岡田氏の系図を探していて、「乾氏」の系図を発見。
今までの謎が解明される?かもしれない。
土佐諸家系図の中に「乾氏」があり、重要なメモが書かれていた。
最初の部分をご紹介したい。
そして、乾甲斐守秀行(氏にも見えるのだが)を調べると、居たのである。
https://www.daitakuji.jp/%E5%8D%97%E5%8C%97%E8%AB%B8%E5%A3%AB%E5%B8%B3-8-%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1/
このページには2名の乾氏が載っていて「 永原城主 佐々木末籏頭 〇乾主膳正秀之・永原城 屋形七代経方二男豊浦冠者行実子流 乾甲斐守秀之・
長光寺 乾次郎三郎」が記載されていた。
永原氏との関係を見ると、九里を連れ出して逐電してくれた「深尾秀長」の母が永原越前守の娘である。
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html
つまり、乾・永原・深尾氏は繋がっている。
さらに、系図では始りが土岐氏であり、土岐氏も乾氏とつながっていたことがわかる。
これらを目で見て確認できたことが嬉しい。
そして、この同じ行実流の中に「九里」もいたのではないかと思われる。
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九里と六角佐々木氏の戦いを早く終わらせるためにもであったと思いたいのだが、九里備前守を殺したメンバーに永原氏が入っている。
(これは六角佐々木氏の命によってと思う。)
今回わかった事は、長命寺縁起に「岡山城主 乾甲斐守」と書かれていたのだが、それは「乾甲斐守秀行(秀之)」であったろう…という事であった。
これは九里が滅亡した後であったのでは、と思われる。
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以下は、佐々木哲氏の「永原氏の系譜」からの抜粋だが、
「『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を伝え、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住み、その七代の孫に永原大炊助宗行が出たという。そのとおりであれば蒲生氏と同祖であり、右馬允藤原季俊の長子俊秀(従五位下)の子孫が永原氏であり、次子惟俊の子孫が蒲生氏となる。市三宅城主永原(三宅)氏が馬允を名乗るのは、この右馬允季俊に由来しよう。」
・・・とあり、永原氏もまた秀郷流、滝口俊秀三男瀬川俊行の七代孫から始まるという。そして蒲生氏と同祖であった、となる。
はじめまして。
ご来訪ありがとうございます。
私も乾道謙から乾和三の間に「乾甲斐守秀行(氏)または(之)」とその息伊賀守が入るのだろうと思います。
wikipediaでは和信、宣光、和三の父が「重頼」となっており、道謙の註に「頼明」とあるので、頼の字が通し字と思うのですが、「秀行(氏・之)」や重頼の息にもその字が見えないですね。
我が家の家紋ですが、榧之内十字紋で、板垣退助と同じと言われています。我が九里家のお墓にもこの紋を使っています。
お宅は如何でしょうか?
乾氏が、近江国水茎岡山城の戦いの後、後始末をしてくださったそうで、九里氏と近い関係ではないかと思っているのです。また、その水茎岡山城の近くの長命寺の縁起書には「岡山城主乾甲斐守」と記載があるそうです。
この伊賀守は、もしかすると九里=乾かもしれません。九里伊賀守高雄(=浄椿)で、父は員秀ではないかと言われています。九里伊賀守にはたくさんの名前があり、もしかすると「秀」のついた名前もあったかもしれません。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
私もこの部分も、謎で、ずっと知りたいと思っておりましたので、よろしくお願いいたします。
私の分で、ひとつ間違いがありました。
重頼~和宜~和信、宣光、和三
ですので、和宜の父が重頼です。
失礼しました。
乾 様
この乾氏に関係する場所で、現岐阜県揖斐郡池田町の情報が、とても重要だと感じています。
これから出てしまうので、簡単に書きますと、この近くに先祖と関わる土地があるのです。
後に記事にしたいと思います。
新たな展開となるような気がいたします。