“御殿”と呼ばれるものはたくさんあるが、
跡地になると妙に哀れである。
埼玉県鴻巣市に、“鴻巣御殿”と呼ばれたものがあった。
将軍家の休憩所である。
文禄2年(1593)、徳川家康の鷹狩りの休憩所として、
鴻巣に「御殿」が造営された。
家康が鴻巣御殿に足を運んだかは定かではないが、
三代将軍家光は立ち寄っているという。
「江戸図屏風風」には、家光が鴻巣御殿に到着した様子が描かれ、
かつての隆昌が偲ばれる。
しかし、将軍の休憩所といえども永遠ではない。
明暦3年(1657)に江戸城が大火に見舞われると、
城再建の材料調達のため、鴻巣御殿の一部が解体された。
残された建物も年月と共に朽ち、倒壊したという。
わりと呆気なく、哀れな最期である。
現在その跡地には、
「御殿」を偲ばせるものは何も残っていない。
地面はアスファルトに覆われ、
住宅が軒を連ねている。
ただ、鴻巣御殿の造営者“小池氏”が建てたという“東照宮祠”が、
ポツンと所在している。
文化財説明板を見なければ、そこが鴻巣御殿とは気付かないだろう。
東照宮祠にしろ、かなり目立たない場所にある。
意識しなければ、気付かずに通り過ぎてしまうに違いない。
ちなみに、鴻巣に雨のイメージを持つ人がいる。
免許センターへ更新に行ったとき、
土砂降りの雨に見舞われたそうだ。
鴻巣御殿の跡地に足を運ぶときは、
雨が似合うかもしれない。
土砂降りではなく、シトシトと降る雨は、
跡形もなくなった御殿の哀れさを誘うから……
御成町東照宮祠(埼玉県鴻巣市)
跡地になると妙に哀れである。
埼玉県鴻巣市に、“鴻巣御殿”と呼ばれたものがあった。
将軍家の休憩所である。
文禄2年(1593)、徳川家康の鷹狩りの休憩所として、
鴻巣に「御殿」が造営された。
家康が鴻巣御殿に足を運んだかは定かではないが、
三代将軍家光は立ち寄っているという。
「江戸図屏風風」には、家光が鴻巣御殿に到着した様子が描かれ、
かつての隆昌が偲ばれる。
しかし、将軍の休憩所といえども永遠ではない。
明暦3年(1657)に江戸城が大火に見舞われると、
城再建の材料調達のため、鴻巣御殿の一部が解体された。
残された建物も年月と共に朽ち、倒壊したという。
わりと呆気なく、哀れな最期である。
現在その跡地には、
「御殿」を偲ばせるものは何も残っていない。
地面はアスファルトに覆われ、
住宅が軒を連ねている。
ただ、鴻巣御殿の造営者“小池氏”が建てたという“東照宮祠”が、
ポツンと所在している。
文化財説明板を見なければ、そこが鴻巣御殿とは気付かないだろう。
東照宮祠にしろ、かなり目立たない場所にある。
意識しなければ、気付かずに通り過ぎてしまうに違いない。
ちなみに、鴻巣に雨のイメージを持つ人がいる。
免許センターへ更新に行ったとき、
土砂降りの雨に見舞われたそうだ。
鴻巣御殿の跡地に足を運ぶときは、
雨が似合うかもしれない。
土砂降りではなく、シトシトと降る雨は、
跡形もなくなった御殿の哀れさを誘うから……
御成町東照宮祠(埼玉県鴻巣市)
あるところでは中世期に鴻巣砦というのがあったと伝えておりますが、つい最近の訪問では周辺の開発の波に飲み込まれて永遠の謎に包まれてしまったという感じですね。
将軍が休憩する御殿というのは、一時の休憩でもかなりの整備をされた建物だったのでしょうかね?またどの位の広さの敷地を持っていたのかも少々気になりますね。
なお、私の持つ鴻巣のイメージは、燦々と照りつける街中というイメージがあり、雨が思い浮かばないのでありました。
鴻巣御殿は中世の鴻巣砦の跡地に造られたようです。
いまはすっかり住宅街になっていますが、
「江戸図屏風 を見ると、往時はかなり立派な休憩所だったことが偲ばれます。
(1万4千平方メートルあったとか……)
個人的に鴻巣は勝願寺が好きで、
伊奈忠次の墓碑の前で手を合わせます。
伝源経基館跡も土塁と空堀が残っていて、
心をくすぐられると思います。
埴輪の窯跡も検出されていますし、鴻巣はいい町ですね。