クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

行田の荒木で合戦があった? ―荒木要害合戦―

2013年07月01日 | 城・館の部屋
 去年、於荒木要害合戦之時、致忠節、敵数多討捕之旨、被聞食候、尤神妙、
 然城中与力輩以下被疵云々、殊被感思食候
 (「足利家御内書案」)

「城」と聞くと、石垣の上にそびえ立つ天守閣を思い浮かべる人が多いが、
戦闘を目的とする砦もまた「城」と言った。
中世における城のほとんどは砦であり、
絢爛豪華になるのは時代が下がってからである。

行田の荒木にもかつて「要害」があった。
館から曲輪を一つ設けた程度の軍用施設だったのだろう。
上記の史料は、“足利義政”が荒木要害の合戦で活躍した“小山常陸介”に、
その戦功を賞したものだ。
これも、古河公方と関東管領(幕府)が衝突した享徳の乱における戦いの一つである。

「荒木要害」がどこにあったのかは定かではない。
ただ、『新編武蔵風土記稿』によると、
忍城主成田氏に属した「荒木兵庫頭」が長善沼に住んでいたということから、
「荒木要害」もこの付近に比定できるかもしれない。

荒木は水田の広がる静かな集落だ。
秩父鉄道の「荒木駅」も所在し、比較的目指しやすい。
しかし、長善沼は姿を消し、
享徳の乱の「荒木要害合戦」もすでに遠い。

そういえば、この付近に住む高校の同級生がいた。
羽生から自転車を走らせ、一度だけ彼女の家に集まったことがある。
一緒に行った友だちは、彼女のことが好きだった。
わりと人気のある子で、別の男子もその子が好きだと言っていた。

彼女の家に行って一緒に遊ぶなど、千載一遇のチャンスである。
ライバルに差を付けるまたとない機会も同然だっただろう。
あれは、1996年春の「合戦」だったかもしれない………

などと、「荒木要害合戦」に思いを馳せながら、
ぼくらが過ごした90年代の季節を重ねてみると、
時代と時代が交錯する。
そして、歴史的出来事はただ羅列された文字ではなく、
「詩」へと変わっていく……

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