“あい八幡社”と呼ばれる神社があります。
それは埼玉県羽生市日野手新田に鎮座する八幡神社。
“あい”とは水に浸かって穂の稔らなくなった稲のこと。
日野手新田は水はけが悪く、すぐに“あい”となってしまうため、
これを除けるために八幡神社を勧請したということです。
日野手新田という地名からもわかるように、
ここは江戸中期に“三左衛門”という者が新たに開発した土地です。
それまでは人が住んでいなかったのでしょう。
地形分類図を見ても、ここは低地で常にジメジメとした湿地帯が広がっていたようです。
現在は水郷公園として開発が進み、湿地は次々に埋め立てられていますが、
あい八幡社のすぐそばには沼が広がっています。
『埼玉の神社』によると、この神社の鎮座する場所は特に水はけが悪く、
胸まで泥に入って稲刈りをするほどだったそうです。
日野手新田ではありませんが、
往古は舟を使って田んぼまで行ったという話が伝わっています。
つまり、それだけ沼地が広がっていたのでしょう。
利根川の洪水もさることながら、
いかに排水をするかというのが重要な問題でした。
いまでこそ、夏になるとどこまでも広がる水田風景を見ることができますが、
このような景色となったのはつい最近のことです。
明治期からの利根川の大改修工事でようやく水田が増え始めます。
それまでは畑がほとんどを占めていました。
さて、あい八幡社の祭神は“誉田別命”。
「八幡宮」と刻された石祠が現在の社殿にも安置されています。
新たに開発された土地とはいえ、人が定住するのは難しかったようです。
『埼玉の神社』には次のように記されています。
大正期には住民のほとんどが与兵衛新田や弥勒に転出してしまった。
そのため、当地に残った間下家が、六〇年余り当社及び神饌田の管理に当たっていた。
昭和四五年、土地改良によって、当社は再び顧みられるようになり、
分家を当地に出す者があり、これによって、当社も元のように村の神社として復帰した。
このあい八幡社も、転換期を迎えようとしています。
先に触れたように、開発の波が押し寄せてきているのです。
何年先かはわかりませんが、
いまとは全く違う景色になるかもしれません。
八幡社も現在から別の場所に移転するということです。
それは埼玉県羽生市日野手新田に鎮座する八幡神社。
“あい”とは水に浸かって穂の稔らなくなった稲のこと。
日野手新田は水はけが悪く、すぐに“あい”となってしまうため、
これを除けるために八幡神社を勧請したということです。
日野手新田という地名からもわかるように、
ここは江戸中期に“三左衛門”という者が新たに開発した土地です。
それまでは人が住んでいなかったのでしょう。
地形分類図を見ても、ここは低地で常にジメジメとした湿地帯が広がっていたようです。
現在は水郷公園として開発が進み、湿地は次々に埋め立てられていますが、
あい八幡社のすぐそばには沼が広がっています。
『埼玉の神社』によると、この神社の鎮座する場所は特に水はけが悪く、
胸まで泥に入って稲刈りをするほどだったそうです。
日野手新田ではありませんが、
往古は舟を使って田んぼまで行ったという話が伝わっています。
つまり、それだけ沼地が広がっていたのでしょう。
利根川の洪水もさることながら、
いかに排水をするかというのが重要な問題でした。
いまでこそ、夏になるとどこまでも広がる水田風景を見ることができますが、
このような景色となったのはつい最近のことです。
明治期からの利根川の大改修工事でようやく水田が増え始めます。
それまでは畑がほとんどを占めていました。
さて、あい八幡社の祭神は“誉田別命”。
「八幡宮」と刻された石祠が現在の社殿にも安置されています。
新たに開発された土地とはいえ、人が定住するのは難しかったようです。
『埼玉の神社』には次のように記されています。
大正期には住民のほとんどが与兵衛新田や弥勒に転出してしまった。
そのため、当地に残った間下家が、六〇年余り当社及び神饌田の管理に当たっていた。
昭和四五年、土地改良によって、当社は再び顧みられるようになり、
分家を当地に出す者があり、これによって、当社も元のように村の神社として復帰した。
このあい八幡社も、転換期を迎えようとしています。
先に触れたように、開発の波が押し寄せてきているのです。
何年先かはわかりませんが、
いまとは全く違う景色になるかもしれません。
八幡社も現在から別の場所に移転するということです。
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