「あい」の風景画

短いものがたり、そしてふぉとに添えた言葉たち

秋を迎えるまでに

2005年08月26日 | 錆色のスケッチ
結婚しても子供が生まれても、おじいさんおばあさんになっても、ずっと手をつないで町を歩いていたい。
それが祥恵の理想だった。
けれども間もなく祥恵の夫になろうとしている紘一は、町はおろか、二人きりの部屋の中でもめったに祥恵に触れようとはしなかった。
自ら触れようとしたがらないだけではない。
祥恵が冗談を言いながら手を伸ばすだけでもわずかに顔が歪むのだった。

付き合い始めた頃にはそんな紘一の態度に、彼の気持ちを疑ったこともある。
けれどもある時、
「お袋に抱っこされた記憶ってないんだよな。親父はたまに帰ってきても酔っ払って俺を殴るだけだったし」
紘一が自嘲めいた口調でそう言うのを聞いてから、祥恵は彼に無理に触れるのはやめることにした。
そうは思っても、映画館や遊園地で仲良く手をつないで歩いているカップルを見かけると、祥恵は寂しさを感じずにはいられなかった。

たった一度だけ、紘一の方から手を伸ばして彼女の手を取ったことがある。
まだ付き合い始めて間もない頃、真夜中に山奥の湖の近くへ流れ星を探しに行ったときのことだ。
ひと気のない湖畔に下りる階段は外灯もなくて、そろそろと足を踏み出していた祥恵の右手に、紘一が黙って手を伸ばしてきた。
それでも握ったのは彼女の小指一本だけだった。

紘一が眠っているとき、その瞬間だけが祥恵が彼にゆっくりと触れられる時間だ。
彼の寝息が聞こえ始めてから、そっと頬に手を伸ばす。
くせっけのある髪に優しく指を通す。
うっすらと血の流れが見えるまぶたに唇を近付ける。
起こさないように気を配りながら、筋肉質な腕を抱きしめてみる。
そしてプロポーズの言葉を思い出つつ、二人の将来に想いを馳せるのだった。

幼い頃から私に出会うまでの時間より、私と過ごした時間のほうが長くなれば、いつしか自然と触れ合えるようになるだろうか。
彼が私を想ってくれていることは信じられるから、後は時が解決してくれるのを待つしかないのだろうか。
私の溢れるような想いは言葉だけでは伝えきれないけれど、少しでも触れていくことで彼の中に流れ込んでくれるだろうか……。
おじいさんおばあさんになった二人の姿を想像しながら、祥恵はすうっと眠りに落ちていくのだった。

夜明けを、待つ

2005年08月14日 | 葡萄色のスケッチ
その日病院の部屋で窓の外を見つめていた母は、いつになく穏やかな顔をしていた。
隆平が見舞いに訪れたのを認めると、あどけなくすら見える笑顔で彼を迎えた。
「いつも遠い所まで来てくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた時、隆平は自分の耳を疑った。
母が、あの母が、自分にそんなことを言うなんて。
もしかしたら今度こそ普通の親子になれるかも知れない。
隆平の胸は高鳴った。

隆平の両親は彼が小学校に上がる前に離婚をした。
彼の記憶の中ではあいまいになってしまっているが、幼い頃の母は彼に対して非常に厳しかった。
箸の持ち方が悪いと言っては食事を抜かれ、転んで服を汚したと言っては寒空にパンツ一丁で放り出され、成績表に忘れ物が多いと書かれては「母さんが恥をかかされた」と言って手足を縛られて物置に閉じ込められた。
それを母はしつけだと言っていたし、隆平もそうなんだと思っていた。
ただ不思議だったのは、同じ箸の持ち方をしても優しく注意されるだけの時もあれば、大人しく眠っているだけなのに叩き起こされてぶたれたりすることもあるという波があることだった。
隆平は家の中ではいつも息を殺しているしかなかった。
そんな家から早く逃げ出したくて、隆平は高校卒業と同時に実家を離れた。

住所も連絡先も教えていなかった隆平の元に、母のことで、と警察から電話がかかってきたのは、彼が22歳の時だった。
母が、家の前を通る近所の子供や犬に罵声を浴びせた上、石を投げてケガをさせたという。
関わりたくないと思っても、一人息子である以上、関わらないわけにはいかない。
母の前に出ると昔と変わらず石のようになってしまう身体を、警察官と役所の人に助けてもらいながら、彼は母を病院に入れた。

母は病気なのだ。
病気なら、治る可能性がある。
治れば「たまに優しい母」ではなく「いつも優しい母」になって、自分を一人前の大人として認めてくれ、話をすることもできるようになるかも知れない。
もしそうなれば、家を出てからも結局他人とうまく関われず、いつも顔色を伺いながら背中を丸めている自分とも決別できるかも知れない。
期待と不安を抱えながら、隆平は週に3度は病院に通っていた。
調子のいい日には談話室に連れ出して、母のとめどのない愚痴を聞くことくらいはできた。
けれども調子が悪い日は、顔を見るなりものすごい形相で怒鳴られる。
笑顔を見ることは、全くといっていいほどなかった。

それがついに、隆平としても途方もない昔に見て以来と思えるような笑顔を、その日の母は見せてくれたのだった。
「母さん。今日はとっても……」
目頭が熱くなって思わずうつむいてしまった彼が、次の言葉を探してから顔を上げたときには、母の顔はすでにいつもの無表情に戻ってしまっていた。
無表情の次には眉間のしわがきて、見る見る間に目の端が釣り上がる。
いけない、と感じた彼は、急速にしぼんで行く気持ちを隠して、
「じゃあ母さん、また来るね」
と言ってそそくさと立ち上がった。

あきらめちゃいけない、ほんの一瞬とは言え今まで見られなかった笑顔を見ることができたんだ。
次はもう少し長く見られるかもしれない。
わずかずつでもその時間が長くなっていけばいいんだ。
最後はきっと、終わることのない笑顔が待っているはずだ。
それは母にとっても自分にとっても、夜明けなのだ。
いつか必ず、その夜明けの光に届く日が来る……。
帰り道、隆平は呪文のようにその言葉を繰り返し続けていた。

(和銀屋華さんの詩=非公開=からイメージをいただいて書いた作品です)

家庭の事情

2005年08月10日 | 雪色のスケッチ
11人兄弟の末娘で今は東京に暮らす美乃梨が、結婚したい相手がいると彼氏を北海道の実家に連れて来た。
兄弟姉妹のうち未婚なのは彼女だけだったので、ついに子供たちが全員が巣立つ時が来たと思うと、親である秀夫や友子も感慨深いものがあった。
やって来た彼氏はこざっぱりとした身なりの、真面目そうな青年だった。
このまま順調に進んでいくものと思っていた友子たちだったが、話が具体的になるにつれて、今までの子供たちとは少し勝手の違う事態が起きた。

秀夫と友子は共に札幌の出身で、子供たちもみんな札幌かその近郊の相手と結婚をした。
もともと本州からの移民が多い北海道では、「○○家」「本家と分家」といった感覚は薄い。
美乃梨の相手は神奈川県出身とのことだが、本州でも首都圏なら北海道と同じように「家」という感覚は薄いだろうと友子たちは考えていたのだが、どうもそうではないようだった。
青年の実家は神奈川のとある市の地主で、しかも本家なのだという。
青年は長男ではないものの、結婚ならば結納を、との話が出て来て、友子たちは面食らってしまった。

子供の多い友子たちは、高校まではどうにかしてやれたものの、その後は進学したい子も自分で学費をまかなわせる形にした。
結婚も、その子が望む相手に対して一切口出しはしない代わりに、挙式などの費用も自分たちでやらせた。
子供たちはみなそれを当たり前として、誰も不満を口にすることはなかった。
内心、親として何もしてやれない自分たちを不甲斐なく思ってはいたが、かといって全員に公平になにかをしてやれるような余裕もないのが現実だった。
そんな兄姉たちを見ている美乃梨は、自分の時も当然そうするものだと思っているようだった。

けれども結納となってくると親が出て行かないわけにはいかない。
結納返しなどの問題もある。
しかも先方は挙式の費用も出すと言っている。
出されればこちらとしても勝手にどうぞとは言えない。
さらに聞けば、首都圏での挙式は北海道の会費制とは異なり、招待制だという。
つまり、遠方からの参列者には足代を出さなくてはならない。
そこまでなると本人たちに全てをやらせるのは酷にも思えてくる。
年金暮らしとはいえ頑張って手助けしてやれないこともないが、そうしてやれなかった他の子供たちに悪い気もする。
すでに結婚して家庭を築いている兄姉たちは、一番下の妹に両親が特別な計らいをしても文句は言わないに違いない。
ただそれでは美乃梨本人が引け目を感じてしまうかもしれない。

友子たちのもうひとつの気がかりは、結婚後にもあった。
義理の両親と同居ではないにしても、「家」という感覚がない状態で育った美乃梨が、果たしてうまくやっていけるのかどうか。
美乃梨自身にその覚悟が本当にあるのかどうか。

本人たちが望んでいる結婚に、異議を唱えるつもりはない。
しかし気がかりはたくさんある。
自分たちは親として、どうすべきなのか、何がしてやれるのか。
秀夫と友子は毎晩話し合いながら、寝付けない夜が続いている。

産まない理由~佳奈子の場合

2005年07月27日 | 蒼海色のスケッチ
佳奈子の5つ年下の友人、玄太はいわゆる「できちゃった結婚」だ。
玄太の娘の詩音は今年3歳になる。

玄太の親バカぶりは共通の知人の間でも有名なほどだ。
彼が娘の話をするときは、もともと細い目を糸よりも細くして、顔中の筋肉が完全に緩みきってしまう。
親バカ、とからかいながらも、佳奈子たちはそんな玄太をほほえましく思っていた。
ただしその笑顔も、奥さんの話になると途端に消える。
「家に帰っても冷たくあしらわれる」
「結婚前のようなラブラブな雰囲気はどこにもない。完全に冷え切ってるんだ」

今年の秋に結婚することが決まった佳奈子にとっても、夫婦という意味では先輩になる玄太たちのことは気になっていた。
結婚する前の二人をよく知らない佳奈子は、ある時思い切って玄太に尋ねた。
「いつからそんなに冷めちゃったの? 最初はもちろん仲が良かったんでしょ?」
すると玄太は口をへの字に曲げたまま、
「そりゃ、結婚するまでは俺らだってラブラブだったよ」
と弱々しく答えた。
玄太によれば、二人の仲が変化したのは詩音が生まれてからだという。
「男ってさ、いくつになっても甘えん坊じゃん? だけど女の人は子供ができたらダンナよりもそっちにかかりっきりになるんだよ、当たり前だけど。そんでダンナのことは二の次になっちゃうから、さ」
彼は苦い顔をしながら言葉を続ける。
「仕事が遅くに終わって帰るとさ、奥さんは育児とパートで疲れて寝てるんだよ。起こせばウザがられるんだ。それはわかってるつもりだけど」
玄太はそこで口を閉じた。
小さく唇をかみ締めてへの字を作っている。
やがて、
「寂しいんだよ。構って欲しいんだ」
とつぶやいた。

30歳の佳奈子のダンナとなる相手は4つ年上の34歳。
玄太の子供が生まれたのは彼が22歳の時。
年の差を考えれば、佳奈子のダンナが玄太と同じように感じるとは限らない。
それでも寂しがりやのダンナは、もしも子供ができたら玄太のようにならないとも言えない。
子供がいても夫婦仲のいい家族は世の中にたくさんある。
どこの家族も、子供という存在ができれば良かれ悪かれ夫婦仲は変化をするのだろう。
それが吉と出るのか、凶と出るのか。
どちらが出ても切り抜けられる、という覚悟が決まらない限り、自分は子供を作ることができないのではないかと、佳奈子は思っている。

笑顔の瞬間

2005年07月23日 | 月色のスケッチ
ひまわり畑を見に行こう。
康史からのメールで、泉美たちの久しぶりの旅行先が決まった。
遠距離恋愛の二人のデートは、現地集合現地解散がお決まりのパターンだ。
下り立った空港のゲートの向こうには、ひと月ぶりに会う康史の日焼けした笑顔が待っていた。

例年より少し花が遅れているというひまわり畑は、それでもたくさんの観光客でにぎわっていた。
冬はスキー場になるという傾斜のきつい畑は、黄色よりも葉の緑のほうが目立っていた。
ひまわりの間に入って行って少し屈めば、太陽の光を我先にと争う花びらたちがまぶしい。
「泉美、そのままの姿勢でこっちを向いて」
康史の声で泉美が振り向くと、彼はデジカメにつけた大きなレンズを彼女のほうに向けていた。
「このひまわり、大きいねぇ。私の顔と同じくらいの大きさがあるんじゃない?」
「はい、いいからじっとして」
泉美はほんの少し口先を尖らせてから、ひまわりに負けないようにと満面の笑顔を作った。
「泉美、作りすぎ」
「うるさいよ」
言いながらも彼女は、両脇に引っ張りすぎた口の端を気持ちだけ戻してみせる。
「そうそう。その調子」
泉美はしばらくそのままの顔でレンズを見つめていたが、康史はなかなかシャッターを切ろうとはしない。
デジカメについたボタンをいじってはレンズを覗きこみ、またボタンをいじってを繰り返している。
「早くぅ。顔が疲れちゃうよ」
いつものことだと思いながらも、泉美は軽く文句を言ってみる。
「いいからいいから」
「あのさ、」
「はい、撮るよ」
泉美が待ちきれずに油断をして普段の顔に戻った瞬間に、シャッターを切る音が鳴った。
「もう、ずるいんだから」
「あ、もう一枚」
「康史、見て、すごいよ。この種の数」
またきっと時間がかかるだろうし、と、泉美はポーズをとらずに顔の横にあったひまわりの花を覗きこんだ。
「ほれ、泉美ってば」
「きゃあっ!」
突然、種のところから飛び出したハチが泉美の鼻先を掠めて、泉美は悲鳴をあげた。
よく見ればまわりの他のひまわりたちにも、蜜を求めてやってきたハチたちが小さな羽音をたてている。
「大丈夫だよ、ミツバチは刺さないから」
康史がそう声をかけても、
「ダメ、ダメ、もし刺されたら痛いでしょ。イヤだよ、もう出る」
泉美は半分べそをかいたような顔でひまわりをかきわけて出ようとする。
「もう一枚だけ、それ撮ったら出てきていいから。もうちょっと我慢して」
康史になだめられて仕方なく彼女は立ち止まるが、もうひきつった笑顔しか作れない。
「お願い、早くして、早く」
彼は笑いを奥歯でかみ殺しながらカメラを構えている。
「何がおかしいの。笑うんだったらもう我慢しないよ」
「ごめんごめん、泉美のその慌てぶりがかわいくて」
「からかわないでよ」
さっきよりは早いタイミングで、康史はシャッターを切った。
「はい、おしまい」
「もうヤダ、もう畑の中になんか入らない。外から見てるほうがいい」
半べそにへの字ぐちの泉美は、康史の腕を強く引いて花畑から離れた。

旅行から帰って数日後に、泉美の元に康史からのメールが届いた。
添付されていたファイルを開くと、輝くようなひまわりたちに埋もれながらも、負けないくらい明るい笑顔の泉美の写真があった。

草いきれの夏

2005年07月18日 | 草木色のスケッチ
その広場は中学生の美紀の腰の高さまであるような雑草が生い茂って、むせ返るような熱気だった。
「中学生キャンプ」という名の9泊10日のイベントは、その原っぱにテントを張って自炊生活をするというものだった。

最初に母が申し込んだら、と言ったとき、美紀はそれほど気が進まなかった。
普通のキャンプ企画と違い、「中学生キャンプ」には宿泊場所と自炊という条件以外に、スケジュールらしきものは何ひとつ無かった。
『集まった中学生とリーダー役の大学生が、その場で決めます。携帯電話、ゲーム機等の持ち込みは禁止』。
そんなアバウトな計画で、文化的なものが何もないような山の上で10日間も何をしろというのか。
けれども美紀は結局、父の仕事が忙しくて恒例の海水浴にも行けなさそうだしと、消極的な理由で参加することになったのだった。

内容のせいか、15人の中学生参加者のうち、女の子は美紀を入れてもたったの2人だった。
リーダーも男の人が4人に女の人が1人。
マイクロバスに乗せられてやってきたのは、知らない名前の町はずれにある山の上の原っぱだった。
リーダーが持ち込んできたレトルト食品や缶詰を利用して、焚き火で温めて食事を作る。
ある日は町に下りていって、農家を訪ねてはお米を分けてもらったり、飛び込みで農協の手伝いをさせてもらって野菜をもらってくる。
夜になればキャンプファイヤーを囲んで、リーダーのギターに合わせてみんなで歌を歌う。
最初のうちこそ気恥ずかしさを感じていた美紀だったが、じきにそんな生活を楽しみ始めていた。
ある夜、夕食の後片付けが終わってふと見上げると、そこは満天の星空だった。
「すごい、流れ星でも見られそう」
ほんの独り言のつもりだったが、
「見られるよ。俺、昨夜見たんだ」
いつの間にか近くに来ていたリーダーの一人、洋平がそれに答えた。
「ほんとに!? いいなぁ、私も見たいな」
それからしばらくの間、二人は首を真上に向けて星空を眺めていた。
「流れ星が、本当に願いを叶えてくれるんだったらなぁ」
首が痛くなったと、どちらからともなく草の上に腰を下ろした時、洋平がぽつりとつぶやいた。
美紀は上を見つめていた顔を横に向けて、シルエットすらもおぼつかない闇の向こうの洋平の顔を見た。
「役者になりたくてさ、俺。だけど田舎じゃ可能性が無いから、東京に出る理由が欲しくて大学に入ったんだ」
暗闇の中からこぼれ出てくるような言葉に、美紀は小さな声で相槌を打った。
「入る学部はどこでも良かったから、経済学部に入ったんだ。ある意味、役者なんか正反対のカテゴリーになっちまう学部だよな。だけどそれよりもイヤなのがさ、周りのやつら、みんな夢が無いんだよ。ただなんとなく流れで大学には入ったけど、何か目標があって頑張ってるわけでもないし、話すことといえばパチンコとかバイトとかオンナとかさ」
そこまで言って、洋平は弱々しく息を吐いた。
「中学生に話す話じゃないかな」
「そんなことないよ。ちゃんと聞いてるから、続けて?」
短い沈黙の後、洋平はまた口を開いた。
「俺がさ、役者になりたいとか、養成所の稽古が忙しくてバイトができないから金がないとか言うとさ、みんなすごく乾いた笑いで俺を見るんだよ。何をそんなに一生懸命になってるんだ、バカみたい、的な顔なんだ。他人の目なんか気にしない、ってずっと思ってたけど、同年代のやつらが揃いも揃ってそんなだと、なんかウツになっちゃってな。田舎からも都会からも離れたくて、逃げるみたいにしてこのキャンプのリーダーを引き受けたんだ」
「あたし、なんだかわかる気がする。あたしもなりたい夢があるんだけど、学校でなんか話せないもん。なんか、白けた目で見られるから」
「そうか。いまどきは、中学生でもそんなんなのか。……どうしてなんだろうな」
洋平の気配が、暗闇に沈んだ。
美紀は再びまぶしくすら感じる星空を見上げた。
「流れ星が叶えてくれなくてもね、あたしは絶対に諦めないんだ。おばあちゃんがいつも言ってるの。自分を信じる者は救われるんだよ、信じてあげられるのは自分しかいないんだよ、って」
涼しい風が吹き抜けて、テントのほうから賑やかな笑い声を運んできた。
「戻ろうか」
ふっと洋平が言って、二人は立ち上がった。

「美紀、ありがとな。俺、年下の子にこんな話をしたのも初めてだし、ハッキリ言ってあれだけ本当の気持ちを言葉にできたのも初めてかも知れない」
キャンプの最終日、みんなが疲れきって眠っている帰りのバスの中で、洋平が美紀の隣に来てそう言った。
「けど、お陰でなんだか吹っ切れた気がするよ。このキャンプに参加して良かったよ。お前、来年も参加しろよ。俺も来るからさ」
美紀は飛び上がりたいほど嬉しかった。
自分より年上の、しかも大人に、美紀のお陰で楽になったなどと言われたのは生まれて初めての経験だった。
「もちろん、来年も来るよ。絶対にね」

けれどもその約束は叶わなかった。
終業式の日にもらってきた成績表を見た美紀の母は、キャンプに行きたいという美紀の頼みを聞こうとはしなかった。
代わりに夏休みの予定表には、びっしりと夏期講習の時間割が書き込まれることになったのだった。
洋平、今ごろどうしてるんだろうな。
ビルの6階にある塾の教室の窓から外にぼんやりと目をやりながら、美紀はあの星空を思い出している。

求められるもの

2005年07月08日 | 鼠色のスケッチ

瑠美はかわいいね。
彼氏の剛にいつもそう言われたくて、瑠美はますます毎日のお手入れとメイクに気合いが入るようになった。
いつまでもそのまま、かわいい瑠美でいてね。
剛の期待にこたえられるように、瑠美は努力をしようと決めた。
瑠美みたいな奥さんがもらえたら俺は幸せだ。
結婚してくれないか。
俺は瑠美が一生きれいでかわいい女でいられるように、できることは何でもするよ。
その言葉は瑠美には、何よりも自分を大切にしてくれている証しに聞こえた。
彼女は剛のプロポーズを、夢見心地で受け入れた。

結婚の準備に仕事にと忙しい日々が続いたある日、とうとう瑠美は体調を崩してしまった。
瑠美、髪の毛ぐしゃぐしゃだよ。
寝込んでいた瑠美の見舞いに来た剛の、それが第一声だった。
瑠美は自分でもわかるくらい顔が赤くなったと同時に、何故かひどく彼を疎ましく感じた。
元気になってからも、彼に対する正体不明のもやもやは彼女の中にねっとりと居座っていた。
瑠美はそれをマリッジブルーというものだと考えた。

いよいよ結婚式まで1ヶ月と迫って来て、瑠美の仕事も引継ぎや挨拶回りなどで忙しさがピークに達していた。
休みの日には式場での打ち合わせがあり、休む暇もない。
疲れがたまっていたのかオーダーしていたドレスの試着に行く日に、瑠美はまんまと寝坊をしてしまった。
とりあえず着替えだけを済ませて、迎えに来た剛の車に乗り込むと、彼はさっと顔を曇らせた。
「どうしてノーメイクなの? 髪もぐしゃぐしゃだし。瑠美らしくないよ」
「寝坊しちゃって時間がなかったの。車の中で直そうと思ってたんだけど」
瑠美が言うと、剛の表情はさらに険しくなった。
「いくら俺の前だからってそんなに気を抜かないでよ。これから先、例えば子供でもできたときに、髪を振り乱したままの瑠美なんて、俺、いやだからね」
それを聞いた瑠美の中で、なにかがプチリと弾けた。
しばらく走ってもメイクに取りかかろうともせず、黙ってうつむいたままの瑠美に、剛は少し語調を緩めた。
「俺はさ、いつまでもきれいな瑠美でいて欲しいんだ。ただそれだけなんだよ」
けれどもその言葉は瑠美の心を通らず、反対側の耳からすっと抜けて消えてしまった。
「車、止めてくれる?」
「どうしたの、気分でも悪いの?」
どこか迷惑そうにも見える顔をしながら、剛は路肩に車を停めた。
「ごめんなさい。私、やっぱりあなたとは結婚できないわ。今までありがとう」
「何で急にそんなこと言い出すんだよ。なにか不安でもあるのか? でもそれっていわゆるマリッジブルーってやつだよ、一時の気の迷いだろ」
早口でそう問いかける剛に、瑠美は車のドアに手をかけながら短く答えた。
「私はあなたのお人形にはなれないわ」
剛は小さな目を大きく見開いて口はぽっかりと開けたまま、瑠美がすることを眺めていた。
車を下りた瑠美は振り返りもせず、しゃっきりと背筋を伸ばして人ごみの中へと歩き去った。

二番目のソウルメイト

2005年07月03日 | 闇色のスケッチ

「ソウルメイトになろう」。
彼氏と彼女とか、夫婦といった形よりももっと深いつながりをと願ったひな子と薫は、お互いがお互いの一番のソウルメイトになろうと誓い合った。
同時にひな子は、薫の傷つきやすい心を守り抜こうと自分に約束をした。
けれどもある日突然に、それは大きく揺れ動いた。
ひな子に、もう一人守りたいと思う存在ができてしまったのだった。

ひな子とその相手の光章が出会ったのは、もう随分前のことだ。
他の同僚よりほんの少し親しい、という程度の存在だった光章が、ひな子の中でなぜそれほどまでに大きな位置を占めるようになっていったのかは、彼女自身にもわからない。
気がついた時にはひな子は、他の誰よりも自分が光章を守りたいと強く思っていたのだった。
薫の心を守りたいと思いながらも光章への思いを薫に告げるという行為が、ひどく矛盾していることはひな子自身にもよくわかっていた。
俺の、何が悪かったんだよ。
薫のそんな叫び声に、ひな子は聞こえないふりをした。
大切にしてきたはずのものを自分自身の足で踏みにじる感触にも、気付かないふりをした。
けれどもいくら聞こえないふり、気付かないふりをしても、ふりはあくまでふりであって本当に何も感じないというわけにはいかない。
薫とのソウルメイトの誓いを捨てて、光章のことだけを守るという決心ができればいっそマシだったのかも知れない。
そもそも二人の人を守ろうなどと思うことがおこがましいと思いながらも、ひな子はどうするべきかの気持ちの決着がつけられなかった。
俺のそばにいて欲しいんだ。
先の見えない暗いトンネルの中に響く二人の声は、時間が経つにつれて薫のものが細く消えていき、光章のものが太く力を持っていった。
やがてひな子と薫は恋人関係を解消することになった。

今年もまた同じ季節が巡ってきたことを知らせる蒸し暑い風が、薫に新しい彼女ができたといううわさをひな子の耳に届けてきた。
今度こそ本当のソウルメイトに出会ってくれたと信じたい。
一番のソウルメイトにはなれず、二番目のソウルメイトでありたいと今も思うひな子は、自分のしたことを詫びながらそう願わずにはいられない。

「滑稽でしょう?」からイメージをいただいて書き上げた作品です。)

ケンカの距離

2005年07月01日 | 炎色のスケッチ

彼女が彼を好きになったのと、彼が彼女を嫌いになったのとどちらが先だったか定かではない。
とにかく今は、彼は彼女をひどく嫌っているし、彼女は彼と、自分自身が大好きになっている。
それだけではない。
彼女は彼が嫌うもの、憎むものほど好きになった。
彼が同僚のA子を嫌いだと言えばA子のことが好きになり、課長を嫌いだと言えば課長を好きになる。
韓流もサッカーもお酒も、インターネットも政治も同じだった。
反対に、彼が好きだというものを彼女は心から憎んだ。
けれども幸いにして、彼が好きだというものはとても少なかったから、彼女は憎むより好きになるものの方が多かった。
会社の同僚のほとんども、会社自体のことも彼は嫌いだった。
そして何より、彼は彼自身のことを心底嫌っていた。
だから彼女は心置きなく彼を好きになれた。
「お前みたいな女を見てると虫酸が走る」
彼は彼女の顔を見るたびにそう悪態をつく。
「だったら見なきゃいいでしょ。誰も頼んでないよ」
彼女も負けずに言い返す。
それは二人の毎日の行事のようなものだった。

そんな中、彼女は時々ふと思い出す心理学者の言葉がある。
『顔を近付けて見つめあったまま言い合う二人は、ケンカをしているか恋人同士のどちらかである』。

父への贈り物

2005年06月19日 | 蒼海色のスケッチ

勇気の「親父」が、長年経営してきたクリーニング屋を閉店した。

勇気が物心ついたころには、親父は勇気の父親として居た。
戸籍上はすでに親子だったが、本当は勇気とは血がつながっていない。
未婚の母だった勇気の実母の、結婚相手が親父だったのだ。
けれどもあまりにも小さかった勇気にそのような事情がわかるはずもなく、勇気は親父を本当の父と慕って大きくなった。
小学校6年生のとき、実母が病気で命を落とした。
親父はクリーニング店の傍ら、DPEや靴修理や鍵屋などといった副業をこなして、男手ひとつで勇気を育て、彼が高校を卒業し就職で親元を離れてから再婚をした。

小さいころの親父は勇気にとって怖い人だった。
いたずらをすればすぐに物やゲンコツが飛んでくる。
今の時代なら虐待と呼ばれてもおかしくないくらい、目いっぱいの力で頭を殴られて、痛いのと悲しいので一晩中泣き続けていたことも何度もあった。
それでも勇気は親父が好きだった。

再婚相手の新しい「母」には子供が3人いた。
皆すでに結婚をし、それぞれに子供もいる。
独身なのは一番年上の勇気だけだ。
親父はすでに「おじいちゃん」だった。
転職で地元に戻り、近くで暮らすようになった勇気がたまに実家に帰ると、義理の兄弟たちの家族が遊びに来ていることがある。
親父は孫たちに「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼ばれてひざに乗られては、すっかり柔和になった目元を細めてニコニコと笑っている。
あの怖かった親父が、と思うと勇気はなんだか笑いがこみ上げてしまうのだった。

そんな勇気も、ついに独身生活に別れを告げることになった。
「この人と結婚しようと思うんだ」と彼女を実家に連れて行ったとき、親父は黙ってうなずいた。
「結婚式は秋頃に海外で、自分たちとその両親だけでと思ってる」。
勇気がそう話すと、親父は次の日にはパスポートの申請書をもらいに行った。
そして、クリーニング屋を閉じたのだった。
それから1ヶ月。
結婚したばかりの妻に強く言われて、勇気は30年ぶりに、幼稚園以来の父の日の贈り物をすることになった。
久しぶりなだけに照れくさくて、何をどう選んでどうやって渡していいのかがわからない。
彼は妻と一緒にでかけ、立派な釣竿を買った。
「これからはさ、ゆっくりおふくろと釣りにでも行けるだろ。ホラ、親父の竿、もう随分古くなってると思ったから、さ」
勇気が実家に行ってそう言いながら手渡すと、
「釣りもな、なかなかしんどいからな」
親父は少しだけ触れてすぐに壁に立てかけた。

その晩、勇気のところに母から電話がかかってきた。
「お父さん、今日一日ずっとあの竿を眺めてはね、何度も布で磨いてるの。使ってもいないのに、おかしいわよね」
電話口の母の声も、優しく弾んでいた。