クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

前田利家が着陣した“古城”とは?(2) ―青鳥城―

2010年07月08日 | 城・館の部屋
雨がシトシトとする日、
青鳥(おおとり)城跡に立ってみる。
天正18年6月3日、前田利家が着陣した場所である。

河越城を落とし、鉢形城へ向かう最中であり、
松山で浅野長吉と待ち合わせる予定だった。

 石橋と申村、上之野に古城有之、陣取に相定、即我ゝ小屋をもかけ被置候由、
 尤に候、天気あがり次第、松山迄相越、於彼地浅弾を待付、諸事令相談、其上に
 鉢形表へ可相働候(「一寸錦雑編」)

ここに見える「古城」が青鳥城と考えられている。
利家が「古城」と記していることから、
すでにそのとき青鳥城は廃城となっていたのだろう。

そもそも、青鳥城は諸説錯綜した城である。
いつ誰が築城したのかはっきりしない。
青鳥城は館から拡張された城だった。
平安時代末期頃に本郭が構築され、
のちに二の郭、三の郭と城郭化したと考えられている。

伝承として、源頼朝、日蓮上人、太田道灌の名が登場するが、
いずれも不明である。
「古城」となったのがいつなのかもわからないのだ。
謎多き城と言えよう。

ところで、現在の城跡は土塁や堀跡とおぼしきものが残っている。
簡単な案内板が建っているが、
観光名所というわけではない。
城跡を歩くのはぼくら以外に誰もいなかった。

絢爛豪華な天守閣が建っているわけでもないから、
城好きというより、
歴史好きでなければ訪れない場所かもしれない。
逆に埋もれた城好きなら、心の琴線に触れるだろうか。
ちなみに、本郭跡付近へ行ってみればわかるのだが、
アベックでウロウロしていると変な目で見られると思う。

さて、前田利家は青鳥城から松山に向かい、
松山城を攻略する。
そして、鉢形城へ向かうと激戦を繰り広げる。
鉢形城は堅固な城。
3500もの軍勢が籠城していた。

城主北条氏邦は早くから助命嘆願を出していたが、
秀吉はなかなかこれを受け入れなかった。
結果的に激戦となり、多くの鉄砲の弾が撃ち込まれたのだろう。
それは城内に生えていた木に突き刺さる。

ずっとあとの時代になって、
古材から矢尻と鉄砲の弾が見付かったことをヒントに書いたのが、
井伏鱒二の『武州鉢形城』だった。

そんな鉢形城も6月14日に開城となる。
利家にとって、青鳥城に着陣したときは、
来る鉢形城決戦という嵐の静けさだったと言えよう。
雨降る青鳥古城跡で過ごした静けさは、
もはや失われていた。

「古城」期間の長い青鳥城は知る人ぞ知る城だ。
古き良き城跡と言える。
古城跡に立ったとき何を見るだろうか。
ちなみに、古城跡で暮らす犬は見知らぬ人が珍しいのか、
シッポを振りながら吠えていた。

(了)



青鳥城跡に建つ“虎御石”と呼ばれる板碑



青鳥城(埼玉県東松山市)




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