今、考えていたこと。
吉田経房と源頼朝との接点です。
いったいどこに~~と思ったら、頼朝のwikipediaにありました。
義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛らと共に後白河天皇に従って勝利した。
頼朝は保元3年(1158年)に後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補された。上西門院殿上始において頼朝は徳大寺実定、平清盛といった殿上人が集う中で、坊門信隆、吉田経房らとともに献盃役をつとめている。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任されている。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。
経房の方のwikipediaの小出し
統子内親王の立后・院号宣下の際、経房は皇后宮権大進・上西門院判官代、頼朝は皇后宮権少進・上西門院蔵人となっている。『山槐記』平治元年2月19日条によると、上西門院の殿上始において徳大寺実定・平清盛などの殿上人に酒が振舞われたが、最初の酌を頼朝が、二回目の酌を経房が担当している。
~~~*~~~
何故【初代関東申次】となったのかがわかりました。
その上西門院とは…wikipediaより
統子内親王(むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日) - 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の皇族。初名は恂子。鳥羽天皇第2皇女、母は中宮藤原璋子。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳天皇朝賀茂斎院。後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院。院号は上西門院。法名は金剛親・真如理。
大治元年(1126年)8月17日内親王宣下、同年12月27日著袴。同2年(1127年)4月6日准三后、斎院に卜定される。同4年(1129年)4月19日、紫野院に入る。長承元年(1132年)6月29日、病により退下。同3年(1134年)6月16日、恂子から統子に改名。保元3年(1158年)2月3日、後白河天皇准母として皇后宮となる。同4年(1159年)2月13日、院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、仁和寺法金剛院(母待賢門院璋子から相続していた)において出家。寿永元年(1182年)7月8日、藤原家房を猶子とする。文治5年(1189年)7月20日、六条院において64歳で崩御。花園東陵に葬られた。
『長秋記』『今鏡』等によれば、幼少時より並ぶもののない美貌の女性であったという。母待賢門院璋子時代からの家臣・女房らが仕えた上西門院統子の御所は、源氏・平氏双方の縁者が多く見られる一方、優れた歌人たちを輩出した文雅豊かなサロンでもあった。またその准母にもなった同母弟後白河天皇とは親しい仲で行動を共にすることも多く、彼女の死に際して後白河院は深く悲しんだと伝えられる。
~~~*~~~
なるほど。
wikipedia、すごいデス。
どなたが書いていらっしゃるのか。ありがとうございます。
吉田経房と源頼朝との接点です。
いったいどこに~~と思ったら、頼朝のwikipediaにありました。
義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛らと共に後白河天皇に従って勝利した。
頼朝は保元3年(1158年)に後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補された。上西門院殿上始において頼朝は徳大寺実定、平清盛といった殿上人が集う中で、坊門信隆、吉田経房らとともに献盃役をつとめている。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任されている。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。
経房の方のwikipediaの小出し
統子内親王の立后・院号宣下の際、経房は皇后宮権大進・上西門院判官代、頼朝は皇后宮権少進・上西門院蔵人となっている。『山槐記』平治元年2月19日条によると、上西門院の殿上始において徳大寺実定・平清盛などの殿上人に酒が振舞われたが、最初の酌を頼朝が、二回目の酌を経房が担当している。
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何故【初代関東申次】となったのかがわかりました。
その上西門院とは…wikipediaより
統子内親王(むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日) - 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の皇族。初名は恂子。鳥羽天皇第2皇女、母は中宮藤原璋子。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳天皇朝賀茂斎院。後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院。院号は上西門院。法名は金剛親・真如理。
大治元年(1126年)8月17日内親王宣下、同年12月27日著袴。同2年(1127年)4月6日准三后、斎院に卜定される。同4年(1129年)4月19日、紫野院に入る。長承元年(1132年)6月29日、病により退下。同3年(1134年)6月16日、恂子から統子に改名。保元3年(1158年)2月3日、後白河天皇准母として皇后宮となる。同4年(1159年)2月13日、院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、仁和寺法金剛院(母待賢門院璋子から相続していた)において出家。寿永元年(1182年)7月8日、藤原家房を猶子とする。文治5年(1189年)7月20日、六条院において64歳で崩御。花園東陵に葬られた。
『長秋記』『今鏡』等によれば、幼少時より並ぶもののない美貌の女性であったという。母待賢門院璋子時代からの家臣・女房らが仕えた上西門院統子の御所は、源氏・平氏双方の縁者が多く見られる一方、優れた歌人たちを輩出した文雅豊かなサロンでもあった。またその准母にもなった同母弟後白河天皇とは親しい仲で行動を共にすることも多く、彼女の死に際して後白河院は深く悲しんだと伝えられる。
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なるほど。
wikipedia、すごいデス。
どなたが書いていらっしゃるのか。ありがとうございます。
西行も関係者ですね。花園に墓がありました。兵衛と親しかったようです。
小説の中ですが「東大寺の大仏に為に奥州に行って金を集めてくるように」と頼朝に頼まれて、
西行法師、無事に砂金を持ち帰ります!
サロンの方も、常連だったのかもしれませんね。