クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

明治17年に土塁が残っていた“戸崎城”はどこにある?

2012年04月23日 | 城・館の部屋
戸崎城と呼ばれる跡地は、現在田んぼが広がっている。
旧騎西町に位置していた城で、
鎌倉幕府に仕えていた武蔵武士“戸崎氏”の居館せし場所と伝えられる。

諏訪神社と竜宝寺の間にあったと言い、
『新編武蔵風土記稿』には、

 城跡の形あり。廻りに土手とおぼしき跡見ゆ
 戸崎右馬允というものの居跡なりと云

とある。小名も「城下」だ。
そのほか、「城附」「元屋敷」の呼び名が残っているという。

明治17年の迅速図には土塁とおぼしきものが表示されている。
しかし、昭和14年の土地改良事業で削られたらしい。
のどかな田んぼが広がるばかりである。

戸崎氏は、源頼朝に随って鹿狩りをしたとき、射手を定められ、
その後「鹿皮を給ふ」と『吾妻鏡』に記載されている。
そんな戸崎氏は、戸崎城でどんな夢を思い描いていたのだろう。

ちなみに、戸崎氏が居住していた頃は“館”だったに違いない。
“城”の呼び名に変わったのは、戦国期からだろう。
館から城へ変革したことを伝える資料はないが、
可能性としては、享徳の乱以降合戦が激化する中、
防備のために城郭化が進んだのかもしれない。

20代の頃、自転車で戸崎城址を訪れた。
春か初夏の季節だったと思う。
諏訪神社に入り、神さまに挨拶をしようとしたら、
ふと足が止まった。

社殿の前にヘビがいたのだ。
さほど大きなヘビではない。
顔は物陰に隠れて見えなかった。

戸崎城主の化身か守り神に見えたのは、単なるこじつけだろうか。
参拝はせず、とりあえず引き返した。
何とはなしに近付いてはいけない気がして……

ヘビを見ただけの、何てことはない話である。
しかし、あれから何年が過ぎても、
あの日見たヘビの姿は妙なインパクトで記憶に残っている。




戸崎城址遠景(埼玉県加須市)


諏訪神社から竜宝寺を望む。

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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-04-23 21:42:16
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何も無いからこそ想像の幅が広がる (儀一)
2012-04-25 05:16:24
おはようございます。

私の好きな中世城館を題材に取り上げていただきありがとうございます。
お陰で毎回楽しく読ませていただいております。

戸崎城は見事に耕地になっているかと思いきや、よく見ると地形に段差があったりしてとても興味深い構造をしております。
しかも塚のような土盛りがあったりと「これは何だったのだろう?」と知り得ぬ過去に思いを馳せると、何も無いような田畑でも楽しくなってきますね。
この周辺の小字として「元屋敷」や「城附」という名が残されている事から見ても色々な想像をさせられますね。

夏場に訪れるのは日差しが強くてきつい所ですが、神社の木陰でゆったりと一休みしてみたい所ではあります。
儀一さんへ (クニ)
2012-04-25 08:00:29
コメントありがとうございます。
戸崎城もマニアックな城ですよね。
人前で話をする関係で、久しぶりに戸崎城に足を運びました。
おっしゃるように、ただの田畑でも「城」の視点で見るととても楽しいですね。
ミステリアスな世界の入り口が開いているかのようです。
あのとき見たヘビも、神社の木陰で一休みしていたのかなぁ。
この日は少し肌寒く、川沿いに咲く菜の花が春の到来を告げていました。

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