ちゃこ花房~本日も波瀾万丈~

前向きに生きています。
健康で楽しく生活できたらそれが一番
周りの人たちを、元気にできる自分でいたい。

済州島(チェジュ島)

2011年05月16日 | 旅行


画像は、済州島で一番美しい海岸といわれている、挟才海水浴場(ヒョプチェヘスヨッジャン)
済州島にある数多くある美しい海水浴場のうちの一つ。
透明で青い海水、白い砂と貝殻が混ざりあって9kmにも及ぶ。

震災直後から、次から次にいろんなことが重なって、
この2ヶ月は怒涛の毎日でしたが
つい先日友達3人で、
旅行のために積み立てしていたお金で2泊3日、済州島へ旅行をしてきました。
出発前の天気予報では3日間、雨模様でした。
済州島の空港へ到着したときは、
雨嵐で傘もさせないような状態で、どうなることかと思ったのですが、
嘘のように雨は止み、3日間晴天で夢のような楽しい3日間でした。
実は3人とも、晴れ女です(笑


運転手・ガイドをつけて、こちらで事前に観光ルートを決めておいての観光でしたが
ガイドのイムさん(既婚女性)がとても優秀な方で盛りだくさんの観光ができました。

済州島は、主人の両親の生まれ故郷です。
二十歳前に、義父母たちはそれぞれの両親も一緒に日本に来て
死ぬまで日本で暮らしました。

義母はとても裕福な家の一人娘で
義父は貧乏だったそうな。

両親は、大阪で婦人服の会社を経営していました。
船場にも呉服のお店を数件持っていたし、
心斎橋にビルも所有していました。
パチンコ店、ゲーム喫茶なども何店舗も経営していて、
家には丁稚さんやお手伝いさんがいて、
とても裕福な生活をしていた時代もあります。
(主人は、裕福の時代の子ではなく、貧乏時代の子だそうで)
船場センタービルの建設には、両親らの努力があったと聞いています。

義母は当時刊行されていた「毎日グラフ」という冊子の表紙を飾ったことがあると
当時、働いていた社員に聞きました。
そろばんを持ったふくよかな母。
そのほとんどの財産を、亡き父と、子供たちで食いつぶしてしまい、
いまはそのほとんどが人手に渡ってしまいましたが。

義母は子供10人産みましたが、一人も欠けるなく今もも健在です。
母は太った女性でしたが、懐も大きくて、まさにゴッドマザー。
父も大柄で、若い頃は映画俳優のような美男子でした。
若い頃の写真見てイケメンぶりにびっくり

主人の会社には、亡き父の油絵が飾られていますが
社員達がその肖像画を主人の肖像画を主人と間違えるほど、よく似ています。
若かりし頃の美男子ではなく、晩年の飲んだくれの父親に、ですが(爆

父は働き者でしたが飲む・打つ・買うの人だったようです。
婦人服の会社は一度倒産も経験していますし、父親の女性問題もあり
母の苦労は相当のものだったようです。
「スリッパで何度張り倒したことか」、
「酒を飲んだら、まるでフランケンか、手の付けられない大トラ」
「普段着で出かけるときは、浮気相手のところに行くとき」
と義母がよく話しをしてくれました。

結婚してから、実家に長くいることが多かった私ですが
義母は、義父が酒を飲まないようにいろんなところにお酒を隠していましたが、
いとも簡単に探し出しだしていたのが可笑しかったです。

結婚してから、私はずいぶん主人の父・兄姉にいびられたりもしましたが
(会社を引退してからの義父は、毎日飲んだ暮れ、入退院を繰り返していた)
そのフォローをしてくれたのはいつも義母でしたし、
困った時は必ず(私の入院や、主人の仕事の手伝いで忙しいとき)
我が家に泊り込みできてくれて私を助けてくれました。

「ちゃこさんは、体は小さいけど頑張り屋さん」
早くに結婚して、何もできない私に義母は根気よく私に料理を教えてくれました。
そのおかげで、私は沢山の韓国料理を作れます。
義母には、ほんとに可愛がってもらいました。


友人たちも一緒の旅行ですし、残念ながら墓参りはできませんでしたが、
帰国後、
主人に、両親の実家の住所を教えてもらったので、
ネットで地図検索して場所を調べてみましたら、
観光した万丈窟(マンジャングル)という、火山溶岩でできた洞窟のすぐそばでした。
海岸もすぐそばで、日本に来るまでの娘時代、義母はあの海岸で海女をやってたんだなあと。
母は村で一番漁の上手い海女さんだったそうです。

帰国後、済州島のことをネットでいろいろ調べてみました。
調べてみるといろいろ分かって興味深いです。

~なぜ大阪に済州島出身者が多く住むようになったか、
日本の植民地支配により生きる糧(かて)を求めて、
猪飼野の零細工場に出稼ぎに来て、そのまま住み着いたから。 

「彼らは故郷の先輩などの紹介で、出身地別にかたまって、特定業種の工場で働いた。
例えば、南済州郡西帰邑法還里の人はゴム工場、
北済州郡旧左面杏源里の人は印刷工場、
北済州郡朝天面北村里の人は真ちゅう(黄銅)を溶かす製鉄所、
済州市道頭里の人はイモの加工工場などといったぐあいに。
また、日本の資本家が職工募集のため、済州島に募集人を派遣することもあった。

日本に渡ってきた同胞の多くは、
土工や炭坑夫、砂利人夫として働いたが、大阪に限ってみると、
零細工場の労働者が圧倒的であった。
済州島は農地が少ない。
生計を立てるために、日本にまで来て、
低賃金と悪条件の労働環境に耐えながら、黙々と働くしかなかった
済州島はもともと米の生産量は少なく、ヒエやアワなどを多食していたが、
植民地支配した日本人に土地を収奪され、
人々はそれらの雑穀すら食べられない状況に追いやられた。
また水産業は、1907年頃から日本の漁船、
とくに北九州、中国地方の漁船が済州島近海に出没。
朝鮮屈指の漁場までもが奪われることになった。
そのため彼らは日本が低賃金労働者を必要とする時期、
その規模に応じて、日本に引き出されるようにして渡ってきたのだ~

亡き義父は若い頃、印刷工場で勤めていたと、本人から聞いたことがあります。
だから父は、日本語を読むことができました。
その印刷工場で、日本人に随分殴られたと話してくれました。

主人の実家は、朝鮮人が多く住んでいる地域ではなく、
一般の日本人が住んでいるところです。

子供10人とも、朝鮮学校ではなく、日本の学校で教育を受けさせ、
ハングルも使いませんでした。
だから主人は、韓国語をまったく話せません。
実にもったいない・・・・・
親戚以外、在日同士での交流も
ほとんどしなかったしなかった花房一族はある意味、異端でもあったようです。

働き者だった両親同様、主人も良く働く人です。
主人の異名は「鉄人」
とにかくよく働きます。
昔ほどの馬力はありませんが、ほぼ毎月仕入れでインドネシアに入ります。
(できの悪い、兄弟のために苦労の絶えない主人ですが)


済州島は観光地です。景色が最高に綺麗、海が綺麗、海鮮物が豊富で食べ物が美味しい。
デコポンなどのみかんの産地でもあります。
道路は広くとにかく綺麗です。
人はあったかいです。

火山が噴火して溶岩でできた済州島にあるもの3つ(多いもの)
それは、「風」、「石」、「女」
女性が良く働く島だそうです。

済州島にないもの3つ それは、泥棒・ホームレス・門

治安が良いのですね。
今もそうというわけではないようですが(笑

済州島は、地形や気候など、私の生まれ故郷の五島列島とよく似ています。
五島列島の上に、壱岐対馬という島がありますが
天気の良い日は、対馬から韓国の島が見えるといわれています。

考えてみると、とても近いわけです。
私と主人が知り合ったのは、私が看護学生の頃住んでいた大阪ですが、
不思議な縁を感じずにはいられません。


主人は一度墓参りに、両親たちと済州島へ行ったことがあります。
今度はぜひ、主人や子供たちと行ってみたいと思っています。
コメント (8)
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