(日経9/13:日曜に考える面)
日本経済が若くて力強く、「メード・イン・ジャパン」が世界を席巻した時代は、日本の強さゆえに問題が起きた。その代表が日米経済摩擦である。繊維から始まり鉄やカラーテレビ、そして自動車、半導体まで広範な産業が摩擦の荒波に晒され、「日本市場は閉鎖的で、諸外国とは異質な存在」という批判も高まった。摩擦の意味を改めて検証してみよう。(敬称略)

交渉を前に竹刀を突きつけるカンター氏(左)と橋本氏(95年6月、ジュネーブ)=AP
●「戦争だ」
「米政府の措置は一方的でルール違反。『Trade War(通商戦争)』という言葉を使って、世論に訴えよう」
「いや、戦争という言葉は刺激的すぎる。『Trade Ban(通商の禁止)』ぐらいが妥当ではないか」
日本自動車工業会の内部でこんな論争が起きたのは、1995年5月のことだ。クリントン政権の米通商代表部(USTR)代表ミッキー・カンターが日本市場の閉鎖性を理由に、トヨタ自動車の『レクサス』など日本製高級車に100%の関税を課すと発表し、国内の自動車関係者は官民問わず一斉に反発した。
自工会はすぐさま反対の意見広告を展開すると決定。冒頭のやりとりはこの広告の文言を巡るものだ。最後は穏健派の意見が通り、「War」という言葉こそ使わなかったが、中身は相当に強烈だった。
日本車の輸入制限で得をするのは、前年に数十億ドルもの巨額の利益をあげた米ビッグスリーだけで、米国の消費者は選択肢の幅が狭まり損をする。さらには、米国の一方的制裁は世界の自由貿易システムを脅かすものでもあり、看過しがたい、という堂々の正論がワシトンポスト紙などに掲載された。

●反日爆発
自動車摩擦は数ある日米摩擦の中でも影響が並外れて大きく、日米両国が国益をかけて正面からぶつかり合ったという点で最も注目された存在だった。
時計の針を戻すと日米自動車摩擦の発端は1970年代末。第2次石油危機でガソリン価格が高騰し、日本の得意な小型車が米市場を席巻した。デトロイトを中心に反日感情が高まり、日本車を叩き壊すイベントも繰り広げられた。
81年に発足した共和党のレーガン政権はこうした事態に苦慮。自由貿易に露骨に反する輸入制限のような措置は取りたくないが、何もしないわけにもいかない。そこで浮上したのが日本による対米輸出自主規制だ。この「おみやげ」を携えて訪米した首相の鈴木善幸に対して、大統領のロナルド・レーガンの第一声は「自動車ではありがとう」だった、と首相秘書官だった畠山襄(のち通産審議官)は証言する。
だが、自主規制は対症療法ではあっても、抜本策にはならなかった。当初は日本企業による集中豪雨的な対米輸出が批判されたが、問題の射程は徐々に広がり、80年代半ば以降は日本市場の閉鎖性が問題視され始める。その象徴がブッシュ父政権でUSTR代表だったカーラ・ヒルズの「金テコを使ってでも日本市場をこじ開ける」という有名なセリフである。
こうした日米のせめぎ合いの末に訪れたクライマックスが95年6月にジュネーブで開かれた日米交渉だ。「100%の高関税を免れたければ、日本は米国製部品の購入拡大などを約束しろ」と迫るカンターに、通産相の橋本龍太郎は「民間の自動車会社がどの部品を使うか、政府は指図できない」とやり返した。
橋本の秘書官として随行した江田憲司(現衆院議員)は「机をたたいてほえるカンターに、大臣は剣士らしく冷静に対応した。交渉が決裂すれば政治生命が傷つくのは必至だったが、安易な妥協に走らず、原則を貫いた」と振り返る。
その結果、100%関税が発動される直前のタイミングで合意が成立。世界1位と2位の経済大国の「通商戦争」は辛うじて回避された。この時の妥協のカギを握ったのはトヨタなど日本車大手が自主的に公表した米国現地生産の拡大計画だ。これを根拠に米政府は「米国製部品の購入が増えるはず」と解釈し、日本政府は「それは米国の勝手な解釈で、日本政府は何も約束してない」と宣言した。
●現地生産
根本の食い違いを残したままの危うい妥協だったが、今から振り返れば、これが日米自動車摩擦の大きな転機になった。その後日本車メーカーは自ら公表した計画にそって現地生産の拡大にアクセルを踏み込み、技術移転や雇用創出で米経済に貢献した。
一つ数字を挙げれば、日本の自動車メーカーが昨年購入した米国製自動車部品の総額は660億ドルに達した。ジュネーブ交渉の3年前の92年、ビッグスリー首脳を引き連れて来日した大統領のブッシュ父に、トヨタなど日本の大手5社が約束した米国製部品の購入額は年間190億ドルだった。その3倍以上の額を今ではだれに強制されることもなく、日本企業は購入しているのだ。
リーマン・ショック後にゼネラル・モーターズとクライスラーが法的整理に追い込まれた際にも、一部関係者の懸念をよそに日米摩擦は再燃しなかった。この事実こそ日本車が米国市場で市民権を獲得した何よりの証しといえる。
▼政府介入の限界鮮明に コダック・モトローラ…さえぬ結果
それまで通商問題とはほぼ無縁だった富士写真フイルム(当時)が突如、嵐に巻き込まれたのは1995年5月のことだ。世界首位の米イーストマン・コダックが「日本のフィルム市場は閉鎖的」と通商法301条に基づいて米政府に提訴し、通商代表部による調査が始まった。
富士フイルム法務部の中堅社員だった三島一弥はコダックの提訴状の分析に徹夜で取り組んだ。その結果、判明したのはコダックの主張の荒唐無稽さだ。提訴状には「日本メーカーは国内市場の流通支配のためにフィルムの小売価格の監視を徹底し、社員だけではカバーしきれないへき地では郵便局員に監視を依頼している」とあったが、「そんなことができないのは常識で分かるはず。先方の主張はこじつけと事実誤認の連続だった」と三島はいう。
富士の経営陣も抗戦を決意。同年7月には「歴史の改ざん」と題した反論書を公表し、コダックの主張がいかに事実無根かをアピールした。このとき日本語と英語版の反論書をインターネットで世界に発信し、ネット活用の広報戦略の先駆けとしても注目された。最終的にこの対立は世界貿易機関(WTO)の紛争処理小委員会に持ち込まれ、98年に日本側の勝利に終わった。
日米摩擦は幅広い分野に及び、扱うテーマも様々。1989年に始まった日米構造協議のように、米国の要求を生かして大店法の規制緩和につなげるなど日本にとって有意義なものもあったが、個別産業を舞台にした摩擦にどれほど意味があったかは疑問符がつく。
摩擦の基本形は伸長する日本企業に対して、米国のライバル企業が「日本勢が不公正な競争を仕掛けている」と米政府に訴えて、政治的に抑え込む構図だった。
だが、結果はさえない。その時々の交渉で米国側が成果を上げたこともあるが、それを機に米国企業が完全復活した例は少ない。日本車にじわじわと追い詰められたゼネラル・モーターズとクライスラーは世界金融危機後に経営破綻し、半導体摩擦や携帯電話摩擦の仕掛け人だったモトローラはかつての存在感を失った。そしてフィルム摩擦の主役であるコダックは2012年に法的整理に追い込まれた。
ここから浮かび上がるのは「根っこの競争力を高めない限り、政治的な力でライバルを封じ込めようとしても長続きしない」という教訓だろう。逆にいえば、ゼネラル・エレクトリックのように本当に強い米国企業は摩擦を仕掛ける必要もなかった。日米摩擦の歴史は「政府頼み」「政府介入」の限界を浮き彫りにしており、日本の官民もここから学ぶべきことは多いはずだ。
編集委員 西條都夫が担当しました。
▼トヨタ元専務 田口俊明氏 「80年代の現地生産で存在が認知され始めた」
摩擦の標的になった企業は何を考え、どう行動したのか。トヨタ自動車で長年北米事業に携わった田口俊明元専務に聞いた。

「トヨタは日本からの輸出で米国事業を始めたが、最初はよその家のひさしを借りて、商売させてもらっている感覚だった。そこから脱却し現地に根付いた存在として認知され始めたのは、80年代に着手した米国現地生産のおかげが大きい」
「米国の部品メーカーとの取引が増え、州政府や地域社会とのつながりもできた。95年の摩擦について『日本は米国に対し毅然とした態度を取った』といわれるが、それができた背景には米国社会の中で日本メーカーを応援してくれる人たちの存在があった」
日本経済が若くて力強く、「メード・イン・ジャパン」が世界を席巻した時代は、日本の強さゆえに問題が起きた。その代表が日米経済摩擦である。繊維から始まり鉄やカラーテレビ、そして自動車、半導体まで広範な産業が摩擦の荒波に晒され、「日本市場は閉鎖的で、諸外国とは異質な存在」という批判も高まった。摩擦の意味を改めて検証してみよう。(敬称略)

交渉を前に竹刀を突きつけるカンター氏(左)と橋本氏(95年6月、ジュネーブ)=AP
●「戦争だ」
「米政府の措置は一方的でルール違反。『Trade War(通商戦争)』という言葉を使って、世論に訴えよう」
「いや、戦争という言葉は刺激的すぎる。『Trade Ban(通商の禁止)』ぐらいが妥当ではないか」
日本自動車工業会の内部でこんな論争が起きたのは、1995年5月のことだ。クリントン政権の米通商代表部(USTR)代表ミッキー・カンターが日本市場の閉鎖性を理由に、トヨタ自動車の『レクサス』など日本製高級車に100%の関税を課すと発表し、国内の自動車関係者は官民問わず一斉に反発した。
自工会はすぐさま反対の意見広告を展開すると決定。冒頭のやりとりはこの広告の文言を巡るものだ。最後は穏健派の意見が通り、「War」という言葉こそ使わなかったが、中身は相当に強烈だった。
日本車の輸入制限で得をするのは、前年に数十億ドルもの巨額の利益をあげた米ビッグスリーだけで、米国の消費者は選択肢の幅が狭まり損をする。さらには、米国の一方的制裁は世界の自由貿易システムを脅かすものでもあり、看過しがたい、という堂々の正論がワシトンポスト紙などに掲載された。

●反日爆発
自動車摩擦は数ある日米摩擦の中でも影響が並外れて大きく、日米両国が国益をかけて正面からぶつかり合ったという点で最も注目された存在だった。
時計の針を戻すと日米自動車摩擦の発端は1970年代末。第2次石油危機でガソリン価格が高騰し、日本の得意な小型車が米市場を席巻した。デトロイトを中心に反日感情が高まり、日本車を叩き壊すイベントも繰り広げられた。
81年に発足した共和党のレーガン政権はこうした事態に苦慮。自由貿易に露骨に反する輸入制限のような措置は取りたくないが、何もしないわけにもいかない。そこで浮上したのが日本による対米輸出自主規制だ。この「おみやげ」を携えて訪米した首相の鈴木善幸に対して、大統領のロナルド・レーガンの第一声は「自動車ではありがとう」だった、と首相秘書官だった畠山襄(のち通産審議官)は証言する。
だが、自主規制は対症療法ではあっても、抜本策にはならなかった。当初は日本企業による集中豪雨的な対米輸出が批判されたが、問題の射程は徐々に広がり、80年代半ば以降は日本市場の閉鎖性が問題視され始める。その象徴がブッシュ父政権でUSTR代表だったカーラ・ヒルズの「金テコを使ってでも日本市場をこじ開ける」という有名なセリフである。
こうした日米のせめぎ合いの末に訪れたクライマックスが95年6月にジュネーブで開かれた日米交渉だ。「100%の高関税を免れたければ、日本は米国製部品の購入拡大などを約束しろ」と迫るカンターに、通産相の橋本龍太郎は「民間の自動車会社がどの部品を使うか、政府は指図できない」とやり返した。
橋本の秘書官として随行した江田憲司(現衆院議員)は「机をたたいてほえるカンターに、大臣は剣士らしく冷静に対応した。交渉が決裂すれば政治生命が傷つくのは必至だったが、安易な妥協に走らず、原則を貫いた」と振り返る。
その結果、100%関税が発動される直前のタイミングで合意が成立。世界1位と2位の経済大国の「通商戦争」は辛うじて回避された。この時の妥協のカギを握ったのはトヨタなど日本車大手が自主的に公表した米国現地生産の拡大計画だ。これを根拠に米政府は「米国製部品の購入が増えるはず」と解釈し、日本政府は「それは米国の勝手な解釈で、日本政府は何も約束してない」と宣言した。
●現地生産
根本の食い違いを残したままの危うい妥協だったが、今から振り返れば、これが日米自動車摩擦の大きな転機になった。その後日本車メーカーは自ら公表した計画にそって現地生産の拡大にアクセルを踏み込み、技術移転や雇用創出で米経済に貢献した。
一つ数字を挙げれば、日本の自動車メーカーが昨年購入した米国製自動車部品の総額は660億ドルに達した。ジュネーブ交渉の3年前の92年、ビッグスリー首脳を引き連れて来日した大統領のブッシュ父に、トヨタなど日本の大手5社が約束した米国製部品の購入額は年間190億ドルだった。その3倍以上の額を今ではだれに強制されることもなく、日本企業は購入しているのだ。
リーマン・ショック後にゼネラル・モーターズとクライスラーが法的整理に追い込まれた際にも、一部関係者の懸念をよそに日米摩擦は再燃しなかった。この事実こそ日本車が米国市場で市民権を獲得した何よりの証しといえる。
▼政府介入の限界鮮明に コダック・モトローラ…さえぬ結果
それまで通商問題とはほぼ無縁だった富士写真フイルム(当時)が突如、嵐に巻き込まれたのは1995年5月のことだ。世界首位の米イーストマン・コダックが「日本のフィルム市場は閉鎖的」と通商法301条に基づいて米政府に提訴し、通商代表部による調査が始まった。
富士フイルム法務部の中堅社員だった三島一弥はコダックの提訴状の分析に徹夜で取り組んだ。その結果、判明したのはコダックの主張の荒唐無稽さだ。提訴状には「日本メーカーは国内市場の流通支配のためにフィルムの小売価格の監視を徹底し、社員だけではカバーしきれないへき地では郵便局員に監視を依頼している」とあったが、「そんなことができないのは常識で分かるはず。先方の主張はこじつけと事実誤認の連続だった」と三島はいう。
富士の経営陣も抗戦を決意。同年7月には「歴史の改ざん」と題した反論書を公表し、コダックの主張がいかに事実無根かをアピールした。このとき日本語と英語版の反論書をインターネットで世界に発信し、ネット活用の広報戦略の先駆けとしても注目された。最終的にこの対立は世界貿易機関(WTO)の紛争処理小委員会に持ち込まれ、98年に日本側の勝利に終わった。
日米摩擦は幅広い分野に及び、扱うテーマも様々。1989年に始まった日米構造協議のように、米国の要求を生かして大店法の規制緩和につなげるなど日本にとって有意義なものもあったが、個別産業を舞台にした摩擦にどれほど意味があったかは疑問符がつく。
摩擦の基本形は伸長する日本企業に対して、米国のライバル企業が「日本勢が不公正な競争を仕掛けている」と米政府に訴えて、政治的に抑え込む構図だった。
だが、結果はさえない。その時々の交渉で米国側が成果を上げたこともあるが、それを機に米国企業が完全復活した例は少ない。日本車にじわじわと追い詰められたゼネラル・モーターズとクライスラーは世界金融危機後に経営破綻し、半導体摩擦や携帯電話摩擦の仕掛け人だったモトローラはかつての存在感を失った。そしてフィルム摩擦の主役であるコダックは2012年に法的整理に追い込まれた。
ここから浮かび上がるのは「根っこの競争力を高めない限り、政治的な力でライバルを封じ込めようとしても長続きしない」という教訓だろう。逆にいえば、ゼネラル・エレクトリックのように本当に強い米国企業は摩擦を仕掛ける必要もなかった。日米摩擦の歴史は「政府頼み」「政府介入」の限界を浮き彫りにしており、日本の官民もここから学ぶべきことは多いはずだ。
編集委員 西條都夫が担当しました。
▼トヨタ元専務 田口俊明氏 「80年代の現地生産で存在が認知され始めた」
摩擦の標的になった企業は何を考え、どう行動したのか。トヨタ自動車で長年北米事業に携わった田口俊明元専務に聞いた。

「トヨタは日本からの輸出で米国事業を始めたが、最初はよその家のひさしを借りて、商売させてもらっている感覚だった。そこから脱却し現地に根付いた存在として認知され始めたのは、80年代に着手した米国現地生産のおかげが大きい」
「米国の部品メーカーとの取引が増え、州政府や地域社会とのつながりもできた。95年の摩擦について『日本は米国に対し毅然とした態度を取った』といわれるが、それができた背景には米国社会の中で日本メーカーを応援してくれる人たちの存在があった」