潟県)の地頭として赴いています。やがて土着した彼らは、大内氏や上杉氏などの有力な家臣となり、中世を生き抜きます。

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